運の針

砂糖かえで

運の針

 埃とかび臭いが男の鼻腔を刺激した。彼の名は高城礼二。ここは祖父母宅の庭先にある小さな倉庫の中で、先日亡くなった祖父の私物が置いてある。葬式はすでに終わっていて礼二はこのすっかり手入れがご無沙汰な倉庫を掃除していた。

倉庫の中には祖父が長年にわたって集めた珍妙な品の数々が並んでいた。祖父にとってそれらは価値のある物かもしれないが、礼二はただのガラクタとしか思っていなかった。

 そもそも礼二が倉庫を掃除することになったのは大学生の姉、響子が一方的に押しつけてきたからだった。外面はとても良い響子だが、弟の礼二に対してはいつも傲慢な態度をとっていた。礼二はそんな姉が嫌いで、つい一週間ほど前に恋人ができたと惚気る彼女がさらに嫌いだった。

何の面白味もなく埃まみれになりながら渋々と掃除を続ける。今はタンスの整理中。引き出しを開けては物を全部どかして埃を払う。それから引き出しの底を少し湿らせた雑巾で綺麗に拭いて元に戻していく。

単純作業に飽いて休憩を入れようとした時、礼二はふと何かに気づいて手を止めた。視線の先、引き出しの底に違和感を覚えたのだ。それは上から数えて四番目の引き出し。

 礼二はその引き出しの底を指で軽く叩いた後、手の平で押してみた。返ってくる音は軽く、押された底はわずかに沈んだ。

少し考える素振りを見せて、その引き出しを勢いよく引き抜いた。そして逆さにして地面に置き、底を拳で叩く。すると何かが落ちたような乾いた音が響いた。

 引き出しを持ち上げると、そこには小さな木箱と古ぼけた薄い日記帳があった。それらの周囲を白い発砲スチロールが覆っていて外れた薄い木の板が下敷きとなっている。

 そう。四番目の引き出しは二重底だったのだ。

礼二は小さな木箱と古ぼけた薄い日記帳を拾い上げた。日記帳を脇に挟み、さっそく小さな木箱の中身を確認する。箱の中には、銀に光る長い針が入っていた。長さは小指ほどで黒いクッション材で指輪の如く大層丁寧に保管されていた。

「なんだこれ」

 金目の物かと期待した礼二は落胆の表情を見せる。箱に蓋をして棚に置くと、脇に挟んだ日記帳に目をやった。

高城礼司。

日記帳の表紙には達筆な字で祖父の名が書かれていた。礼二とは一字違いで読み方は同じである。

祖父の礼司は戦前生まれで信じられないような波瀾万丈の人生を歩み、生き抜いて、先日眠るように死去した。

礼二は自分の名前がそんな祖父にあやかって付けられたことを両親から聞かされていた。

 礼二は何とも言えぬ不思議な気分で日記の表紙をめくった。


『私の子孫たちが窮地に陥った時のためにこの針を残しておく。この針は「運の針」と言い、一刺しすればその者の運を吸い上げ、次に刺す者へそれを流す魔法の針だ。

これが読まれたということは、今がその窮地なのだろう。あるいは好奇心か偶然か。いずれにせよ、目の前に立つ君のために針の使い方を書き残す』


 そこまで読んで礼二は一旦日記を閉じた。あとで読もうと考えたらしく日記も棚に置いて掃除を再開した。他の珍妙な品々には無関心な礼二だったが、運の針には少なからず関心を抱いたようだった。

 倉庫の掃除を一通り終えると、家族に見つからないよう木箱と日記を持ちだし、自分のリュックサックに入れた。

 そうしてまんまと帰宅した礼二は夕食を食べて自室に行った。質素な部屋の片隅にはあのリュックサックが置いてある。そこから木箱と日記を取りだして机の上に置いた。

 日記帳を開いてあの時の続きから読み始める。


『運の針は刺された者が望む幸、または望まない不幸を吸い上げる。

 幸を吸い上げた針を刺せば、その者には刺された者の望む現実、もしくはそれに近い現実が訪れる。

不幸を吸い上げた針を刺せば、その者には刺された者の望まない現実、もしくはそれに近い現実が訪れる。

 そして刺された者は、幸を吸われれば現実が望まないものとなり、不幸を吸われれば現実が望むものとなる。

 如何なる場合でもやり直しはできない。だから吸い上げた運を再び持ち主に刺しても返すことはできない。

 幸を吸ったのか不幸を吸ったのか、見た目では判断できない。それは使い手の君が慎重に見極めてくれ』


 頭の中を多くの情報が一気に駆け巡り、礼二は混乱する。そのためか一度目を閉じて深呼吸をした。それから再度日記に目を落とし、運の針のルールを整理する。

 まず前提としてやり直しはできない。吸い上げた運は返却不可能。

幸を吸ったのか不幸を吸ったのかは分からない。

針を誰かに刺し、幸を吸えばその人を不幸に、不幸を吸えばその人を幸にする。

運を吸った針を自分に刺せば、幸もしくは不幸になる。

 といったように、礼二はルールを噛み砕いて自分なりに理解した。本当に効力があるのかどうかは半信半疑だが、ルールを知ったからには試してみたいと感じたようだ。日記の続きには針を刺しても痛みは伴わないと書かれてあり、とりあえず姉の響子で試してみようと考えた。

 礼二は運の針を人差し指の裏に隠して下の階のリビングへと向かった。

 響子はリビングのソファーで寝転び、くつろいでいた。母はキッチンで夕食の後片づけをしており、父は別のソファーに座って響子と一緒にテレビを見ていた。

 礼二は完全にリラックスしている響子の足元に自然な動作で近づいていく。針を少しだけ指先から出し、ソファーの肘掛けに載った響子の足に、ちくりと触れるように軽く刺した。そのまま針を引っ込めて、鼻先に手を持っていく。響子は針で刺されたことに気づいた様子はなく、テレビを見てけらけらと笑っていた。

 礼二は心の中でよしと頷いて食卓についた。響子にどんな変化が起こるか観察するためだ。針の効果が現れるのはまちまちで早ければ刺した直後、遅い時は一ヵ月近くかかったと日記には書いてあった。

しばらくキッチンからリビングの響子を観察してみたが、なかなか効果は目に見えて現れない。それどころか、嫌いな響子を観察することによって、礼二の苛立ちは増していくばかり。無意識に歯を擦り合わせ、貧乏揺すりを始める始末。

結局、礼二は響子が入浴しに行くまでの約一時間半観察し続けた。気長に待つしかないか。礼二はため息をついて自室へ疲れた足取りで向かった。

 翌日の昼。

礼二は自室で祖父の日記を読んでいた。今日は世間的には日曜日。高校生の礼二は部活動に入っていないので基本的に休日だ。

しかしせっかく休日なのになぜどこにも行かないのか。なぜ青春を謳歌しないのか。それは仕方がない。礼二には友人と呼べる人物が一人しかいないのだ。その友人とも最近はほとんど遊ぶ機会がないため、礼二の休日といえば家で怠惰に過ごすくらいだった。

 集中力がない礼二は日記を読んですぐ中断すると背伸びをしながら椅子の背もたれにもたれかかった。机の上で開いている日記のページにはこう書かれている。


『できればこの運の針は使ってほしくない。使い方を間違えれば恐ろしいことになるからだ。しかしこれを読んでいる君はきっと使ってしまうだろう。もしかすればすでに使っているかもしれない。

 だから私は運の針を使う前あるいは使って間もない君に戒めの言葉を残す。この針に人生を翻弄された愚か者の話としてぜひとも最後まで読んでほしい。

 そもそも私がこの針を手に入れたのは二十五歳の時だ。元々珍妙な品々を集めることが趣味で休日にはあちこちの骨董品店を回っていた。そしてとある日、私は運の針を偶然見つけた。そこの店主に聞けば、何でも曰く付きの品で買い手が全く現れなかったらしい。

だが私はそれを一目見て、心を奪われた。

 今思えばこの時、私は運の針に使い手として選ばれたのだろう。

結局、私は運の針を捨て値で購入して家に持ち帰った。

 使い方の説明書などは付いておらず店主に言われた短い言葉だけが頼りだった。

「一刺しすればその者の運を吸い上げ、次に刺す者へそれを流す」というものだ。

 私は新しいおもちゃを与えられた子供のように試行錯誤していき、ついに法則と言うべきものを発見し、使い方を理解した。最初は半信半疑だった私も試行錯誤するにつれて針の効果を実感し、完全に本物だと確信した。

使い方を知った私はさっそく自分の思うままに使っていった。

金運の上昇。人間関係の広域化・高感度の上昇。出世街道を突き進む順調な仕事。全く病気にならない健康な体。気に入らない者への悪戯。

効果は見る見る現れ、私は神になった気分になった』


 礼二は再び日記に目を落とした。それから続きを読むのかと思いきや席を立って部屋から出ていった。どうやら下のリビングへ休憩しにいくようだ。

 階段を下りているとリビングのほうから響子のすすり泣く声が聞こえてきた。何事だと礼二がリビングに入ると、響子がソファーに体育座りをして泣いていた。その様子を母がキッチンからどうしたものかと困惑した顔で眺めている。

 礼二は母の元に向かい、

「何かあったの?」と小声で聞いた。

「うーん。響子の彼氏が何股もかけていたみたいで、さっき喧嘩別れしてきたんだって」

「ふーん」

 礼二は内心いい気味だと思っていた。同時に針が本物だと確信した。食器棚からコップを取りだして水を一杯飲み、姉の泣く姿を見ながらリビングを出た。

自室に入った途端、礼二の口元が大きく緩んだ。心臓の鼓動を高鳴らせながら一歩一歩前に足を進めていく。机の前までやってくると木箱を開けて運の針を手に取った。

礼二はくぐもった笑い声を漏らして自分の手に運の針を刺した。

痛みはなかった。

 昼休みを告げるチャイムが教室中に鳴り響く。その瞬間、生徒たちはやっと終わったと緊張を解き、担任教師は授業の終わりを告げた。生徒たちは雑談を始め、ある者は席を立ち、ある者は昼食を食べ始めた。

礼二の席にとある男がやってくる。その男は友人の忠義だった。二人の関係は小学校時代からの付き合いと長い。唯一の友人であり親友と呼んでも過言ではなかった。

「礼二。一緒にご飯食べよう」

 忠義は礼二の前に立ち声をかける。外見は色白ですらっとしており、声色からも分かるように気弱な性格の持ち主だった。

「ああ」と礼二は一言返して机の上に母の作った弁当を置く。忠義は近くにある椅子を借りて座り自分の弁当を礼二の机に置いた。

「なんか今日の礼二、機嫌いいよね。何かいいことでもあったの?」

「ちょっとだけな」

 忠義の問いに、礼二はそう答えた。確かに今日の礼二は機嫌が良く、いつもなら右から左へ聞き流す授業内容もしっかりと聞いていた。なぜ機嫌が良いのかは言うまでもないだろうが、言うとすれば昨日、幸を吸い上げたであろう針を自分に刺したからだった。

「もし良ければ教えてよ」

 忠義は興味ありげに聞いた。それに礼二は、

「うるさい姉貴が彼氏と別れたから」

 弁当の蓋を開けながら淡泊に返答した。

「え、もう別れちゃったの? 確か付き合い始めたのは1週間くらい前だったよね」

「なんか彼氏が何股もかけてる奴だったんだってさ」

「そうなんだ」

 礼二の返答を聞き、忠義はほっとしたような少し嬉しそうな表情を浮かべた。すると礼二はそんな忠義を見て、

「なんだよ。まだ諦めてなかったのか」

 呆れた口調で言った。

「……うん」

 忠義は気恥ずかしそうに俯く。忠義は響子のことが好きなのだ。それも小学生の頃からずっと。気が弱いにもかかわらず、勇気を出して一度だけ告白したことがあるらしいが、結果は見ての通り、玉砕に終わった。

「あんな奴のどこがいいんだよ? 外では八方美人で、家では本性を現してわがままし放題」

「……僕にもよく分からないよ。でも未だに好きってことは、響子さんに特別な何かがあるんだと思う。本当、毎日響子さんに会える礼二が羨ましいよ」

「特別ねー……」

 礼二は普段の響子を思い浮かべながら呟き、ふっと自分の胸ポケットを見た。その中には学校に持ってきた運の針が入っている。運びやすいよう、木箱からプラスチック製のミニケースに移したようだ。

 それからしばらく会話もなく、2人が黙々と弁当を食べていると、

「高城君。ちょっといいかな」

 クラスメートの女子が礼二に声をかけてきた。礼二は何だと振り向く。

「あの子が高城君に用があるって」

 その女子は教室の外を指さした。そこには見慣れない1人の女生徒が立っていた。上履きの色を見るに、礼二たちと同じ学年だろう。

「……かわいい子だね」

 忠義はぽつりと感想を漏らす。それに礼二は心の中で同意して立ち上がり、彼女の元に向かった。教室の外で待つ彼女はショートヘアで身長は小さめ。子犬のような愛らしさがあった。礼二はそんな彼女の前に立つと、

「……何の用?」

 涼しい顔でそう言った。すると彼女は頬を朱色に染めて、

「あ、あの……こ、これ読んでください」

 礼二とは目を合わせずに手紙を手渡した。次の瞬間、彼女は脱兎の如く走り去っていった。そして完全に見失った頃、

「…………」

 礼二は渡された手紙を見た。それはハート型のシールで封をされた薄い桃色の封筒。礼二はすでにラブレターだと勘づいており、何でもないように自分の席へと戻っていった。その間、教室中の生徒が礼二をじっと見ていた。羨みや嫉み、驚きの目で。

「……もしかしてラブレター?」

 礼二が席に着くなり忠義が目を丸くして聞いた。

「たぶんね」

 礼二はもう知っているという顔をして答え、手紙の封を開ける。中には1枚の便箋が入っていた。礼二はそれを広げて文面に目を通す。

「…………」

 やはりと言うべきか、その手紙はラブレターだった。詳しい内容は割愛するが、礼二への思いが長々と綴られており、放課後に体育館の裏へ来てほしいとあった。

 手紙を読み終えた礼二は便箋を畳んで封筒に戻し、机の中に入れた。そして止まらぬ胸の高鳴りを抑え、落ち着けるために、鼻から大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 放課後。礼二が文面通り体育館裏に行くと、手紙の主が待っていた。告白場所の定番ということで、辺りに人気はなく、雑音も少ない。礼二は彼女の1メートル手前で立ち止まり、じっと顔を見た。そうすると彼女は恥ずかしそうに顔を逸らし、

「あ、あの、えっと……来てくれてありがとう」

 そう言った。

礼二は返事をせずに微笑み、次の言葉を待つ。その態度からは余裕が感じられるが、実際は極度に緊張していた。何しろ告白されるのは人生初なのである。

彼女はもじもじと落ち着きのない手を止め、小さく深呼吸をすると、

「私と、付き合ってください」

 礼二の目を見て告白した。礼二は無駄に5秒ほど焦らしてから、

「いいよ」

 その想いを受け取った。次の瞬間、彼女の顔にパッと笑顔が灯る。その笑顔は第三者が見ても、思わず心が緩んでしまうほどの破壊力があった。きっとそれは青春時代にしか見ることのできない貴重なものだからだろう。

「それで、手紙には書いてなかったけど、君の名前は?」

「え、あ……春香です」

 礼二の問いに、彼女は自分の名を名乗った。

「じゃあ……春香ちゃん。これからよろしく」

 礼二は恋人の名を呼び、片手を差しだす。春香はその手を両手でぎゅっと握り、

「……うん。よろしくね」

 笑顔で照れくさそうに返事をした。礼二はそんな春香の顔を見て、忠義が響子に告白した時もこんな感じだったんだろうか、と思った。そして二度目の告白をしようとしている忠義に、心の中でエールを送った。


あの後、春香と連絡先を交換した礼二は浮かれた気分で帰宅した。そのままリビングに直行し、まだショックから立ち直れていない響子の顔を見に行く。響子はすでに帰宅しており、リビングのソファーで大きなクッションを抱いて寝転んでいた。

響子はソファーの後ろに立つ礼二に気づいて振り向き、

「……何よ、その顔」

 しゃがれ声でそう言った。目は赤く充血しており、どうやら昨晩だけでは足らず、また泣いていたようだ。礼二はそんな響子の顔を見ながら、

「なんでもない」

 優越感たっぷりの表情で返事し、その場から去っていく。途中で後ろから、

「ムカつく。死ねばいいのに」

 と、呪うような響子の言葉が聞こえてきたが、礼二は気にもせず悠然と自室へ向かっていった。今の礼二には、嫌いな響子を容易に許してしまえるほど余裕があるのだ。それこそ黒い罵声が黄色い歓声に聞こえるほどに。

 自室に入った礼二はカバンを置いて、イスに座った。そして机の引き出しから祖父の日記を取りだして、続きを読み始めた。


『人間の欲は底なしだとはよく言ったものだ。骨董品にしか興味のない地味な私がこんなにも欲にまみれるなんて思いもしなかった。

 それからも私は際限なく欲を満たしていった。現状では満足できないという心の声を聞いたように、針の効力も増していった。

 本当にその時は極楽であり、楽園だった。不意に夢か幻覚なのではと思ってしまうほどに、それくらいに現実離れしていた。

 今思い返せば、当時の私は完全に別人だった。それでも当時の私は自身の変化に気づくことができなかった。針の魔力のせいか、文句を言う者も誰1人としていなかった。

そして神になったつもりの私へ、ついに天罰が下った。

私はさらに昇進するべく、いつものように慣れた手つきで、出世を渇望していそうな同僚の1人に針を刺した。それから幸と不幸、どちらを吸い上げたのか判断するため様子を見ることにした。すると後日、私は仕事上で致命的なミスを犯してしまい、退職を余儀なくされた。

なぜ。どうして。私は焦った。

針で刺した同僚に何も変化が見られぬまま、私は会社を去った。幸い、広げた人間関係のおかげで再就職することができた。できたのだが、築き上げた人間関係も地位も、そこでは一からやり直しだった。加えて私には、運の針が幸と不幸、どちらを吸い上げたのか分からなかった。

 私はひたすら悩んだ。そして運の針を使うことに対して臆病になった。自分に針を刺すとすれば幸か不幸、確率的には2分の1だが、私には天国と地獄の二者択一にしか思えてならなかったのだ。

 結局、私は針を自分に使うことを諦め、新しい会社の同僚で試すことにした。針を刺した同僚は人が変わったようにめきめきと仕事をこなしていき、1カ月ほどで立派な出世候補となった。その時私は気づいた。幸を吸っていたのだと。

考えてみれば、本当に簡単なことだった。彼は予想通り出世を望み、私が会社からいなくなることを望まなかったのだ。彼に何の変化も見られなかったのは、出世したいという幸を吸い上げたからなのだろう。それほどまでに、私は影響を与えていたのだ』


 そこまで読んだ時、礼二の携帯電話が鳴った。礼二は栞を挿んで日記を閉じ、携帯電話を確認する。春香からメールが1通届いていた。内容はこれからよろしくという簡潔なものだが、女の子らしく絵文字がたくさん使ってあった。

 礼二はそれを見て口元を緩め、当たり障りのない文章を打ち込んでいく。返信し終わると、おもむろに制服の胸ポケットからミニケースを出し、運の針を取りだした。そして部屋の電灯にかざし、宝石を見るような目で見つめ、にやりと笑った。

その針はすでに、誰かから運を吸い上げていた。


 翌日。礼二が登校して教室に入ると、クラスメートたちがざわついていた。礼二は着席している忠義の元に行き、

「何かあったの?」

 そう聞いた。すると忠義は心配そうな表情を見せ、

「吉田さんが学校の近くで交通事故にあったんだって」

 と答えた。それを聞いた礼二は一瞬息が止まり、顔が真っ青になった。心臓の鼓動も一段と速くなる。その様子を見た忠義は、

「……どうしたの礼二? 顔が真っ青だよ」

 怪訝な目を向けて問うた。だが礼二は、

「……ケガの具合は?」

 返答せず、強張った青白い顔でさらに聞いた。

「……えっと、聞いたところによると、足を骨折したみたい」

 忠義は今まで見たことのない礼二にたじろぎながら答える。

「それだけか?」

「あ、う、うん。それと命に別状はないって」

「……そうか」

 その瞬間、礼二はほっと胸を撫で下ろした。真っ青だった顔も、速くなっていた心臓の鼓動も、だんだん落ち着いていく。そうしていつも通りの礼二に戻ると、

「さっきはびっくりしたよ。礼二があんなになるなんて」

 忠義は安心したように言った。

「ああ。ごめん」

「いや、別に謝らなくてもいいんだけどさ。さっきの礼二は、まるで吉田さんが死んだんじゃないかってくらいの顏だったよ」

「……普通、クラスメートが事故にあったら心配するだろ。もし死んだりしてたら寝覚めが悪いし」

 確かに吉田が死ねば、礼二は寝覚めが悪いだろう。自分が昨日、運の針を刺した相手なのだから。

「礼二は優しいんだね。なんか僕の心配がちっぽけすぎて恥ずかしくなってくるよ」

「…………」

 言葉をそのまま良い方向で受け取る忠義に、礼二は何も言うことができなかった。


 そうして、ホームルーム終了後。

担任から吉田は元気だと正式に聞かされた礼二は席を立ち、どこかへと向かった。階段を上り下りしてしばらく歩き、辿り着いたのは専門教室近くのトイレ。礼二はそこが1番人気の少ないトイレだと知っており、中に入っていった。

予想通り人は少ない、というよりは全くいなかった。礼二は一応人がいないかを確認して、鏡の前に立った。何をするのかと思いきや、胸ポケットからミニケースを出して運の針を取りだした。

吉田から運を吸い上げたその針は、薄暗いトイレに差し込む日光を反射し、妖しく銀に光る。それは礼二に早く使えと言っているようであった。しかし、礼二はなかなか使おうとしない。どうやら、まだ吉田のことを気にしているようだ。

礼二は悩む。この針を使ってしまって、本当にいいのだろうか、と。

だがせっかく手にした力。使いたいという気持ちが礼二の良心を圧迫する。

この針は使わないと宝の持ち腐れだ。強すぎる力に多少の犠牲は付き物だ。この世界はどこかで誰かが幸せになれば、どこかで誰かが不幸になる。自分にはただそれが見えてしまっただけだ。この世は正直者がバカを見るし、もっと悪い奴らだっている。だから気にする必要はないんだ。仕方がないんだ。

そのように礼二は自分を納得させていき、やがて決断した。

礼二はゴクリと唾をのみ、運の針を持ち上げる。そして鏡を見ながら、ゆっくりと自分の首に持っていき、喉元に、刺した。

 今回も痛みはなかった。けれど心が痛んだ。


 放課後。礼二は久々に忠義と帰ることにした。礼二が一緒に帰ろうと誘うと忠義は喜んで快諾し、2人は学校を出た。帰り道の途中、2人は寄り道をし、最寄りのスーパー横にある宝くじ販売所に着いた。礼二の提案だ。

「くじ買うの?」

「ああ。絶対に当たるから、まぁ見てろ」

 礼二はそう言って販売所の窓口に向かう。忠義はその言葉を冗談だと受け取り、「そんなわけないよ」と笑って言いながら、礼二についていった。

 礼二は窓口でスクラッチくじ2枚を購入すると、その場でスクラッチを削り始めた。横から忠義が興味ありげに覗き込む。そうして1枚目のスクラッチを削り終えた瞬間、礼二はにやりと笑い、忠義は目を丸くした。

「すごい! 1等だよ! 本当に当たったよ!」

 そう声を上げて驚く忠義を横目に、礼二はもう1枚のスクラッチを削っていく。その結果は、礼二のしたり顔だけでもう判断することができた。

「どうしてどうして! 何で当たるの! すごいよ!」

横で目を輝かせて興奮する忠義。窓口の職員も気になるようで、2人のほうをじっと見ている。そんな中、礼二は平然と窓口に向かい、今度は数字選択形式の宝くじを1口分購入した。6つの数字を選択するもので、1等は2億円だ。

「……坊や、さっきのくじ、本当に当たったの?」

 窓口の女性は礼二にお釣りを渡すや否や、そう聞いてきた。すると礼二はその女性の眼前に削り終えたスクラッチくじ2枚を提示し、

「1等と2等。250万」

 と言った。礼二の提示したスクラッチくじは、1等200万円と2等50万円が当選していた。窓口の女性はそれを見て驚き、言葉を失った。

礼二は驚くその顔を数秒ほど見た後、手を引っ込めて当選したスクラッチくじを胸ポケットに入れた。そして振り向きざまに、

「忠義、もう帰ろう」

 と言って販売所から離れていった。忠義はその声を聞くと、

「あ、うん」

 興奮状態から覚め、慌てて礼二の後を追っていった。


 あれから2人は本屋に軽く立ち寄って、その後真っ直ぐ帰宅した。すでに帰宅している響子をまたもからかいに行くのかと思いきや、礼二はそのまま自室に直行した。

 自室に入った礼二はカバンを置き、倒れるようにベッドへ寝転んだ。その顔はかなり疲れているように見える。おそらく吉田の件があったせいだろう。

 礼二はその状態で目を閉じて体を休める。決して寝ることはなく、ただ目を閉じているだけ。しんと静かな部屋の中で、時計だけが確かな音を発し、時を刻んでいく。それにつれて窓の向こうの風景も、夕方から夜へと変わっていった。

 やがて父が帰ってきたらしく、玄関の開く音が礼二の耳に届いた。そうすると礼二は起き上がってベッドから降り、首を回しながら部屋のカーテンを閉めた。そして夕食を食べるために下のリビングへと向かった。

 リビングでは母と響子が夕食の配膳をしており、父は疲れた顔で首元を緩め、食卓についていた。礼二は配膳を手伝うことなく食卓につき、

「換金しておいて」

 と言って、配膳中の机に当選したスクラッチくじ2枚を叩きつけるように置いた。

「……何なのよあんた。偉そうに」

 配膳中の響子は礼二の態度に立腹し、机に置かれたスクラッチくじ2枚を手に取って見た。次の瞬間、

「え、嘘、でしょ……」

 響子の顏が驚きの色で染まる。その様子を見た母は自分もと横から覗き込み、

「……あら、まぁ……」

 響子と同じような反応をした。

「あんた、これどうしたの?」

 響子は不正行為でもしたじゃないのと言わんばかりの形相で礼二に詰め寄る。だが礼二はそんな響子に臆することなく、

「どうしたも何も、買ったら偶然当たっただけだよ」

 すまし顔でそう答えた。

「まぁ、姉さんが今日から俺に対する態度を改めてくれれば、30万くらいあげてもいいかな」

 礼二は言葉を連ね、響子に取引を持ちかけた。それを聞いた響子は眉をしかめるが、なかなかいらないとは言わない。やはり30万円という大金を前にしたからか。響子は手に持ったスクラッチくじを見ながら、金と姉としてのプライドを天秤にかける。その天秤は最初全く動かなかったが、徐々に傾いていき、

「分かった。今日から態度を改めるから、30万ちょうだい」

 金のほうを選択した。姉としてのプライドは30万円にも満たぬ、薄く浅いものだったようだ。

 礼二はそんな響子を見て、愉快だと心の中で大いに笑い、

「言葉遣いがなってない。やり直し」

 言葉の訂正を要求した。それにはさすがの響子も、眉をピクリと動かして苛立ちを見せる。しかし、

「今日から態度を改めるので30万円をください。お願いします」

 グッと堪えて響子は言い直した。

「……うーん。まぁ合格かな。んじゃ、残りは父さんと母さんにあげるよ」

 響子を屈服させて満足した礼二は、残りの当選金を両親にプレゼントした。両親は礼二の言葉と様子に驚いて、ただただ呆然としていた。


 夕食ならびに入浴後。しばらくリビングにいた礼二は家族団らんの輪から抜けだして、1人自室へと戻った。中に入ると電灯の明かりを点け、机前のイスに座る。そして机の引き出しから祖父の日記を取りだし、続きを読み始めた。


『一時の不安が解消されてほっとした私は、再び運の針を使おうと画策し始めた。だがその時、私の心底では新たな不安が芽を出した。その芽を私は知っていた。確か針の使い方を模索している時に感じた不信の芽だ。

 運の針を使用するには、相手の望む幸と望まない不幸を見極めなくてはならない。私はその見極める自分が信じられなくなったのだ。

 いつものように誰かの望む幸と望まない不幸を予想しても、これで合っている、と自信を持つことができない。なかなか運の針を使うことができない。

 きっと今までが上手くいき過ぎだったのだろう。本来、人の望む幸や望まない不幸は他人には見えないもの。それを私はあたかも見えているように予想し、長い間勝ち続けてきた。それこそ完勝と言っても良いくらいに。

 結局、私は自分に頼ることをやめた。そして、今度は他人に頼ろうと考えた。そう、主観を捨てて、直接本人に聞くのだ。望む幸と、望まない不幸を』


 今日読まれたのはここまでだった。礼二は栞を挿んで日記を閉じると、机の上に置いてあるミニケースとともに引き出しの中へしまった。

礼二はイスから立ち上がり、机の電灯と部屋の電灯を消し、疲れた様子でベッドに横になった。いつもよりも、早い就寝だった。


 翌日。礼二はまたもや運の針を学校に持ち込んでいた。昨日の件があったにもかかわらず、まだ使おうと考えているようだ。それどころか、祖父の日記を読んで自分はこのようには絶対ならない。もっと上手く使ってみせる。と思っているようだった。

礼二が今回狙うのは、クラスの片隅で1人ぽつんと座っている男子生徒。見た目からして友達がいなさそうな雰囲気を漂わせている。

 礼二はその男子生徒に近寄り、肩を叩いた。

「暇なら話そうよ」

「……え、僕と?」

「そうそう。あとこれもちょっと試してみたくて」

 きょとんとした男子生徒に、礼二は左手に持った手相の本を見せた。これは昨日立ち寄った本屋で買った物。話しかける際の話題作りに利用でき、かつ自然に手を差しださせることもできる優れた本だ。

「ちょっと利き手の逆を出して」

 礼二が男子生徒の前に座り、そう言うと、

「ああ、うん」

男子生徒はおずおずと左手を差しだしてきた。その手の下に、礼二は甲を上に向けた状態で右手を入れる。そして裏返し、手を軽く持ち上げる動作とともに、中指裏に潜ませた運の針を、刺した。直後、もう一度右手を裏返して胸元まで持っていき、胸ポケットに針を落とす。後は適当に本の内容を話し、この場から離れるだけだ。

礼二は男子生徒の手を見ながら本の内容を話し、頃合いを見計らって説明を終え、アドバイスをした。それに男子生徒は納得したように頷き、ありがとうと言った。礼二はどういたしましてと笑顔で返し、あくまで自然に離れていった。


 帰宅後。礼二は自室にこもって、春香とメールをしていた。聞けば春香は美術部に所属しているとのこと。それならと礼二は日曜日に美術館へ行こうと誘った。返信はすぐに来た。それは喜ぶ顔が透けて見えるような快諾の返事だった。

 春香とデートの約束を取りつけた礼二は嬉しそうににやにやと笑う。これが正真正銘初めてのデートとなるのだ。礼二は舞い上がった気持ちでベッドから降りると、机前のイスに座り、小さな電灯を点ける。そして引き出しから祖父の日記を取りだし、深呼吸をしてから続きを読み始めた。


『運の針を使うべく、私は再び動き始めた。最初の標的は誰がいいだろうか。やはり刺した後に観察できる近しい者でないと厳しいだろう。

そこで私が狙いを定めたのは、笑顔が爽やかな同僚の男性。同僚と言えば、私が前の会社をクビになり、自分不信となった原因である。だが、同僚という立場は近すぎず遠すぎず、悪く言えばとても利用しやすい位置にいたのだ。

私から話しかけると彼は気さくに言葉を返してくれ、飲みに誘うと快諾してくれた。これも前に使った針の効果が残っているおかげだろう。

 それから私は酒の席で彼から本心を聞きだした。この方法は以前から使っており、成功率もまずまずだった。案外、酒が入ると心の底から望むことや望まないことを漏らしてしまうのだ。

私は一度だけでは信用することができないため、念入りに何度も、何度も、何度も彼を飲みに誘った。

 そうして苦労の末、私は確信する。彼の望みは出会いがほしいということ。望まぬは社内における人間関係の悪化。

 運の針を使いだしてからかなりの月日が経っていたため、私ももう良い歳だ。そろそろ結婚を考えねばならない。だから丁度いいと思った。

 私はさっそく懐から運の針を取りだし、彼にそろそろ帰ろうと切りだした。酔いが回っているであろう彼はほんのり赤い顔で分かったと頷いて、帰宅の準備を始める。私はその時を狙い、彼の首筋に軽く刺した。

 その後、私たちは居酒屋から出て同じタクシーに乗った。私の住むマンションに先に到着し、私がタクシーから降りると、それは起こった。

 突然、私の視界が大きく揺らぎ、立っていられなくなったのだ。決して酔いのせいではない。数秒ほどで視界の揺らぎは治まり、元の景色が戻ってきた。

 私は一瞬、脳の病気を疑った。だが前に使った針の効果が残っているはずだと否定し、病院に行くことなく、その日は家に帰った。

 帰ったのだが、私は自分の部屋に入れなかった。いくら頑張っても、部屋の鍵が合わなかったのだ。私は困惑し、すぐさま大家さんの元に向かうが、何度チャイムを鳴らしても反応がなかった。結局、私は再び街に向かって時間を潰し、徹夜をした。

 そして次の日。

 寝不足とはいえ、遅刻するわけにはいかないため、私はよれよれのシャツとスーツで会社に向かった。いつものように会社に入って受付を通り過ぎ、タイムレコーダーに自分のタイムカードを挿そうとする。だが、自分のタイムカードが見つからなかった。何度捜しても見つからない。

 不思議に思った私は受付に戻り、受付嬢になぜ自分のタイムカードがないのか聞いた。そうすると受付嬢は社員証の提示を要求し、私は素直に応じた。社員番号と名前を見た受付嬢は社員名簿を確認し始めた。

数分ほどで確認し終えた受付嬢は、首を傾げて私の名前はないと言ってきた。当然私は混乱し、本当にないのかと再度問うた。しかしそれでも返ってくる答えは、またもや同じだった。

おかしいと思った私は直接上司に会いに行こうと考えたが、ふとその時、悪い予感が脳裏をよぎった。私は一気に不安になり、その場から一時退散することにした。

会社から出た私は上司に連絡を取るべく、公衆電話を捜した。そして公衆電話を見つけるとポケットから小さな電話帳を取りだして開いた。

だが、そこに上司の名前はなかった。それどころか、ほとんどの名前が消えていることに気づいた。残っているのは、運の針を使う前に書いた名前くらいだった』


 怒涛の展開に驚いて一気に読んでしまった礼二。楽しみをとっておくように、続きは明日読もうと考え、栞を挿んで日記を閉じた。それから運の針が入ったミニケースと日記を引きだしに入れ、下のリビングへと向かった。


 翌日のこと。礼二は朝から校内をストーカーのように動き回っていた。昨日、針を刺した男子生徒を観察するためだ。ふとした瞬間に針の影響が現れるかもしれないと、気は抜けなかった。

 その男子生徒は、基本的に休み時間は教室で過ごしていた。だが時より、遠くのトイレに行くため、礼二は怪しまれてしまうと困っていた。

 そして昼休み。男子生徒がどこかへ向かったので、礼二は忠義との昼食を中止し、後を追った。忠義はその後ろ姿を、口をポカンと開けて見送っていた。

 教室から出た男子生徒は肩を落としながら歩き、最寄りのトイレに入っていった。さすがにトイレまでついていくのは気が引けるため、礼二は少し離れたところで窓の外を見ながら待機することにした。

 数分後。礼二が長いなと思っていると、トイレのドアが開いて中から誰かが出てきた。それはあの男子生徒ではなく、別の男子生徒2名。2人とも礼二のクラスメートだった。その2人はげらげらと笑い、内1人は手に財布のような物を持っていた。

 何かあったのかと礼二はトイレに向かう。だが途中で、トイレのドアが開き、中から針を刺したあの男子生徒が出てきた。制服は酷く乱れて、顔には青あざができており、虚ろな目になっている。

 礼二はそんな男子生徒と目が合った。しかしその男子生徒はすぐに視線を逸らし、とぼとぼと教室ではない別のどこかへと歩いていった。礼二はその背中をただただ言葉なく、見ているだけしかできなかった。

 その後も礼二は気鬱な様子で男子生徒の観察を続けた。青あざのできた彼が教室に戻っても、クラスメートは心配することはおろか、話しかけることすらしなかった。ただの1人を除いては。

その1人とは、忠義だった。忠義は彼の顔を見るや否や話しかけ、心配そうな様子で彼を保健室に連れていった。その光景を見た礼二は何もしなかった自分が恥ずかしくなり、すぐさま目を閉じて、見なかったことにしようと、忘れようとした。

 放課後。相変わらず礼二が観察対象をつけ回していると、彼が自分の靴箱前で動きを止めた。どうしたのかと思いきや、彼は自分の靴箱から何やら小さな封筒を取りだし、中身を確認し始めた。どうやら手紙のようだ。

 彼はその手紙を読むにつれて、表情がだんだんと緩んでいった。その様子を見るに、脅迫の類ではないらしい。礼二は彼の様子から、その手紙がラブレターだと推測した。

 彼は手紙を読み終えるとカバンに入れ、希望を取り戻したかのような目で靴を履いてどこかへと向かった。礼二は告白現場に向かうのだろうと、自分も靴を履いて後を追った。

彼の後を追う礼二が辿り着いた場所は、北校舎と中校舎の間にある花壇だった。礼二は見つからないよう建物の陰に隠れて様子を窺う。人の告白を覗き見するのはあまり趣味が良いと言えないが、礼二は何とも思っていないようだった。

彼は花壇の前に緊張した様子で立っており、それを見た礼二は自分が告白された時のことを思いだして、浸りながら観察を続けた。

 それから彼と礼二はひたすら待った。

 やがて真っ赤な夕日が差し、日が落ち、辺りはだんだんと暗くなっていった。空気はほんのり冷えて、教室からの明かりが彼を照らしだす。最初は希望に胸を膨らませつつ、緊張した顔だった彼も、時間の経過とともに表情が曇っていった。

さすがにおかしいと思った礼二は、とある結論に辿り着いた。あのラブレターは偽物で彼は誰かに嵌められたのではないかと。そして彼が昼休みといい、こんな目にあうのは自分が望む幸を吸い上げたからではないかと。

罪悪感を覚えた礼二は建物の陰から出ると、彼のいる場所に向かい、

「……何やってるの?」

 そう声をかけた。すると彼は振り向いて、

「……君は確か、手相をやってくれた……」

 礼二に虚ろな目を向けた。

「まだ残ってる人がいないかって、見回りの手伝いをしてるんだ。君も、もう遅いからそろそろ帰りなよ」

「……ああ、分かった。教えてくれてありがとう」

 礼二から注意を受けた彼は元気のない声でお礼を言い、生気なくゾンビのように帰っていった。

 礼二は彼の背を見送ると、大きなため息をついて、自身も帰路についた。

 今の礼二には、偽善と言う言葉がお似合いかもしれない。いや、もはや偽善と呼ぶことすら、おこがましいのかもしれない。


 家に帰った礼二はそのまま夕食を食べて、入浴した。それから自室に行き、携帯電話と先日買った数字選択式宝くじ1枚を持って、下のリビングに戻った。

リビングのソファーに座った礼二は、携帯電話で宝くじの当選番号を確認し始めた。今日が当選発表日なのだ。そうすると響子が寄ってきて、

「それ宝くじ?」

 と、興味ありげに聞いてきた。

「そうだよ。今当選番号の確認中」

 礼二が淡々とした口調でそう答えると、

「え、見せて見せて」

 響子は一気に目を輝かせて横から覗き込んだ。響子はあの日からというもの、すっかり礼二に対して丸くなっていた。それはただ単に約束を守っているからだろうか。それともまた金を貰えるかもしれないと、期待しているからだろうか。何が正解なのか、響子の様子からは窺い知ることができない。さすが外で八方美人なだけはある。

礼二の持っている宝くじの番号は02・04・07・19・33・41。ボーナス番号は30だ。礼二はゴクリと唾をのみ、当選番号のページを開く。

そこに書いてあった数字は、02・04・07・18・33・41。ボーナス番号は20だった。その瞬間、礼二は悔しげに唇を噛んだ。横から覗く響子は、

「あー! おしい! 後ちょっとだったのに!」

 残念そうな声を上げた。

「ねぇねぇ、やっぱりこの状態だと外れなの? 数字は5つも揃ってるけど」

「……一応は当たってるよ、3等だけどね」

 響子の問いに、礼二は苛立ちが垣間見える表情で答えた。

「3等っていくら?」

「60万」

 礼二がそう答えた瞬間、響子は再び目を輝かせ、

「すごいじゃない!」

 喜びながら礼二の肩を叩いた。その行為でとうとう礼二の顏に我慢していた苛立ちが浮かび上がる。

「別にすごくないって」

 礼二はその顔のまま返事して立ち上がり、携帯電話を閉じると、

「はいこれ。いらないからあげる」

 当選した宝くじを響子に手渡した。それを受け取った響子は狼狽し、

「え、ちょ、ちょっと!」

 上擦った声を上げた。礼二はそんな響子を無視して、リビングから出ていった。

 学生にとって目の眩むような大金を捨てるようにあげた礼二。自身はまだ気づいていないようだが、すでに並のことでは満足できなくなっていた。

 あの後、礼二は自室に戻った。電気も点けぬまま一直線に机へと向かい、小さな電灯を点けると、引き出しからミニケースを出し、運の針を取りだした。

「…………」

 礼二は運の針をじっと見つめる。その目は薬物依存者のようで、穏やかではない。そうして数秒ほど見つめた礼二は針を自分の首筋に持っていき、精神安定剤を打つように、刺した。その瞬間、礼二の視界が大きく揺らいだ。

「ぐ……」

 倒れそうになった礼二は机とイスを支えにし、揺らぎが治まるまで何とか堪える。視界の揺らぎは、数秒ほどで完全に治まった。

「……なんだ今のは……」

 言っていて礼二は思いだした。今の現象は祖父の日記に書かれてあったことだと。

 礼二は胸騒ぎがした。暗い部屋にいることが怖くなり、すぐさま部屋の電灯を点けて、ベッドに潜り込んだ。

「落ち着け、落ち着け。何もない、何もない」

落ち着く状態を作った礼二は、自分に何度もそう言い聞かせる。

暗示にも似たそれは、睡魔が不安を殺すまで、長く、長く続いた。


 翌日の朝。学校に向かう礼二の目下には大きな隈ができていた。結局、ほとんど眠ることができなかったようだ。

 礼二はあくびをしながら学校内に入っていき、靴箱で上履きに履き替えて、自分の教室へと向かった。

 気怠そうな様子で教室に入ると、礼二は何やら違和感を覚えた。別に知らない人物が紛れ込んでいるわけでも、クラス内の備品が変わっているわけでもない。雰囲気が違うように感じたのだ。

「おはよう、礼二」

 礼二が教室の入り口で立ち止まっていると、近くのクラスメートが声をかけてきた。礼二はそのクラスメートに目をやるが、彼とは今までほとんど話したことがなかった。もちろん、今のように声をかけられたのは初めてである。

「……おはよう」

 礼二は怪訝に思いつつも言葉を返し、自分の席に向かう。だがその途中で、今度は礼二に気づいた別のクラスメートたちが、笑顔で挨拶をしてきた。それにはさすがの礼二も気味が悪くなった。なぜなら、礼二は忠義以外のクラスメートとはあまり親しくなかったからだ。

 もしかしてこれは、昨日刺した針のせいか。礼二はそう思い、辺りを見回しながら自分の席についた。すると忠義が寄ってきて、

「おはよう」

 と、他のクラスメート同様に笑顔で挨拶をしてきた。

「お前もか」

「え、何が?」

「ああ、いや何でもない」

 礼二は心の内で思っていたことを反射的に漏らしてしまい、慌てて首を横に振った。それに忠義は不思議そうな表情を浮かべるが、数秒ほどで元の表情に戻った。

 それからしばらく礼二が忠義と雑談を交わしていると、

「よう! 俺も混ぜてくれよ!」

 後ろから元気そうなクラスメートの男子がやってきて、2人の会話に入ってきた。

「あ、陣馬君。おはよう」

「おはよう!」

 陣馬と呼ばれるその男子生徒は忠義と親しげに挨拶を交わし、礼二たちの近くにあるイスに座った。

「……忠義の友達か?」

 きょとんとした顔の礼二が忠義にそう問うと、

「何言ってるの。陣馬君は僕たちの友達じゃないか」

 思わぬ答えが返ってきた。

「え……?」

 礼二は混乱する。自分が陣馬と友達になった覚えなどないからだ。その上、陣馬は礼二が最も苦手とするタイプで、余程のことがない限り、絶対友人にしたくない相手だった。

「俺を忘れるなんて酷いぜ。毎日会ってるってのによ」

 陣馬は冗談だと思っているらしく、身振り手振りをしながら演技口調で答えた。忠義はそれを見て笑いだし、

「あはは、まぁ冗談だよね。でもあまり真剣な顔して言うと、信じちゃうよ」

 笑いながら礼二にそう言った。

「……あ、ああ。そうそう、冗談だよ。おどかしてごめん」

 これも針の影響か。礼二はそう思いながら、忠義に合わせて冗談ということにした。

「まぁまぁいいってことよ。おかげで目が一気に覚めたしな!」

 陣馬は言いながら両手を腰に当てて、高らかに笑った。

 その横で礼二は、静かに作り笑いを浮かべた。


 昼休みになった。礼二は机の上を片づけて、大きく背伸びをする。その顔はどこか満ち足りていて、機嫌が良さそうである。

 それもそのはず。あれからというもの、礼二はクラスメートから、ちやほやされっ放しだった。時には女子からボディータッチを要求され、時には礼二が誰と遊ぶかで男子が争奪戦を行なったり、時には女子から昨日作ってきたというお菓子を貰ったりなど。昔の礼二からは考えられない人気っぷりだった。

最初は新興宗教のようで気味が悪いと思っていた礼二も次第に状況を受け入れていき、これも悪くないと思い始め、今に至るのである。

 礼二がそんな学校生活を送っている一方で、針を刺された男子生徒は今日も教室の隅で1人だった。顏には青あざが残っており、手には昨日はなかった傷跡が。制服もよく見れば破れているところがあった。

 礼二は針を刺したその男子生徒など眼中にない様子で、忠義と昼食の準備を始めた。そうすると、

「おーっす!」

 朝と変わらぬ元気な顔で陣馬がやってきた。手に弁当を持っているところを見ると、礼二たちと一緒に食べるつもりなのだろう。

「いらっしゃい」

 忠義は笑顔で歓迎する。礼二もすぐに愛想笑いを浮かべて歓迎した。

礼二が不快な様子を見せなかったのは、心に大きな余裕があったからだろう。

 3人は1つの机に弁当を置いて囲むように席につくと、さっそく食事を開始した。楽しげに雑談を交わしながら、各々弁当の中身を食べていく。その間も礼二は不快な顔一つせず、陣馬と接していた。それこそ本当の友人のように。

 数分後。食事中にもかかわらず、礼二の元に思わぬ来客があった。

「……来ちゃいました」

 その来客とは、春香だった。基本的に昼休みはそれぞれ教室が開放されているため、出入りは自由。春香は手に弁当を持って、3人の元までやってきた。

「どうぞ」

忠義は気を使って礼二の隣を譲った。春香は小さな声でありがとうと言って礼二の隣に座り、自分の弁当を机に置いた。

「もしかして礼二の彼女か! これはどうもどうも。うちの礼二がお世話になってます」

 陣馬は立ち上がり、春香に向かって保護者のようにお辞儀した。

「いえいえそんな……。お世話になってるのは私のほうで」

 陣馬がふざけてやっているのに気づかず、春香は丁寧にお辞儀を返した。

「あはは。あれはふざけてやってるだけだから、無視してもいいんだよ」

 忠義がそう言うと、

「そう、なんですか」

 春香はポカンとした顔で首を傾げた。そのかわいらしい仕草を見た陣馬は、

「いいねぇ。羨ましいねぇ。こんなかわいい子が彼女だなんて」

 飢えた獣のように春香へと近づいていく。それを制しようと礼二が立ち上がるが、

「こら、陣馬君。礼二の彼女なんだから触っちゃダメだよ」

 忠義が先にそう言って陣馬を制した。

「ん、陣馬君……?」

 春香は忠義の言葉に反応して小さく声を漏らした。礼二はそれを聞き逃さず、

「どうしたの?」

 春香に優しく問いかけた。

「ううん。なんでもない」

 しかし春香は首を横に振るだけで答えなかった。それから弁当の蓋を開けて、いただきますと言い、遅めの昼食を食べ始めた。


「ただいまー」

 結局、終日までクラスメートからちやほやされ続けた礼二は、ご満悦な様子で家に帰り着いた。玄関で靴を脱ぎ、軽い足取りで自室に向かおうとすると、

「おかえりー」

 リビングから笑顔の響子が出てきた。もう完全に前の恋愛から立ち直っているようだ。

「……何?」

「いや、今日は宝くじとか買ってきてないのかなーって」

 響子は首を傾げる礼二に持って回る言い方で聞いた。

「今日は買ってきてないよ。でもそのうちまた買うかもね」

 礼二は胸ポケットに視線をやりながら、棘のない口調でそう答えた。胸ポケットに入っている運の針は、すでに誰かの運を吸い上げていた。

その相手とはクラスメートのとある男子生徒。彼の両親は礼二宅の近所で洋菓子店を経営している。礼二はその洋菓子店が昔からずっと経営不振だということを知っており、彼なら金銭にまつわる望みがあるのでは、と狙いをつけたのだ。

「ふーん……そう」

 響子は喜びを抑えているのが見え見えな顔で礼二に背を向け、リビングへと戻っていった。やはりと言うべきか、またお零れを貰えるかもしれないと期待しているようだった。全く調子のいい奴である。

 礼二はそんな姉に苦笑し、階段を上がって自室に向かった。

 自室に入った礼二は部屋の電灯を点けて、机前のイスに座る。そして引き出しから昨日は読めなかった祖父の日記を取りだした。

 今日は昨日のように恐怖や不安はない。温泉に浸かっているような気分で、礼二は栞の挿んであるページを開いた。

 未読ページはもう残り少ない。確実に、終わりが近づいていた。


『上司と連絡を取る術を失った私は何とか自分を落ち着けて、まずは連絡先が残っている大家さんに電話をした。昨夜から鍵が合わず、帰宅困難な状況だったからだ。

 数回のコール音の後に、大家さんは電話に出てくれた。私は丁寧に事情を話したが、大家さんは、あなたに部屋を貸した覚えはない、と言ってきた。それどころか、私の住んでいる部屋にはもう別の誰かが住んでいる、と告げられた。

 悪い予感が現実になってしまった。私の頭は真っ白になった。

 一夜にして、家なしの職なしになってしまったのだ。

 それからしばらくは本当に何も考えられず、ただじっと立っているだけだった。

 そうして何とか平静を取り戻した頃。私は同僚たちに会うべく、もう一度会社に向かった。社員名簿に書いてなくとも、私のことを覚えているかもしれないからだ。

 しかし私が会社の近くまで行くと、会社前にパトカーが停まっているのが見えた。それを見た瞬間、私は警察に通報されたのだと知った。慌てて顔を隠し、その場から立ち去ろうとする。だが昼から出勤する同僚がいるかもしれないと思い、隠れて様子を見ることにした。

 結果、私の予想は当たった。昼頃に同僚の1人が現れたのだ。会社近くに行かれては困るので、私は急いで彼の元に向かった。

意を決して彼に声をかけると、立ち止まってくれた。私はすぐさま社員証を見せて、私のことを覚えているかどうか聞いた。

 彼は私の顏と社員証を交互に十数秒ほど見た後に、知りませんと一言だけ答えた。その答えに私は驚き、落胆し、彼の元から速やかに離れた。

 彼の発言でもしやと思った私は再度公衆電話に向かい、片っ端から兄弟に電話をかけていった。兄弟まで私のことを忘れているのではと不安になったからだ。

そんな私の不安は、電話をかけるたびに次々と打ち砕かれていった。覚えていたのだ、兄弟全員が。私は不覚にも涙を流し、喜んだ。

少しだけ希望が持てた私は受話器を置いて、今度は近くの公園に向かった。そこでベンチに座り、これからのことを考えた。

 まずお金については心配がなかった。私の口座にはこれまで散々貯め込んできたものがあるからだ。自宅の消失により、預金通帳と印鑑を紛失してしまったが、保険証を持っているので再発行はできるはず。

 家については再発行後に新しい住居を捜せばいい。職についてもお金があるから別に焦らなくてもいい。

 そして何より、私には運の針がある。逆転は容易なのだ。

 だがしかし、現実は厳しかった。

数日後。無事に預金通帳と印鑑を再発行して、自分の口座からお金を引きだそうとすると、どういうことか残高が0だったのだ。私は銀行員に、こんなのはおかしいと何度も言ったが、結局相手にされなかった。

 絶望の表情で銀行から出た私は、あの時の公園に再び戻り、ベンチに座った。私はこの公園で再発行するまでの間、野宿していた。手持ちがあまりなく、無駄遣いができなかったからだ。

私は腰ポケットから財布を取りだすが、残りの所持金はもうほとんどない。3日持つかどうかだった。

親に頼ろうにも、私の両親はすでに亡くなっており、実家もない。兄弟に頼ろうにも、それぞれが家庭を持っているため、非常に難しいところだ。

運の針を使おうにも、刺した後の経過をじっくりと観察できない人物には安易に使えない。いや、正直に言えば、これ以上の地獄を見るかもしれないという恐怖で使えなくなっていた。

もう私は自分にも、他人にも。見えるものにも、見えないものにも頼れなくなってしまったのだ。信じられなくなってしまったのだ。

 やはり、次の就職先を探すしかないか。そう思った私はベンチから立ち上がって、ふとあることを考えた。

 運の針を刺したあの同僚は一体何を望んでいたのだろうか、と。

 これについては今でもよく分かっていない。だが、爽やかで何度も誘いに乗ってくれた彼が強く望むほど私を疎ましく思っていたのは、間違いないだろう。

 それから私は就職先を探して回った。しかしなかなか満足いく条件のところがない。今までがかなり好待遇で、優雅な生活を送っていたせいだろう。

結局、私は手持ちがなくなるまで捜し続け、下町の小さな製造会社に飛び込んだ。この会社に勤めるくらいなら、あの会社にしておけばと後悔もしたが、もう遅かった』


 礼二はそこで読むのをやめて栞を挿み、日記を閉じた。その顔は嘲笑っているようで実に不気味だ。どうやら祖父の落ちぶれていく様を見て、自分は成功者だと愉悦を感じているらしい。

 そんな礼二の心からは、悲鳴にも似た軋む音がした。




 2日後の日曜日。時刻は午後1時。

 礼二はデートの待ち合わせ場所である美術館前にいた。緊張した様子で落ち着きなく片足でトントンとリズムを取っている。

しばらく待っていると、遠くから春香が走ってやってきた。

「ごめんなさい。遅れました」

 春香は息荒く、礼二に頭を下げる。今日の春香は制服ではなく、白い暖色のキャミワンピースを着ていた。礼二はそんな春香の姿を上から下まで見た後、

「いや、ほとんど待ってないし気にしなくていいよ」

 爽やかな笑みを浮かべて言った。

「そう、ですか。なら良かった……」

 春香は胸に手を当てて安堵の表情を浮かべる。

「じゃあ、行こうか」

「はい」

 そうして2人は美術館の中へ入っていった。礼二の人生における初デートの始まりだ。

 今開かれているのは個展ではなく、礼二たちの住んでいる郷土にまつわる身近な展覧会だった。歴史的に見ても貴重な作品や資料、普段はお目にかかれない工芸品なども展示されている。ちなみに入館料は無料だ。

 礼二たちは受付を通り過ぎて、展示室に入っていく。そんな2人の背中を、後ろから受付嬢が微笑ましく見つめていた。

「……すごい……」

 春香は無邪気な顔で声を漏らしながら展示品を見て回る。美術部というだけあって、展示品には興味津々で、価値も分かっているようである。礼二はそんな春香の後を保護者のようについていく。

正直、礼二は美術関係に全く興味がなかったが、喜ぶ春香の様子を見て楽しんでいた。

「ほらほら、これ見てください」

「ん、どれ?」

 礼二は春香の指さす1枚の風景画を見た。

それはのどかな田舎の風景だった。手前には緩やかに流れる川。中心には黄金に輝く稲穂畑。右奥には緑々とした林と小さな集落。さらに奥には澄み渡る青空に紛れて、薄らと大きな山が見える。それは本物よりも本物らしく、事実のみを写した写真よりも生気に溢れた作品だった。

しかし礼二にはその魅力がこれっぽっちも分からず、横で目を輝かせて話す春香に淡々と相槌を打っていく。

「……写真とか映像とかにはない何かが伝わってきますよね。なんかこう、生命をひしひしと感じるというか、これこそがありのままっていうか」

「なかなか深いこと言うんだね。春香ちゃんって」

「あ、いえ、そんな……。感じたことをそのまま話しているだけなので、あまり深くは考えないでください」

 礼二の言葉を聞いた春香は恥ずかしそうに俯く。

「……同じ風景でも、描く人や見る人によって、見方も感じ方も変わっていきます。それが面白いところなんですよ。礼二さんはこの絵を見て、どう思いました?」

 春香は俯いた状態で話を続け、最後に礼二の顔を見て問うた。

「んー……。俺はこの絵を見てというか、春香ちゃんの話を聞いて、なるほどって思ったよ。自分の見ているものが全てじゃないってことにね。だから俺が今見ている春香ちゃんは本当にそこにいるのか? もしかしたら俺の妄想なんじゃないのか? って少し不安になってきたところだよ」

 その不安は運の針を使い、現実が順風満帆な礼二だからこそだった。やはり祖父のように転落しまうことを根底では恐れているのだ。

礼二がそう不安げな表情を覗かせていると、

「……ちゃんと私はここにいますよ」

 春香がそう言って礼二の手をぎゅっと握った。その手は緊張しているらしく、少し汗ばんでいた。礼二はそんな春香の手を強めに握り返して、

「君はここにいる。うん、もう大丈夫」

 妄想でも幻覚でもない、確かな存在だと再確認した。その時の言葉は、自分に強く暗示をかけているようでもあった。

 それから1階の展示室2つと2階の展示室1つをゆっくり回り、礼二たちは美術館から出ていった。結局、礼二たちの他に客はいなかったため、貸し切り状態だった。

「あー、楽しかった」

「はい。とても楽しかったです」

2人ともとても満足そうな顔をしている。

「……まだ時間がたっぷりあるから、今度は中心街のほうに行ってみよう」

携帯電話で時刻を確認した礼二がそう提案すると、

「はい。行きましょう」

 春香は元気に頷いて答えた。それを聞いた礼二がそのまま歩きだそうとすると、

「あ、ちょっと待って」

 春香が引き止めた。礼二は驚いて振り返る。

「あの、手、繋ごう」

 春香は頬をほんのり赤く染めて、礼二に手を差しだしてきた。

「…………」

 しばしの沈黙後。礼二は差しだされた手を触り、握った。すかさず力をこめて離れないようにする。

「じゃあ、行こうか」

 礼二がそう言うと春香はこくりと頷き、2人は中心街へと向かっていった。


 帰宅後。

 人生初のデートを終えた礼二は半ば放心状態で自室に向かった。

 自室に入るや否や、礼二はベッドに飛び込んだ。大の字で仰向けになり、楽しかったデートの余韻に浸る。初デートでキスをするには至らなかったようだが、この世にこれほど楽しいことがあるのか、と礼二は心から満足したようだった。

 礼二は30分ほど余韻に浸った後、ベッドから降りて机前のイスに座り、引き出しから祖父の日記を取りだした。どうやら続きを読むようだ。


『新しい会社に入った私は仕事をこなしていくが、日に日に苛立ちが募っていく。生活水準が下がって、この上なく苦痛だったのだ。私は早くこの会社から抜けだしたいと、働きつつ転職活動を始めた。今度はあの時のように時間制限で焦ることはないので、ゆっくりと捜し回った。だがやはり、私の望む条件はなかなか見つからない。

 そんな時だった。運の針が私に「使え」と呼びかけた気がした。

 しかし私は悩んだ。二度も大きな失敗をしている上、使うたび効力が増すこの針で次に失敗することが恐ろしかったのだ。そろそろ死に近いことが起こるに違いないと思えてならなかったのだ。

 だがこのままでは現状は変わらない、と私は半年間悩み続けた。

 その末に、私は使うことを決意した。丁度、同僚の観察もやっていたため、すでに予想はついていた。

私はまず前に吸い上げた不幸を処理しようと思い、同僚の1人に近づいた。

 そして今まさに使おうとした時だ。誤って私自身に刺してしまった。その瞬間、私の視界があの時のように大きく揺らいだ。

 数秒ほどで視界の揺らぎは治まり、私が周りを見回すと、そこには嫌悪の目を向ける同僚たちがいた。

 ああ。天罰は続いていたのだ。

 それからというもの、私は同僚たちにとことん嫌われた。陰湿な嫌がらせも始まった。転職活動でも面接官から不快を示す目を向けられ、ことごとく落ちた。飛び込みでの面接も試したが、駄目だった。

私は選ぶ側から選ばれる側になった。

ここから先は思いだそうとしても思いだせない。覚えているのは、命綱である今の会社を退社したところからだ。

 私はあてどなく彷徨い続け、気づけばあの時の公園に来ていた。ベンチに座って何かを考えようとするが何も浮かんでこなかった。

運の針はしっかりと持ってきていたが、使う気力がわかなかった。

やがて日が暮れていき、腹が減った。だが私にはお金がなかった。にもかかわらず、私は商店街のほうへと向かった。

商店街にはちらほらと人が見受けられ、まだいくつかの店が開いていた。私は何か食べ物を恵んでもらおうと明るい商店街を歩いていくが、自尊心が邪魔して声をかけることができなかった。

商店街から出た私はそのまま住宅街へと向かっていった。

住宅街は暖かな明かりで溢れて、楽しげな声が聞こえてきて、とても美味しそうな匂いが漂っていた。そんな中を私が歩いていると、民家の脇にあるごみ箱が視界に入った。

残飯を食べるくらいなら、道端の草を食べたほうがましだ。相変わらず私の自尊心が邪魔をし続けるが、結局空腹に耐えられず、人様のごみ箱を漁ってしまった。

その時に初めて口にした残飯の味は、今でも忘れることができない。

一度残飯を口にしたことで一線を越えてしまった私は開き直って、住宅街や商店街のごみ箱を人目に触れないよう漁っていった。時に腹痛で苦しみ、嘔吐することもあったが、生きるために食べ続けた。

 それからの私は乞食のようなことも始めた。無視する者がほとんどだったが、たまに蔑みの目で金銭を恵んでくれる者もいた。

私はその集めたお金で兄弟に助けてくれと電話をした。しかし近方の兄弟は人が変わったように断固として断った。遠方の兄弟は助けたいが余裕がないと謝ってきた。

 私は絶望した。日に日に生きる気力がなくなり、運の針で一か八か最後の賭けでもしようかと思っていた。そんな時、私は偶然、運の針を手に入れた時に所属していた会社の同僚たちに出会った。

 私は反射的に逃げだした。こんな姿など見られたくなかったからだ。私は走り続けて、普段寝泊りしていたあの公園までやってきた。そして、すっかり愛着のわいたベンチに座り呼吸を整えていると、私を追って元同僚の女性1人がやってきた。私は逃げることを諦め、来るであろう罵倒の嵐に備えた。

 しかし私に向けられたのは「お久しぶりです」という悪意のない優しい声だった。私は彼女と顔を合わせた。よく見れば彼女は、運の針を使う以前から仲良くしてくれて、面倒を見ていた後輩だった。

彼女は「今何をしているんですか」と私に聞いてきた。私は「浮浪者」と一言だけ答えた。そうすると彼女は驚いた顔で私の手を握り「私が何とかします」と言ってきた。

だが心の中では嘲笑っているのだろうと思い、私は何も答えなかった。すると今度は無理やり私の手を引っ張り、どこかへ連れていこうとした。私は手を振り解き、放っておいてくれ、どこかに行ってくれ、と声を荒らげた。

しかし彼女は怒ることも哀れむこともなく、私に近づいてきた。

そして彼女は私を強く抱きしめて「大丈夫」と言ってくれた。

その瞬間、私は彼女が針の魔力に支配されていない人間だと知った。自然に涙が出てきたことを今でも鮮明に覚えている。

それから私は彼女に手伝われつつ、社会復帰を目指した。行く先々でいつものように嫌われ続けたが、何とか仕事に就くことができた。私は彼女と喜び合い、やがて結婚した。

再び始まった私の人生は、幸せすぎず不幸せすぎない慎ましやかなものだったが、運の針を使っていた頃よりも生を実感できて、それはそれは満足だった。

そうして運の針を使わずに生活していたある時、私はふと悟った。

 人生で大切なのは、幸や不幸に囚われることではなく、「自分が何とともにあるのか」だと』


 礼二は祖父の涙の跡が残るページをそっとめくった。正真正銘、最後のページだ。礼二はそこに書かれてある文面を読むと眉を寄せて首を傾げた。そのまま考える素振りを見せる。だが、結局分からないとため息をつき、日記を閉じて引き出しにしまった。

それから礼二は下のリビングに下り、夕食を食べて、満腹だと腹を抱えてソファーに座った。その状態でしばらく家族とともにテレビを見ていると、礼二の目に驚くべき光景が飛び込んできた。

「あれ、ここって近所のお店じゃない? 礼二の同級生がやってる」

「……そうだよ」

 礼二はテレビ画面を見たまま響子に返事をした。テレビ画面には、礼二が針を刺した男子生徒の両親が経営する洋菓子店が映っている。何でもスイーツ専門の雑誌記者が発見した一押しの商品を特集しているようだ。

 礼二は眉をひそめて自分の部屋がある2階を見上げた。どうやら運の針が不幸を吸い上げたと判断したらしい。

「風呂入ってくる」

礼二は不機嫌な口調でそう言って立ち上がり、気分を変えるために風呂へ向かった。

 入浴後。礼二はリビングで水分補給をして自室に向かい、机の引き出しからミニケースを出した。中から運の針を取りだしてつまみ、自分の眼前に持っていく。

 次に針を使うには、まず今吸っている不幸を処理しなければならない。礼二は誰に刺して処理しようかと思い悩む。針の効力が高まりつつあるため、余計に決められないのだろう。

結局、その日は答えを出せず、次の日を迎えた。

 礼二が登校して教室に入ると、またもやクラスメートたちがざわつき、ある席を中心に集まっていた。今度は何だろうと礼二がその席に向かい、人だかりをかきわけていくと、そこには針を刺して不幸を吸い上げた男子生徒がいた。

 礼二の耳に入ってくる会話は、やはり昨日テレビに映ったことに対してだった。針の効果がいかにすごいものだったか、声として聞こえてくる。どうせすぐにこの騒ぎも収まるだろう。礼二はそう思い、面白くないと口元を歪めてその場から一時退散した。

 しかし次の休み時間になっても、クラスメートたちはあの男子生徒に群がっていた。礼二は気に入らないと嫉妬し、あることを思いついた。

 あの群がっているクラスメートたちで不幸を処理し、そのまま彼に近づいて再び運を吸い上げれば一石二鳥だと。

礼二はさっそく運の針を人差し指の裏に隠し、彼に接近する。途中で群がっているクラスメートの中から適当に1人選び、針を忍ばせた右手を伸ばした。

「おっと、悪い」

 しかしその右手は、人だかりから出てきた陣馬によって阻止された。礼二は一瞬しまったという表情を浮かべるが、

「あ、いや、こっちこそごめん」

と謝って一度手を引っ込めた。不慮の事故で不幸を陣馬に与えてしまったが、礼二は仕方がないと顧みず、入れ替わりで人だかりの中へ入っていった。他人に針を刺してしまわないよう気をつけながら、気さくに話す彼の背後までやってくる。

そして礼二はタイミングを見計らって彼に右手を伸ばし、

「なぁ、今お店に行っても商品は買えるの?」

 と声をかけて首近くに手を置き、そのまま首筋に針を刺した。運の針は二度目となる彼から望む幸か望まぬ不幸か、どちらかの運を吸い上げた。

 針の効果が現れたのは、それから1週間と少しが経った頃だった。

 いつものように礼二が教室へ入ると、自分の席で1人ぽつんと頭を垂れる陣馬が目に入った。その様子は常に元気だった陣馬らしくないものだった。礼二は針の影響があったに違いないと思い、彼に優しく話しかけて事情を聞いた。

 聞くところによれば、彼の父親が経営する会社がつい先日倒産したということだった。だいぶ前から経営は傾いていて、いつ倒産してもおかしくない状態だったらしい。そうすると礼二は、風前の灯火に息を吹きかけて消してしまったということになる。

 だが礼二は、心から同情するほど陣馬と親しくなかったので、

「辛いこともあるだろうけど、頑張ってね」

 と適当に励まし、自分の席へ向かった。その姿を近くから誰かが見ていたが、礼二はそれに気づいていなかった。

 自分の席についた礼二は、1週間以上前から続けている彼の観察を始めた。彼とは両親が洋菓子店を経営しているあの男子生徒だ。前と比べるとだいぶ減ったが、今日も彼の周りには人が集まって和気あいあいとしている。

 それから礼二は耳を澄ませて会話を盗み聞きしたり、近況について直接本人に聞いてみたりもした。結果、日に日に売り上げを伸ばして絶好調のようだった。さらに、また今度テレビに出たり雑誌に載ったりするとも言っていた。

 礼二は彼の加速する幸せぶりから、またもや不幸を吸い上げてしまったと判断した。ということは、また不幸を処理しなければならない。礼二は彼の周りに集まっているクラスメートの誰かで処理しようと考えたが、その時丁度来た担任教師を見て、考えを改めた。

 礼二は担任教師で不幸を処理しようと考えたのだ。元々担任教師は嫌いだったため、礼二にとってはクラスメートよりもやりやすい相手だった。

 そうと決まった礼二はさっそく行動を開始し、隙を窺って担任教師に針を刺した。意外と勘の鋭い担任教師は危うく針の存在に気づきそうになったが、何とか無事にやり遂げた。

 その日の夜。自室で楽しく春香とメールをしていた礼二は、届いたメールを見て跳び上がるほど驚愕した。

 その内容とは、父親が先日失職してしまったというもの。原因は会社が倒産したことによる巻き込まれ。その倒産した会社を礼二は知っていた。そう、陣馬の父親が経営していた会社だったのだ。

 会社を倒産に追い込んだ真犯人の礼二は、どうにかしてやろうと策を考え始めた。陣馬には厳しい礼二だったが、恋人である春香には甘かった。

 礼二はそれから就職を渇望していそうな人物を脳内で探し始めた。

しかし礼二の周りには職を持っている人物か、職につく年代ではない人物しかいなかった。それならば職を求める人物が多い職安へ行こうと考えたが、針を刺した後の経過をじっくりと観察することができないため、あえなく取り下げた。

白色の柔らかい電灯の明かりに照らされる。時計の針が刻々と進む。必要最低限の物しかない殺風景な部屋の中、何か良い策はないかと礼二は頭を巡らせ続ける。

 そしてついに見つけた。その瞬間、礼二は気味の悪い表情を浮かべ、くぐもった笑いを静かな部屋中に響かせた。

 そんな礼二の心には、小さなヒビが入っていた。

 翌日の夕方。

学校が終わった礼二は、私服に着替えてとある場所までやってきた。そこは礼二宅から結構離れた場所にある大きな公園。静かで自然が多く、主に散歩やジョギング目的で利用されている。そのため子供が喜ぶような遊具はなく、代わりに健康器具が設置されていた。

 礼二はそんな公園の片隅に向かって歩いていく。その瞳は暗く濁り、表情はない。その原因は、朝に担任教師が脳梗塞で倒れたと聞いたからであろう。ついに死の一歩手前まで追いやってしまったのだ。

 それでもなお、礼二は運の針を使うためにここまでやってきた。視線の先には青いビニールシートで作られた家が並んでいる。礼二はパーカーのフードを目深に被り、そこに住むホームレスたちの元へ向かっていった。

丁度外に出ていたホームレスたちは、望まぬ来客の礼二を生気のない冷やかな目で見つめる。礼二はそんな中を気にせぬ様子で、1人1人にあることを聞いて回った。

職に就きたくはありませんか、と。

大抵はふざけているのだろうと無視を決め込んだが、中には食いつきの良い人もいた。礼二はその中でも1番に食いつきが良く、本気で言っていると判断した人におまじないと称して、こっそり運の針を刺した。

その時、小さなヒビが入った礼二の心に、大きな亀裂が走った。

翌日の朝。

休日ということで、礼二がリビングでのんびりテレビを見ていると、気になるニュースが流れた。

それは礼二が昨日行った公園で小規模な火災が起こり、ホームレスの1人が死亡したというニュース。

死亡したホームレスの顔写真は出ていなかったが、礼二は疑いもなく昨日針を刺したホームレスだろうと思っていた。それなら礼二は人殺しということになるが、特に驚く様子も焦る様子もなかった。だがそれは間接的なため現実感がなく、罪の意識を無理やり抑え込んでいるからだった。

午後になると、礼二は春香に電話をかけて、家に行ってもいいかと聞いた。春香は喜んで快諾し、自宅の場所を礼二に教えた。

それを頼りに礼二は春香宅へと向かい、無事到着した。春香宅は中心街から少し離れた場所にある一戸建てのお洒落な家だった。

礼二がさっそく玄関でインターホンを押すと、通話なく小走りするような足音が聞こえてきて、

「はーい。どうぞ。上がってください」

 春香が玄関のドアを開けた。礼二はお邪魔しますと言って、春香宅に上り込んだ。

「私の部屋に行きましょう」

 礼二はそう言う春香についていき、階段を上がって2階の春香の部屋へ向かった。

 春香の部屋は白を基調とした清潔感溢れる部屋だった。ベッドには女の子らしいぬいぐるみが3体と、壁には趣味で集めたらしい写真や絵画が飾ってある。

「ちょっと飲み物持ってきますね。好きなところに座って待っててください」

「あ、そんな気を使わないでいいから」

 礼二は部屋から出ようとする春香を強い声で呼び止めた。それに春香は、

「そう、ですか」

 ポカンとした顔をして、床に座る礼二の前に正座した。

「春香ちゃん。ちょっと聞いてもいいかな」

「はい?」

「今日って家にお父さんいる?」

「……はい、いますけど」

「そう……。じゃあ、今から話すことをよく聞いておいて」

 礼二はそう言うと、腰ポケットから運の針が入ったミニケースを取りだした。そして何をするのかと思いきや、運の針について春香に説明し始めた。もちろん、人から吸い上げたなどの知ってほしくない部分は全て省いてだ。

説明を聞く春香は半信半疑といった顏だったが、真剣な礼二の様子を見て、徐々に信じる顔へと変わっていった。

 説明を終えた礼二は運の針をミニケースごと春香に手渡した。それを受け取った春香は頷いて立ち上がり、部屋から出ていった。

「…………」

 部屋に1人残された礼二は、疲弊した兵士のように頭を垂れる。

今の礼二には、初めて恋人の部屋に来たという、甘い青春を感じる余裕などなかった。

その日の夜。礼二は1人自室で頭を抱えていた。朝や昼とは違い、夜になると心の抑えが利かなくなり、罪の意識に苛まれてしまうのだ。

 お前は下種だ、外道だ、人殺しだ。礼二の耳に自身の幻影がそう囁く。それは実際に耳を塞いでも永遠に聞こえ続ける。兆候は前からあったようだが、ここまで表に出てきたのは、人としての一線を越えてしまったせいだろう。

礼二は眠らずに頭や首、腕をかきむしってひたすら耐え忍ぶ。かきむしった部分はミミズ腫れになっていき、爪と指の間にはかきむしった皮膚と血が詰まっていく。それでも一向に止まない囁きに、礼二はとうとう独り言を呟き始めた。

「朝になれば。朝になれば。朝になれば。朝になれば。朝になれば……」

同じ言葉を壊れたおもちゃのように何度も呟いて、囁きを打ち消そうとする。

だがそれはそう長く続かなかった。ついに限界が来てしまったのだ。心の限界が。

礼二の心に入った亀裂は、取り返しのつかないほど大きくなり、

「…………」

 断末魔を上げて、砕け散った。

その瞬間、礼二はふと動きを止めた。目の前には運を与えて空になった運の針。礼二はそれを手に取ると、口の中に入れた。

そして舌の上で針を転がし、理性のタガが外れたような笑い声を漏らした。

その笑い声は、自身の願った明るい朝まで、途絶えることがなかった。




それから1カ月が経った。

 あれ以来、礼二は以前にも増して運の針を使い続けていた。人から幸を吸い上げては自分に刺し、気が乗れば家族にも刺していた。

 そのおかげか、父は会社で出世し、母はご近所関係が順調にいくようになり、響子は誰もが振り向いてしまうような相手と付き合っていた。

礼二も礼二でますます金運が上がり、財布や大金の入ったバッグを拾うこともあった。くじの配当金も入れれば、もう総計で3000万近くは稼いでいる。

人間関係もクラスから学年へ広がり、たくさんの生徒が礼二に会いに来て、友人もかなり増えていた。

恋愛関係も同様に広がり、春香を維持しながら、裏で何股もかけて女生徒をとっかえひっかえしていた。春香の父親については、無事に再就職することができたようだ。

学業についても学力が大幅に向上し、成績優秀者になっていた。

それだけの変化をもたらすには、やはりかなりの犠牲が必要だった。だが、刺した相手や不幸を処理した相手がどうなろうと、礼二の壊れた心は全く痛まなかった。

そんな礼二は今日も登校するべく、いつものように家を出た。しかし周りの様子が前とは違う。右隣の家は夜逃げでもしたように朝から不気味に暗く、左隣の家はそもそも取り壊されてなくなっていたのだ。

 それは全て礼二のせいだったが、本人は特に気にすることもなく朝らしい爽やかな顔で学校へ向かった。

 学校に到着し、礼二が教室に入ると、お出迎えの女子たちがやってきた。礼二は女子たちに取り囲まれて、男子たちから羨望の眼差しを向けられつつ席についた。その周りをよく見れば、机の数が減っており、前にはいなかった見知らぬクラスメートもいた。

 次の休み時間。自分の席で談笑している礼二に誰かが声をかけてきた。礼二が声のしたほうを見ると、そこには見覚えのある顔があった。

「えっと……。ああ、忠義か」

 目の前に立つ親友の名をやっと思いだした礼二。忘れられていた忠義は悲しげな表情を浮かべて、口を開いた。

「最近の礼二すごくおかしいよ。まるで別人みたいに変わって……。何かあったの? どうしちゃったの? 僕でよければ何でも聞くからさ……」

 切実に訴える忠義。だが礼二は余計なお世話だと立腹し、あることを思いついた。

「……ちょっと後ろ向け」

「え?」

「いいから早く」

礼二の強い言葉に、忠義は後ろを向いた。そうすると礼二は胸ポケットから空の運の針を取りだした。あろうことか、親友に針を刺して遊ぼうというのだ。礼二は忠義の望みも望まないこともすでに分かっていた。今の自分を羨むことも妬むこともないと分かっていた。誰よりも分かっていた。

だから礼二は自分に背を向ける忠義の首筋に、運の針を刺した。その瞬間、礼二の視界が大きく揺らいだ。今までで随一の揺らぎ。自分の存在が捻じ曲げられていくような感覚。

 そして次に視界が戻った時、礼二の目の前にはなぜか、自分がいた。

何が起こったのかも分からず本物の礼二が隣を見ると、

「…………」

そこには窓ガラスに焦った表情を浮かべる忠義が映っていた。

「おい、これはどういうことだ! 俺の運の針は! 春香は! 金は! 友人は!」

 忠義の姿になった礼二は立ち上がって、目の前に立つ自分に激しく詰め寄る。

「え、何? いきなりどうしたの?」

 しかし自分は困惑顔で返事をしてきた。声や顏は礼二とそっくりだったが、仕草や口調は完全に忠義だった。

それに気づいた礼二は、教室の外に自分の姿をした忠義を連れていき、返せという怒りとともに今度はゆっくりと問い詰めた。運の針のこと。恋人のこと。金のこと。友人のこと。そして担任教師のことやホームレスのことも。

 だがしかし、忠義は全て否定した。運の針なんて知らない。春香なんて恋人はいない、それどころか付き合ったことすらない。そんな大金を持っているわけがない。友人なんて君1人しかいない。担任教師はいつも通りうるさいくらい元気。近くでホームレスが死んだニュースなんて聞いたことがない。

忠義が本当に嘘を言っているように見えなくて、礼二はただただ驚く。

そんな時、礼二はふと理解できなかった祖父の日記、最後のページを思いだした。


『ここまで読んでくれた君にありがとう。そして、もしものために最後の助言を贈る。心にしっかりと留めておいてくれ。

 この針を使いだせば、いつも目に見えていたものが見えなくなってしまうだろう。

だがある時、ふっと思いだして見えるようになる。

 それこそが、君が人生を歩んでいく中で、何ものにも代えがたい大切なものだ』


 礼二は崩れ落ちるように膝をついて、安堵したような絶望したような表情を浮かべ、乾いた笑い声を上げた。

 運の針を使い続けた礼二が辿り着いたのは、幸だったのか、不幸だったのか。

それは本人にしか、分からないこと。

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