慈悲深き処刑人
下村アンダーソン
慈悲深き処刑人
一粒の砂は銀河を宿します。地中より出で、大岩となり、風に吹き寄せられ、やがては砕け散って砂塵と化すまでの、何千、何万という月日の合間に、この世のあらゆる書物を合わせた以上の物語を、それは見聞するのです。わたくしたち〈砂食みの種族〉が語り部たりうるのは、そうした特別な砂を身に取り入れることによって、いわば物語そのものと同化するからです。
信じていただけませんか? では貴方様の眠りに寄せて、ひとつ語りましょう。この国がまだ、見果てぬほどの砂ばかりであった頃の物語です。貴方様が思い描くどんな場所よりもさらに広大な、そして灼熱の砂漠で出会った、ふたりの女とひとりの少女にまつわる物語です。
では、始めましょう――神の名において。
砂漠には、ひとつ定めがございました。もっとも慈悲深い女が処刑人となるべし、という定めです。なぜかと申しますと、砂漠に拷問者は必要なかったからでございます。熱さが、渇きが、砂が、罪人の魂をひっきりなしに痛めつけますから、あえて人の手を用いて拷問することはなかったのです。砂漠の苦しみから、一刀のもとに罪人を解き放つこと――それが処刑人の役割であり、であればこそ、もっとも慈悲のある女がそれを引き受けたという次第でございました。
この物語に登場する、千と一代目の処刑人は、名をイマンと申しました。
さて、ある日――このイマンの率いる一団が、盗人を引っ立てて、街へと連れ帰ろうといたしました。罪状は、甕から一口の水を盗んだことです。砂漠において水は貴重品でございますから、盗んだ者は誰であれ、首をはねられる決まりでございました。
哀れな罪人は、名をズレーカという、幼い娘でした。
いかに幼子とはいえ、砂漠の掟は絶対でございましたから、ズレーカは両腕を縛り上げられて、砂の上を引きずられながら、街へと運ばれてゆきました。首をはねられる決まりとは申せ、まずは裁判にかけられ、判決が申し渡され、しかる後に処刑、という順番が、当時はございました。すなわちズレーカは、死すべき定めにありながら、ただ苦しみを引き延ばされるという憂き目に遭っていたわけでございます。
街までの道のりがもう半分ほど、という位置まで至ったとき、西のほうから突如として、ブフトに跨った集団が現れ、イマンの一向に襲い掛かってきました。ブフトは足が速く、勇敢で逞しい生き物でございますから、何の変哲もない駱駝に乗っていたイマンの一団は、あっという間に追いつかれてしまいました。
このあたりを根城にしている盗賊団だ、とイマンは直感しますが、あいにく短刀以外の武器は持ち合わせません。勇猛なブフトを駆り、偃月刀を操る相手を前にして、仲間たちは次々に倒されていきました。最後に残ったのは、イマンとズレーカだけでした。
それでもたった一人で、イマンは盗賊団と闘います。傷だらけになりながら、何人もの敵を斬り倒したのです。相手は散り散りになり、居残っているのは首領と思しい女だけになりました。
両手に二本の刀を煌めかせて、女盗賊が斬りかかってきます。イマンも短刀を握りしめて、それに応じました。勝負はなかなかつきません――ふたりの力量は、それほどまでに拮抗していたのでございます。
両名とも深手を負い、もはや立っているのもやっとという有様になった頃です。女盗賊は不意に刀を投げ捨てて、イマンにこう言いました。
「あんたは処刑人だろう。どうせこの場で、あたしたちを殺すことは出来やしないんだ」
「そうだ。しかしおまえを降参させて縛り上げ、街へ連れ帰ることは出来る」
息を荒げながらイマンが答えると、女盗賊はけらけらと笑いました。
「あたしと、その娘と両方を? ごらん。駱駝もブフトも、一匹残らず死んだ。ふたりを担いで街まで行こうってんなら、途中で三人とも干からびてしまうよ」
確かに、女盗賊の言うとおりでした。イマンは慎重に、短刀を下ろします。女盗賊は満足そうな顔になって、それからこう提案しました。
「今は一時休戦にして、明日改めて決闘しようじゃないか。あたしが勝ったら、その娘を貰う。あんたが勝ったら、あたしは娘と一緒に街へ歩いていって――そう、自分の足でだよ――堂々と首をくれてやろう」
なんという奇妙な申し出――とイマンは思い悩みます。そもそも、盗賊の言葉など一片たりとも信用には値しないのです。しかし、この場でふたりを拘束して引きずっていく力が、現在のイマンにはもう残されていない、というのも間違いのないところでした。
「仕方があるまい。おまえの名は」
イマンが言うと、女はにやりと唇を湾曲させました。
「あたしはケイナン。この名に懸けて誓おう」
そういった次第で、三人は街に向かうのをいったん取りやめました。ケイナンは敵味方問わず、死んだ兵士の携えていた食料や水を集め、平然と飲み食いしはじめます。息も絶え絶えだった盗人のズレーカも、栄養を与えられてようやく、僅かに元気を取り戻したようでした。
肉を食みながら、ケイナンはわざとらしく、
「あんたは食わないの」
「誰が食うものか。私は、私が持ってきたもので足りる。盗人になる気はない」
「そうか。あたしたちはどうせ、何をやっても同じだからね。いくらでも罪を重ねてやるさ」
夜になると、砂漠は急速に冷え込みます。イマンとケイナンは火を焚き、ズレーカを両側から挟むような格好で、横になりました。誰もが深い傷を負っており、いったん体を横たえてしまうと、その痛みや疲労がかえって強く意識されました。
「ケイナン。おまえに問いたいことがある」
「なんだい。罪の告白なら、千でも万でもしてやるよ」
「そうではない。おまえはなぜ、この盗人を――ズレーカを欲しがる? おまえは盗賊だろう。もっと金になりそうなものは、いくらでもあるだろう」
するとケイナンはまたけらけらと笑って、
「なぜって、あたしたちが盗賊だからだよ。仲間が必要なんだ。あらゆる希望を失って、生きるためならどんな悪事をも厭わないって奴がいるんだ。首をはねられる寸前の盗人なんてのは、いちばんお誂え向きなんだよ」
イマンは吐息して、
「そうしてまた罪を重ねさせる。おまえのような人間がいるせいで、この砂漠に平穏は訪れない」
「はは。水の一口で人間の首を取ろうって奴が、平穏ね。あんたは確かに、心がざわめくことはないんだろうよ。お偉方の命じるとおり、斬るべき首を斬るだけだろうからね」
「それが処刑人の役割だ。穢れと苦しみに満ちた命を、速やかに終わらせてやるのが」
「ならば今ここで、あたしとズレーカを斬ればいい。あんたからすれば、汚れた命なんだろう」
それは出来ない、とイマンは答えました。それからは何を問われても、彼女が応じることはありませんでした。きっと、疲労と痛みで眠りに落ちてしまったのでしょう。
さて――翌朝。約束の、決闘の時間がやってきました。ケイナンは自分の偃月刀の一振りを、イマンに差し出します。自身の短刀で勝負するものと思っていたイマンは驚き、ケイナンの顔を見返しました。
「これを使ったって別に盗みにはならないだろう? いっとき、貸してやるってだけだ。短刀使いに偃月刀で勝ったって、何にも面白くないからね」
イマンは頷き、短刀を砂の上に放りました。偃月刀を携えたふたりが向かい合い、今にも斬り合おうとした――そのときのことです。
ずっと傍らに座っていたズレーカが短刀を拾い上げ、恐ろしい速さでイマンに向かっていったのです。ケイナンも、イマン自身も、その思いがけない事態に反応するすべがありませんでした。気が付いたときには、イマンの脇腹には、深々と短刀が突き刺さっていました。
「イマン、イマン」
短刀を放り出して逃げていったズレーカには構わず、ケイナンは屈みこんでイマンを抱きかかえました。傷からは鮮血がどくどくと零れだしています。命を留めるすべがないことは、もはや明らかでした。
私は、と血の泡を唇の端に浮かべながら、イマンが言います。ケイナンは耳を近づけ、その声を聞き取ろうと息を詰めました。
「次に生まれるときは、盗賊になろう。ブフトに跨って、偃月刀を閃かせて、幼子に水を――おまえのような――ケイナン――盗賊に」
そうか、とケイナンはつぶやきました。それからイマンの短刀を構えて、言いました。
「ならばあたしは、罪深き今生でただひとつ、善行を積もう。慈悲深き処刑人になろう。イマン、あんたのためだけの処刑人に」
微笑みながら頷いたイマンの咽を、ケイナンは一息に掻き切りました。イマン、千と一代目の処刑人の命は、こうして罪深き女盗賊の手によって奪われたのです。
ケイナン? 彼女は淋しい砂漠をひとりどこまでも歩いていって、それきりでした。
残されたのは、イマンの流した血を吸い上げ、真紅に染まった砂だけでした。貴方様にはもうお分かりでしょう、語り部たるわたくしが食んだのは、その紅い砂なのです。
慈悲深き処刑人 下村アンダーソン @simonmoulin
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