いつか、枇杷の花が咲く頃に

神崎 ひなた

いつか、枇杷の花が咲く頃に

 目が覚めるといつも、大きな枇杷の木に寄りかかっている。

 それは見上げるほどに大きくて、立派な巨木だった。しかし樹皮はぼろぼろで、茂っている葉は一枚たりとも無かった。枝もかろうじて幹にくっついているだけで、枯れ落ちるのを待っているようだ。

 幹の中心にはぽっかりとうろが空いていて、何かを語り掛けているようだった。しかし見ていると、どうしようもなく胸が寂しくなる。私は目をこするフリをしながら視線を逸らした。


 ――長い夢を見ていたような気がする。しかし、内容は思い出せない。

 ぼんやりとした視界に、桃色の風がふわっと舞った。


「そうか。もう桜の時期か」


 どこを見ても、ひらひらと桜の花びらが踊っていた。なんて現実味のない光景だろう。夢の続きを見ているようだ。


 はらはらと散り続けては、まだ散り続ける。

 散っても散っても、まだ散り止まぬ。

 目を閉じても泡沫で、目を開けていても泡沫だ。

 

 舞った桜のひとひらが、私めがけて飛んでくる。手を伸ばしたのは、ほんの気まぐれだった。

 しかし花びらは私の手をすり抜け、ぽっかりと空いた胸の穴に吸い込まれて消えた。


「そうだったな……そうだったよ」


 自分を思い出した途端、すっと意識が冷めて、静かに、染み渡るように全身に広がっていく。あまりにも寒くて、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


「悲しいのか? 百養ひゃくよう


 しゃがれた男の声がした。目の前に、黒い外套がいとうの者がそびえ立っていた。表情は深く被った中折れ帽に隠されている。その者は身の丈ほどもある大きな鎌を、億劫そうに肩にかけ直した。


 私はこの者を知っている。

 決して隙を見せていい相手ではないことも知っている。

 私は慎重に言葉を選ぶ。


「欠伸をしただけだ。こうも寒いと、眠くていけないな」

「まだ夢を見ているのか? 難儀なやつだ」

「夢? 私はちゃんと起きているよ」

「本当か? お前にはもう、夢とうつつの違いも分からないのだろう?」

「……」

「百養。本当は悲しいのだろう?」


 しゃがれた残響を残しながら、黒い外套は姿を消した。

 どこからか寂しい風が吹いて、胸にぽっかり空いた穴を通り抜けていった。


「……悲しくなんて無いさ」


 ただ、本当にどうしようもなく寒いんだ。

 またぽろぽろと涙が零れ落ちて、枯れた頬を伝った。


※ ※ ※


 かつて私は、枇杷の神木だった。

 枇杷は栄養に富んだ実を付ける。だからかつて人は、枇杷を信仰の対象に選んだのだろう。

 人々が無病息災や家内安全を祈り、信仰すると、私には本当にそういう力が宿った。

 同時に、私という存在が生まれた。

 百養はその時に授かった名前だ。


 信仰と名前を得た私は、通常では考えられない大きさにまで育った。社が建てられて、年に二回……豊穣祈願祭と、収穫祭が催された。いつもたくさんの人々が訪れて私に祈りを捧げた。

 そういった信仰によって、冬の足音が近づく頃にはたくさんの実が生った。収穫が終わると、病に侵された人々が次々に訪れて、枇杷を口に運んだ。


 人々に必要とされることは嬉しかった。誰かにお礼を言われるたび、胸がむずむずした。誰かの笑顔を見るたびに、また花を咲かせようと強く誓った。


 しかしそんな日々も、長くは続かなかった。


 栄養を求めて病人が寄り付く。故に、枇杷は不吉な木だという噂を招いた。噂はやがて信仰を塗りつぶして、いつしか事実として認知されるようになった。


 それ以来、人々は私の元を訪れなくなった。


 いくつもの時間が流れて、病院と呼ばれる大きな施設ができた。私は中庭と呼ばれる場所で、今もひっそりと立ちすくんでいる。


 かつてのように、病んだ人々を多く見かけるようになった。


 病衣の老人や、茫然と空を眺める看護師、俯きながらゆっくり歩く青年――その誰もが、それぞれの世界に生きている。


 しかし私を必要とする者は、誰もいなかった。


 私はようやく気が付いた。

 信仰の時代はとうに終わったのだ。


 ――それが私の中に横たわる記憶だった。

 しかしそれも今となっては、夢か現か判然としない。


 私がかつて枇杷の神木だったことなど、もう誰も覚えていないのだから。夢と断じられたらそれで終わりの話である。


 目を閉じても泡沫で、目を開けていても泡沫だ。

 凍えるような寒さの中に消えていく、幻のような時間。

 ずっとそんな風に、空虚な意識が漂うのだろうと思った。


 ――あの少女に出会うまでは。


※ ※ ※


「ねぇ。お姉さんはどうしていつも一人でいるの?」


 私に話しかけてきたのは、いかにも無邪気そうな少女だった。年はまだ五、六歳といった風貌で、どうやらこの病院に入院しているらしい。

 彼女が着ている真っ白な病衣のように、純真無垢という言葉がよく似合う。興味津々で私をのぞき込む瞳には、まだ何も知らない光が爛々と輝いていた。


 どうやらこの子には私が視えるらしい。今までにも何人か、そういう人間はいた。しかし、胸に穴の空いた私という存在に話かける物好きはいなかった。


「ねぇ。聞いているの? お姉さん」


 人間に話しかけられるのは久しぶりだったのでどう答えていいか分からなかった。


「私が怖くないのか?」


 悩んだ末、私は自分の胸を指し示しながら言った。少女は「ぜんぜん」と首を振る。


「病院には色んな人がいるんだよ。お姉ちゃんも、きっとそういう病気なんだよね?」


 まったく子供というやつは想像力が豊かだな。素直に関心してしまったよ。


「病気――かもしれないな。でも、きっと普通の病気じゃない。もしかしたら君に感染うつってしまうかも――」


「私はそんな理由で人を嫌いになったりしないもん!」


「う……うん?」


「普通じゃないからって、お姉ちゃんが一人でいていい理由にはならないもん! それを言うなら、私だって普通じゃない! ここには同い年の子がいないから――私だって普通じゃないもん!」


 少女は叫びながら泣きじゃくってしまった。――こういう時はどうすればいいのだろう? さっぱり分からない。

 戸惑っている間にも、少女は言葉を続ける。


「でも、大丈夫だよ! お医者さんはすごいんだから! きっとお姉ちゃんの病気もいつか治るよ! だから、そんなに悲しそうな顔しないで……」


 悲しそうな顔、か。

 黒い外套といい、この少女といい――視えるやつには、そう視えるらしい。

 

 悲しくはないんだ。

 ただ、どうしようもなく寒いだけで。


「……つまり、私が放っておけなかったんだな。優しい子だね」


 しばらく少女は泣きっぱなしだったが、やがて目元を拭って、ずーっと鼻をすすった。そして、思いもよらないことを言う。


「お姉ちゃん、私とお友達になってくれる?」

「な、なんだって?」

「お友達になってくれないとまた泣いちゃう……」


 一体どういう理屈なのか分からないが、少女にとってそれは重要なことらしかった。本当に子供というやつは困ったものだ。

 また泣かれても困るので「分かったよ」と返事をする。


「じゃあ、また会いに来てもいいよね!? 来るね!」

「えっ……」

「じゃあ、そろそろ検査の時間だから行くね! またね、お友達のお姉ちゃん!」


 少女は手を振りながら駆け出していった。残された私は、その後ろ姿を茫然と眺めていた。

 嵐のような少女だった。

 しかし、不思議と心が温まるのを感じた。


「友達か……」


 友達がどんなものか分からなかったが、少なくとも大切にされているのだということは伝わってくる。

 誰かに必要とされるのは、いつ以来だろう。


 彼女がまた会いに来てくれるのだろうと思うと、少しだけ寒さが和らいだ気がした。


※ ※ ※


時任ときとうりん。不治の病だ。長くはない」


 しゃがれた声が隣から聞こえた。黒い外套の者が、いつの間にか目の前に聳え立っている。

 宙を舞う桜の花びらが、黒い外套を避けるようにふわふわと風に流されていった。


「なんだ。わざわざ、そんな話をしに来たのか?」

「そう怖い顔するなよ。百養、俺は忠告してやっているんだ」

「忠告だと?」

「お前は人のために咲いた木霊だ。だからつい、あの子に感情移入しちまわないかと――心配でね」


 黒い外套はそのまま私の隣に腰を下ろす。

 ぎらり、と一瞬、鎌の切っ先に光がひるがえった。


「百養。自分でも分かっていると思うが、お前に昔のような力は無い。だから、あまり変な気を起こすなよ」

「変な気、とは?」

ということだ。分かるだろ?」

「そんなことは――」


 言いかけた時には、もう黒い外套の姿は無かった。嘲笑うかのように寂しい風が吹いて、また胸の奥へと吹き抜けていく。


『百養。今の自分に何ができるのか――よく考えることだ』


 びゅうびゅうと風の音に混じって、しゃがれた声が響いた。


「――そんなことは分かっている」


 まるで他人事のような言葉が、しばらく自分のものだと気が付けなかった。


※ ※ ※



 その日以来、凛はたびたび私の元を訪れては、とりとめもない話をしていくようになった。

 検査のことや、病院のご飯がマズイこと、両親に会えなくて寂しいこと――小学校に行けるようになったら、たくさんの友達を作りたいこと。

 彼女の話を聞くたび、この希望に満ちた瞳は、まだ世界のことを信じてあげられるんだろうと思った。

 それはきっと、いいことなのだろう。


「いつも私ばっかり話してるような気がするから、今日はお姉ちゃんの話を聞かせて!」


 ふと、思いついたように凜が言った。この子は本当に、私を戸惑わせるのが得意だ。


「え? いや、私なんて、特に語ることもないが……」


 たちまち凛が泣きそうな顔したので、慌てて咳払いする。


「わかった。じゃあ質問してくれよ。答えられる範囲で答えるから」

「うん!」


 次の瞬間にはもう笑ってるんだから、将来いい女になるよ。

 自分の涙にどれだけの価値があるかってことをよく知っているんだから。


「それじゃあ最初の質問は、えーっとね……お姉さんはどうして、いつもこの場所にいるの?」

「いきなり難しい質問だな」


 まぁ、端的に言えば他に行く場所がないからだ。

 存在自体が木に宿る信仰である私は、枇杷の木から離れることができない。

 ただ、それを言っても凜には伝わらないだろう。


「こんな寂しいところより、あっちの……桜がたくさん咲いている方がいいんじゃないかなってずっと思ってたんだ」


 凜が指さす方を見る。そよ風に舞った桜がひらひらと空中を踊っていた。

 綺麗だな、と思った。まるで他人事のような感情だった。


「私はここがいいんだよ。あんな華やかな場所、私には似合わない」

「そっか……」


 凜は寂しそうに俯いた。

 なにか言うべきなんだろうな、と思った。


「枇杷の花も、綺麗なものだよ。まぁ桜には見劣りするが……白くてパサッとしていて、見ごたえがある」

「でもこの木、枯れてるみたいだよ……」

「まだ時期じゃないからさ。枇杷は冬の足音が近づくころに花を咲かせる」

「へぇ。お姉ちゃんは物知りだね」

「そうかな」


 ただ単に長く生きているだけだ――と言いかけて、言葉を飲み込む。


「冬になったら、一緒に花を見ようね」


 と凜が言った。無邪気な笑顔だった。私は何も考えず頷いて、またやってしまったなぁと思う。

 凜の言う通り、枇杷の木は枯れているに違いなかった。

 こんな状態で花など咲くわけもない。

 それにまた次の冬が来るまで、私や凜がここにいるかも分からない。

 

 守れるか分からない約束だけが増えていく。


「じゃあ、次の質問だよ!」


 私がそんなことを考えている間にも、凜の興味は尽きないらしい。

 しばらく悩んだ後、凜はこんなことを尋ねた。


「胸に穴が開いていて、寒くないの?」

「それは……大丈夫だ。全然、寒くないよ」


 凜がほっと安心したように笑った。

 だから私も、上手く笑えていたのだろう。

 

 ――本当は、とても寒いんだよ。


 なんて。

 言えるわけがないのだ。


※ ※ ※


 しばらくはそんな日々がいくつか通り過ぎていった。

 凛はときどき私の元を訪れなくなった。どうやら容体が悪化して、検査の数が増えているらしい。


「大丈夫だよ。きっとすぐによくなるから」


 口ではそう言うが、顔色の優れない日が増えていった。

 凜は次第に衰弱していった。目に見えるほど痩せていった。会える日よりも、会えない日が増えていった。


 いつの間にか凛のことばかり考えるようになった。


 あの無邪気な笑顔がもう一度見たい。あの希望に満ちた瞳や、風によそぐ髪が愛おしい。

 とりとめのない会話を思い出しては心を温める。そのたびに、どうしようもない約束のことばかり思い出してしまう。


 全てが夢の続きだったらいいのに、と思った。

 しかし時間はゆっくりと、着実に凜を蝕んでいく。

 私にできることは何もなかった。 


※ ※ ※


 さらにいくつかの時が過ぎた。

 ある日、凜が突然に私の元を訪れた。

 しかしその頬は最後に見た時よりずっと赤かった。耳の端まで真っ赤で、高熱に侵されていることは明白だった。


「凛。ベッドに戻って休みなさい」

「分かってるよ。でも、お姉ちゃんにこれを渡さなきゃって思って……」


 そう言って凜は私に毛布を渡した。子供用の、小さな毛布だ。おそらく病室で自分が使っていたものだろう。


「どうして……こんなものを」

「だって今日は寒いから……お姉ちゃんは、もっと寒いだろうなぁと思って」


 息が止まった。

 年不相応に察しのいいこの子のことだ。

 おそらく、最初から私が寒がっているのを知っていたんだ。


「気持ちは嬉しいけど、私よりも自分の心配をしなきゃダメだろう。今もこんなに寒そうじゃないか」


 凜は小さく首を振って、毛布を私に押し付ける。


「だって――お姉ちゃんはお友達だから」


 そう言いきらないうちに、凜はふらりと倒れこんだ。

 どさっ、という軽い音が芝生に吸い込まれる。


「凛? おい、凛! しっかりしろ! 凛!」


 誰にも聞こえないと分かっているのに喚き散らして、触れないのに揺さぶろうとして――馬鹿馬鹿しい。


 結局、凜が私の呼びかけに応えることは無かった。

 凛の真っ赤な頬に、ひらりと桜の花びらが舞った。


 枇杷の木の下で、毛布が寒々しく横たわっていた。


※ ※ ※


「――とうとう、この時が来てしまったな」


 黒い外套の者が、凜を見下すようにして聳え立っていた。いつもは肩にかけている鎌を、今日はしっかりと両手に握りしめて。


「そう気に病むなよ、百養。こうなることはずっと前から決まっていたんだ」


 しゃがれた声が響くたび、ごうごうと風の音が轟いた。枇杷の枯枝かれえだがぽとり、ぼとり、と地面に落ちる。


「さぁ、その子を渡せ。抵抗するならお前とて容赦はできんぞ」


 黒い外套が一歩、また一歩と近づいてくる。

 もし運命が正しいのなら、凜の魂は死神に奪われるのだろう。

 

 ――本当にそれでいいのか。


 あの子にはまだまだ、これからの時間があったはずだ。きっと大人になったら、一本筋の通った美しい女性になるはずだ。持ち前の優しさと強さで、きっとたくさんの人に好かれるのだろう。困っている人のために身を粉にして、それでも笑う。そんな姿がありありと瞼の裏に映る。


 それは「あったかもしれない未来」で。

 凜はまだ、ここにいる――だから。


『よく考えることだ――いまの自分に何ができるのか』


 そんな言葉を思い出した時――私は、黒い外套に立ちはだかっていた。


「……どういうつもりだ、百養」


 地の底から響くようなしゃがれた声は、明らかに苛立ちを帯びていた。思わずぞっとするほど恐ろしいが、怯んではいられない。

 

 ――凛がいなければ、私はきっと漂って朽ち果てるだけの意識だった。

 でも、そうはならなかった。

 そうはならなかったんだよ。


「友達っていうのは、どうやらお互いを大切にするものらしい――凜は私を大切にしてくれた。だから、今度は私の番だ」


「だから死に抗おうというのか? 分からんな百養。その感情は俺には分からんよ」


 鎌が、だらりと力なく垂れ下がった。お前には失望したと、言外のうちに語っているようだった。


「残念だよ。俺は、お前のことを気に入っていたのに。だから忠告もしてやった」


「悪いな。お前の言葉はこれっぽちも響かなかったよ。私の空っぽの胸には、何も……!」

 

「……そうか。残念だよ。しかし今のお前に何ができる? 信仰を失ったお前に。枯れ朽ちていくだけのお前に、一体何ができるというのだ」


「できるさ。信仰ならここにあるだろう?」


 私は凜をそっと抱きしめて、意識を集中させた。

 人のために祈るのはいつ以来だろう。

 今の私に一体どれだけの力があるのだろうか。分からない。


「凜が、私を友達だと信じてくれているのだから――それで十分だ」


 この一回だけでいい。

 一回だけ、私の本来の在り方を取り戻せたら、それでいい。


 凜のために祈り始めた途端、体から力が抜けた。見ると胸には、ぼこぼこと複数の穴が空き始めていた。腕や足が、ぴしぴしと音を立てて割れていく。あまりにも寒くて、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。

 ――構うものか。

 私は最初から、このために存在してきたのだから。

 本望だろう?


「凜……友達をたくさん作るんだろう? 病院の外で、美味しいご飯を食べるんだろう? お父さんとお母さんに「ただいま」って言うんだろう?」


 君にはまだまだ、やり残したことがあるじゃないか。

 なら――生きなくちゃ。


 めき、という歪な音が鳴った。それは枇杷の巨木が軋む音だった。一つ、また一つ、際限なく、ぼろぼろと枝が壊死して地面に落ちていく。寒い。とにかく寒い。胸が燃えるように寒い。気を抜けば、どこか遠い世界に溶け込んでしまいそうだ。


 ――目を閉じても泡沫、目を開けていても泡沫。

 だけど、この一瞬だけは。

 そんな言葉で終わらせない。


「凜……! 戻って来い、凛!!」


 その瞬間、頭の中が真っ白になった。大切な何かが切れたのだと、頭では理解できた。だが、体はまるで言うことを利かなかった。

 凜を握りしめていたはずの手も、地面に垂れ下がってしまった。

 

 でも、どうにか間に合ったらしい。

 凜の頬はすっかり普段の色合いを取り戻していた。呼吸も深く、安定しているようだった。


「なんだ。私だって、やればできるじゃないか……」


 安堵した途端、緊張の糸が切れて意識が遠ざかる。

 感覚が無い。自分がどこにいるのかも分からない。

 

 でも――よかった、と。

 そう思えたことだけは、確かに心の中に残っていて。


「これでちゃんと……私も友達に……なれたかな」


 凜――君に出会えたから、私は私になれたんだ。

 ありがとう。

 おかげでもう、寒くは無くなったよ。


 めきめきと大きな音を立てながら、枇杷の巨木が真っ二つに折れて、地面に倒れ伏した。

 


※ ※ ※


 それから、少しだけ時間が過ぎた。


 中庭で横たわる朽木くちきの前に、黒い外套が佇んでいた。

 片方の手には、身の丈ほどある大きな鎌が携えて。

 そしてもう片方の手には、一輪のコスモスが握られていて。


「百養。お前さんのおかげで、俺は仕事をやり損なっちまったよ。凛という少女、どんどん病状がよくなって――不治の病だってのに――完治しちまった。それで今日、退院だとさ。よかったじゃないか。だが、最後までお前の姿を探しているようだったぞ」


 中庭に、しゃがれた声が響いていた。

 返事はない。


「なあ百養。幸せってのはなんだろうな? 凜は助かって、お前は癒しの力を取り戻し本懐ほんかいを遂げた。みんな少しずついい方向に変わったんだ。だからきっと、こいつは良い話なんだろう」


 中庭に、しゃがれた声が響いていた。

 返事はない。


 枇杷の木が完全に倒壊したその日、病院中が騒然とした。誰もが枇杷の木を話題にした。凛という少女に、何か神秘的な出来事が起こったことを、まことしやかに噂した。

 しかし一週間も経つ頃には、みんなすっかり忘れていた。


 この朽木も、あと数日経てば業者がどこかに運んでいくのだろう。

 そしていつか、誰の記憶からも消えていく。


「なぁ、百養。お前が果たせなかった約束はどこに行くんだよ」


 たった一人のために信仰を使い果たした木霊は、この世から消えてしまった。満足そうに笑いながら。

 それが本望だとしても――そのために生まれたのだとしても。

 果たせなかった約束は、どこにも行けないまま。

 忘れていくしかないのだろう。


「あの子、きっと思い出すぜ。枇杷の花が咲く頃に、お前と一緒に過ごした日々を。何年も何年も――ずっと」


 目を閉じても泡沫、目を開けていても泡沫。

 終わらない夢のように――ずっと残り続けるもの。


 幸せとは、そういうものを言うのだろう。


 黒い外套が、そっと朽ち木の上にコスモスを乗せる。

 どこからか風が吹いてきて、白い花びらが静かに揺れた。

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いつか、枇杷の花が咲く頃に 神崎 ひなた @kannzakihinata

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