九月一日
飴雨あめ
九月一日
キラキラした夢の世界から、肉体だけが現実に引きずり戻された気分だった。
夏休み明けの教室はやけに浮ついた雰囲気で、いつもの休み時間も、いつもの放課後も、今日だけは決して始まらないだろうという確信が持てた。
ほっと胸を撫でおろす。
教室にいる誰もが、私の存在に関心を示さない。私自身も。
私は今日のような日が好きだ。夏の非現実的な暑さが過ぎ去り、快適さと、少しの寂しさが入り混じった空気。無意味に陽気で不快な夏から、快適な現実へ突き落されたギャップ。そんな心が浮つくような日は、いつもなら勇気が出なくてできないようなことでも、いとも簡単にできてしまいそうな気になる。
先生も夏休み気分が抜けていないのか、出席をとるのも忘れてふわふわとした一日が過ぎて行く。
結局、私は誰にも話しかけられることもなく、予定通りの学校行事を全て済まして帰路に着いた。
こんなに快適で非現実的な日は、記憶にある限り初めてだった。
不思議と悲しげに聞こえるひぐらしの鳴き声を聞きながら、残暑すら感じさせない快適な世界をふわふわと歩く。夏休み前までは見飽きていた通学路も、まるで違う世界に来たかのように新鮮に感じられた。
近くの川を流れる水のせせらぎも、遠くから聞こえる野良猫が喧嘩している声も、通り過ぎる自動車や学生も、全てが現実味を帯びていなかった。
しばらく歩いていると、一匹の黒猫が私の歩く歩道をふさぐように座っていた。黒猫の足元には蝉の死骸がひっくり返っている。
私が目の前まで近づいても微動だにせず鎮座する黒猫はやけに非現実的で、今ならこの黒猫が日本語を喋ってもきっと驚かないだろうと思えた。
夏休み明けのふわふわとした空気と、目の前の非現実的な光景にやられたのか、私は自然とその黒猫に話しかけてしまっていた。
「そんなところで何してるの? そこ、通りたいからどいてくれにゃい?」
といっても歩道はそれほど狭くないし、歩道をふさぐほど大きい猫でもないので避けていけばいいだけなんだけど。
「通っていいですかー?」
私はしゃがんで黒猫に目線の高さを合わせ、もう一度話しかけた。
あまりに微動だにしないので、よくできた置物かなにかだと思い始めていた頃、黒猫が口をひらいて鳴いた。
「あなたはこの道を通って、いったいどこに行くんですか?」
鳴き声はにゃあではなかった。
案の定、私は少しも驚かなかったが、猫語風に喋った自分が少し恥ずかしくなった。
「学校が終わったから、私はおうちに帰るんだよ」
「おうちに帰って、どうするんですか?」
「どうするって……ご飯食べて、宿題して、お風呂入って――っていつも通り過ごすんだよ」
「いつも通り、ですか。あなたのいつも通りは、本当にそうですか?」
「あなたが私の何を知っているの?」
「家に帰って、適当に過ごして明日になって、するとまた以前のような毎日が始まりますよ。今日みたいな日はもうやってきません。それでもいいんですか?」
「…………」
黒猫の諭すような口調に、私は黙り込んでしまった。
「あなたも感じているように、今日は特別な日なのですよ。明日からはまた、夏休み前までと同じような毎日がやってきますよ。それはあなたにとって、望むところではないでしょう?」
「それは……そうだけど。でも、そんなの、明日になってみないとわかんないじゃん!」
少し強く言い返した。そうしなければ、この時間が――この日が、終わってしまうような気がしたからだ。
だけど、本当は、本当のことは、私自身、すべてわかっていた。最初から、知っていた。
「それでいいんですか?あなたは本当に、それで――」
「どうしたらいいの……?」
「あなたが動かなければ何も変わりませんよ。逃げるか、進むか選ばなければ――勇気を出して一歩を踏み出さなければ、何も変わりません。このままですよ」
「一歩……」
「そうです。本当は全部わかっているんでしょう? 私の言葉はすべてあなたの言葉です。私はただの、猫ですから」
猫はにゃあとないて、落ちていた蝉を咥えた。
民家の塀を上りあっという間に去っていく。
「勇気を出して、一歩を踏み出しなさい」
私の声だった。
塀の向こうへ猫を見送り、視線を前へ戻すと、小学生ぐらいの男の子が歩道に座っていた。ちょうど先ほどまで猫が座っていたのと同じ場所に。
男の子はにゃあと鳴いた。
私は男の子の脇を通り過ぎ、再びとぼとぼと歩き出した。
頭がぼーっとする。
ひぐらしの鳴き声が脳に響く。
さっきよりもさらにふわふわとした気分だった。涼しいはずなのに、視界が熱気で揺れているように見える。
「一歩」
私はさっきの黒猫の言葉――いや、私の言葉を思い出す。
夏休みに入る前、この道を歩く度、毎日考えていたことを思い出す。
勇気が出なくて踏み出せなかった一歩を思い出す。
今日なら――今日みたいな日なら――
私のつま先が何かを蹴った。
蝉の死骸だった。
先ほどの猫が咥えていったものと同じように見えたが、きっと気のせいだろう。
蝉の死骸が、私の一歩を応援してくれているような気がした。
――一歩。
夏休みに入る前、勇気が出なくて踏み出せなかった一歩。
毎日毎日、泣きながらも踏み出せなかった一歩。
「一歩――踏み出せば、全部――」
踏切警報器の音が鳴り響く。
目の前に遮断機が下りる。
電車の走行音が近づく。
ひぐらしの鳴き声が悲しげに響き渡る。
九月一日 飴雨あめ @ame4053
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