くらげ紡ぎ

青島もうじき

くらげ紡ぎ


 雰囲気だけで小説が書きたい。


 そう考えた少女は、波打ち際にひつじを呼んだ。ふかふかとしたその羊毛に後頭部をうずめるようにして寝転がると、空には無数の星がちりばめられていた。

 きっと、これだけ綺麗に空が見えるのだから、今は冬なのだろう。少女がそう思うと、それまでただの点の集合であった星々が、星座という形を伴って、夜の暗幕の上に整列する。オリオンの三つ星、冬の大三角、あとは詳しくないから、それ以外の星の個性は死んだ。


 ただ空を眺めているだけでは、お話が生まれない。この静寂な空気に合う登場人物が、もう一人くらい欲しかった。


「うわ、アンタも抜け出してきてたの?」


 どこから抜け出してきたのか、私が誰なのか、そんな設定はまだ考えていなかったけれど、お話には謎がつきものだ。振り返ると、星明りを目に灯した、私じゃない方の少女がいた。砂浜の後ろに広がる黒々とした防砂林のシルエットに溶けるような、長く光を吸い込むような髪。頭を起こすと、ひつじは「め」に濁点のついた声を立てて、私との別れを惜しんだ。


 目を凝らすと、水平線から突き出すようにして、空を鋭角に切り取る直線があった。これだけ大きな人工物があるのだから、この世界はきっとファンタジーか、終末モノなのだろう。


「くらげが見たかったんだ」


「ああ、くらげ。今この辺りまで来てるんだっけ」


 少女は私の隣に腰かけた。いつの間にか、ひつじは砂浜に打ち捨てられたソファへと変わっていて、私たちはそこに深々と埋もれていく。ひつじなんて書いていたら、なんだか眠たくなってしまいそうだったから。


 そっと手を取られた。その手は細かく震えている。その肌からは、運動した後に身体から蒸気が上がるのと同じような様子で、ほの明るく光る緑が、ふわふわと立ち上っていた。ちょうど、蛍の求愛行動みたいに。

 持っていた薬を渡そうとすると、やんわりと押し返された。どうやら文章から察するに、この蛍光色は薬でとどめられる症状らしい。綺麗なのに、病気なのかな。


「アンタが持ってなよ。アタシはもう、ほとんど中身ないし」


 恐怖に震える身体を、自分で抱きすくめるようにしながら、少女は言う。なんだかよく分からないけど、自分を犠牲にするくらいに、私はこの少女から大切に思われているらしい。

 自分で書いているお話だけど、こういうのは悪い気はしない。

 少女から飛び立った光は、水平線の向こうの鋭角へと飛んでいく。ややしばらくして、そのオブジェクトが一瞬、同じ蛍光を纏って輝いた。


「ありがとう」


「ん」


 なんだかこのままだと暗いお話になってしまいそうだ。仮に終末を迎えた世界のお話なのだとしても、もう少ししみじみと漂ってくる雰囲気のようなものがほしい。


「そうだ」


 少女が立ち上がった。その身体からは依然として、光がふわふわと浮きあがっている。


「くらげ、見たいんでしょ? いい場所知ってるよ」


 手を引かれて砂浜を歩く。見渡す限りずうっと先まで続いているその砂の海に、大きな自転車が停められていた。昔の白黒映画に出てくるような、前輪の大きいものだ。


「捕まってて」


 くらげを求めて、星の煌めく夜の砂浜をクラシカルな自転車で、蛍のような少女と二人乗り。素敵な光景だ。どうやってあのタイプの自転車に二人乗ったのかは分からないけど、そのあたりはきっと上手くやったのだろう。


 そっと抱きしめたその身体は、思ったよりも軽かった。質量が、というよりも、その存在が希薄になりつつある感覚。中身がほとんどないって、そういうことなのかな。少女が意味ありげに放った言葉に、だんだんと具体性が伴っていく。


 恋愛要素も入っていると、ちょっと奥行きのあるお話になる気がする。きっとこの少女は私を大切に思ってくれているんだけど、それは恋愛みたいなものだと解釈してもいいだろう。


「もうほとんど覚えてないんだけど、私、あなたに大切にされて、幸せだったよ」


 世界観に合いそうなそれっぽい言葉を言ってみると、少女は自転車を走らせながら、はっと振り返った。その黒髪の向こうに、不意に大きな影が姿を見せた。


「あ、くらげ」


 私のその声に、なにか言いたげだった少女は、再び前を向いた。恋の行方は、最後まで引っ張った方がいいもんね。いつの間にか私たちの乗る自転車は、小高い丘を登っていた。

 さっきのひつじが、私たちには目もくれずに草を食んでいる。風が吹くたびに波打つそれらは、ほとんど海の光景と変わらなかったけれど。あれ、そういえば冬なんだったっけ。まぁいいか。そういう世界だったってことにしよう。


 冬の大三角なんかとは比べ物にならないくらいに大きなくらげが、空をたゆたっていた。空の三割ほどを占めるそれは、海に沈んでいたような光る人工物ではなく、なめらかな曲線を描く、生き物だった。

 重力を無視したような……というか、無視しているのだろうけど、その姿は、この上なく雄大だった。マシュマロの真ん中のところをへこませたような傘から、七夕飾りみたいに何本もの触手がぶら下がっている。私たちの頭上を通り過ぎていくとき、草原には強い風が吹いた。


 いつの間にか私たちのそばにはひつじがやってきていて、ぼうっとした顔でくらげを一緒に眺めていた。もう。ひつじなんて書いていたら眠くなっちゃいそうだって言ったのに。少女は愛しそうにひつじのあごの下を撫で、ひつじは気持ちよさそうに目を細めていた。

 私たちは黙って、くらげの漂っていく方向を眺めていた。言葉を交わさない時間だって、小説には必要だ。会話ばかり書いていたら、言葉にできない想いをきっと拾い損ねてしまう。なんて言ってみたり。


「くるよ」


「うん」


 なにが、と聞かずに成り行きに身をゆだねていると、水平線のオブジェから、くらげにむけて緑色の光の筋が伸びた。

 それを身に浴びたクラゲは、軽くなった。少女と同じく、存在がそう感じられた。そして、この世界を作った私がそう感じているのなら、きっと事実としてそうなのだろう。


「あーあ。やっぱり、あと一回分くらいで無くなっちゃうな」


 見ると、少女の身体から立ち上る蛍光が、だんだんと薄くなっていっている。それを見て、私は悟る。この少女との別れが、この小説の一番の見どころが、迫ってきているのだと。


「世界を書き換える力なんてなければ、こんな思いはせずに済んだのにな」


 少女の笑った目元からあふれた雫が、星の光を集めながらしたたり落ちる。ひつじの毛が、それを優しく受け止めていた。


「あいつらに力を使われるたびに全部忘れちゃうアンタだから話せることが、いくつもあった。本当は怖いんだってことも、アンタは全部受け止めてくれたよね」


 オチへ向けた説明口調で、大切なことが明かされる。だけど、私の背中に回された手の強さが、その気持ちが本当だってことを物語っていた。思い出したように、冬の冷たい風が吹く。身を寄せ合うように、私たちは互いを強く抱き寄せた。


「後悔しないように言わせてね。一生のお願い」


「うん」


 その先に続く言葉を、私は知っていた。だけど、それを書くことを、私はしなかった。だって、そこまで書いてしまったら、この二人の雰囲気ある美しい物語には野暮だと思ったから。だからその代わりに、一つ流れ星を空に走らせてやった。


 どれほどの時間が経っただろう。気づけば私の腕の中にはなにも残っていなかった。蒸発してしまったかのように、跡形もなく。


 このお話は、本当に、私が書いたお話だったのかな。

 元々は少女だった緑の光が水平線へと吸い込まれていくのを眺めながら、そんなことを思った。


 なんちゃって。

 それっぽいオチになったと思うけど、どうだったかな。


 ちゃんと、雰囲気のある小説が紡げたかな。


 と、ここまで書いたところで、私の身体から、一匹の蛍が飛び立った。


 ポケットから取り出した一錠の薬。


 少女から託されたそれを飲んで、この小説は幕を閉じた。

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