第5話

 バタバタと階段降りる。

 下駄箱の上、籠の中から自転車の鍵を取り出す。玄関を飛び出て自転車に跨がると、頭の中に光莉の声が響く。


『学校行くの? 今日の予想最高気温三十六度だよ?』

(知ってる)


 私は、ペダルに足をかけてえいっと漕ぎ出す。

 たいして進まないうちに汗が流れてくるけれど、かまわない。


『ちょっと遥。戻ろうよ』

(思い出巡りの続きする。学校、まだ行ってないじゃん)

『行ってないけどさ、何も今日みたいに暑い日に行かなくても。熱中症になるって』


 いつも明るい光莉の声は、歯切れが悪かった。

 心配してくれるのは嬉しいけれど、今日は暑さが気にならない。記憶を取り戻せそうな気がして、ペダルを漕ぐ足が軽かった。私は、ブラウスの袖から伸びる腕が焼かれるまま学校へ向かう。


(私が告白したのって、学校の裏庭?)

『そうだけど、思い出したの?』

(思い出してないけど、思い出せそうな気がする。光莉、私に思い出して欲しいんでしょ)

『思い出してくれたら嬉しいけど、慌てるほどのことじゃないよ。まだ時間あるし』

(大丈夫。思い出さなかったら、すぐに帰るから)


 自転車は、日陰を作るような街路樹も高い建物もない道をすいすいと進んでいく。

 校門を通って、自転車置き場へ向かう。


 夏休みの学校は騒がしい。

 部活動に励む生徒や補習で学校に来ている生徒。

 思ったよりも人がたくさんいる。


 私は三階建ての校舎を見上げ、グラウンドに視線を移す。学校の記憶は失われていない。はっきりと覚えているせいか、家にいるよりも落ち着く。


 記憶が二ヶ月分抜け落ちているから、やけに学校が懐かしい。ここには光莉との思い出がたくさんあって、私はそのたくさんの思い出の中から一つを取り出すために裏庭へ走った。


 花壇の隣、小さなスペースに座り込むと、記憶通りクローバーが生えている。

 四つ葉のクローバーを見つけたのは、ここだ。

 けれど、写真立ての中に入れたことは思い出せない。


 記憶が上手く繋がらない。

 でも、ぶちりと切れて、どこかに飛んでいってしまった記憶が落ちているはずだ。


(四つ葉のクローバーは光莉が見つけて、私がそれ欲しいって言ったんだよね?)

『そうだよ』


 そこまでは、間違っていない。

 四つ葉のクローバーが欲しかった理由は、叶えたいことがあったから。


「あのとき、叶えたいことって何って聞いたら、内緒だって教えてくれなくて」


 思わず声に出して、疑問が浮かぶ。


 ――誰が叶えたいことを聞いて、誰が内緒だって言った?


 ミキサーにかけられたみたいに、記憶が混じり合っている。

 誰が何を言ったのかはっきりとしない。

 顔を上げて校舎を見る。

 視線を落とし、土に触れる。

 思い出という名の地層に、化石のように何かが埋まっている。


 ぷちりとクローバーを引き抜く。

 目を閉じると世界は暗転し、私の意識は記憶の底へと潜っていった。


 映像になって浮かんだのは、白い校舎。

 少しだけ古い建物の中は、床に傷がいくつもあった。

 遥は廊下を走って先生に怒られていて、光莉はそれを見ている。


 時計は、四つ葉のクローバーを見つけた日に進む。遥が掃除中にビーカーを割って、呼び出されている。花壇の水やりを言いつけられて、裏庭に向かう遥と光莉が見えた。


 私は目を開いて、手に持っていたクローバーを見る。

 それは三つ葉のクローバーで、遥が四つ葉が見つからないと騒いでた過去と重なる。


 遥は元気が良くて、脳天気で、私を引っ張り回してばかりいた。

 性格が私と正反対で、だからこそ遥といると楽しかった。


 ――どうして自分が遥だと思っていたんだろう。


 なくしていた記憶が一気に流れ込んでくる。

 ここで告白をされたのは、私だ。

 ずっと遥が好きだった私は嬉しくて、一緒に動物園へ行ったし、映画も見に行った。事故に遭った日は、遥に誘われてプールに行く約束をしていた。


「遥。ねえ、遥」


 彼女の本当の名前を呼ぶ。


『学校に来たら、思い出しちゃいそうな気はしてた』


 遥がぼそりと言った。


「……なんで、入れ替わってるの?」


 声に出して問いかけると、今まで“光莉”だった遥が姿を変える。彼女は、私の頭の中で本来の姿である“遥”に戻って困ったように笑った。


『気がついたら、私の中に光莉がいたんだよね。でも、話しかけてもうんともすんとも言わないし、何があったかわからなくて人を呼ぼうとしたんだけど、自分の体もまったく動かなくてさ。それでも外からの音は聞こえてきてたから、病院に来る人の話を聞いてたら事故に遭ったってわかった』


 そこまで一気に話して、遥がくるりと背を向ける。そして、頭の片隅でふわりと体を浮かせると、静かに言った。


『光莉が死んじゃったってこともわかって。――だから、光莉に体をあげようと思った』

「勝手にそんなこと決めないでよ」


 思わず、大きな声になる。


『だって、プール行こうって誘ったの私じゃん。誘わなかったら、光莉が死ぬこともなかったのに。それに、体を動かそうと思って色々やってたら、光莉の意識を動かせることに気がついちゃったし。こうなったら、試すしかないじゃん?』

「ないじゃん? じゃないよ。遥、馬鹿じゃないのっ」

『だって、光莉に生きてて欲しいもん』


 浮いていた遥が降りてきて、にこりと笑う。

 遥の成績は悪くない。

 中の上くらいで、もう少し勉強すればかなり良い方になる。


 でも、遥は馬鹿だ

 絶対に馬鹿だ。

 私に生きていて欲しいからって、試しに体を明け渡すような人間は利口じゃない。


『というわけで、その体あげるから。記憶のことなら、心配いらないよ。子どもの頃の記憶がないのは、私じゃなくて光莉だからだし、そこら辺は私が今からみっちり教えてあげる。あと、お父さんがわからなかったのは、光莉がお父さんに会ったことがなかったからだと思う』


 遥が私の答えを聞く前にぺらぺらとしゃべり、これからの予定を語り始める。


 アルバムをもう一度見ればいいかな。

 ノートにも書いておこうか。

 ああ、日記をつけておけば良かった。


 彼女が独り言を呟き続け、私はそれを遮るように言った。


「勝手に決めないで。私、遥の体いらないし」

『なんで? もらっときなよ』

「いらない。出てく」

『どうやって?』

「それは……」


 わからない。

 でも、遥にできたんだから私にできないわけがないと思う。しかも他人に体を明け渡すのではなく、本人に返すのだから、遥がしたときよりも簡単にできるはずだ。


 私は遥の体から出て行くべく、立ち上がる。

 足を一歩踏み出すと、現実の体が前へ一歩進んだ。


『素直にもらっときなって』


 くすくすと笑いながら遥が言う。


「好きな人、死んだら嫌じゃん」

『好きな人って思い出せてもらえて良かった。でも、失敗しちゃったな。本当に死んじゃう前に、光莉に好きだって言って欲しくて思い出巡りしようって言ったんだけど……。言わなきゃ良かった』


 声は、明るかった。

 でも、表情は曇っていた。


 私は意識を集中する。

 体を動かすんじゃない。

 意識を動かす。

 この体の中で遥を初めて見た時のように、イメージする。


 入れ替わると念じて、自分の内側を覗き込むように目を閉じると、頭の隅っこにいる遥の意識を掴むことができた。


『ちょ、光莉っ』


 私はほんの少しの隙間、遥の意識の片隅に滑り込む。すると、くるりんと意識が反転するように私と遥が入れ替わった。トドメとばかりに遥の意識を頭の中央へ押すと、ぴたりとはまって抜けなくなる。


「げっ、戻ってる」


 裏庭に響いたのは遥の声で、私の視界はスクリーンを通して見る世界に変わっていた。映画館で見るように、遥が見た世界が私の中に流れ込んでくる。


「私の努力が水の泡じゃん」


 あーあ、とため息までつけて遥が言う。


『努力って、意識を入れ替えたこと?』

「それもだけど。光莉が自分のことを遥だって思うように、ずっと光莉の意識に“君は遥だよ、遥だからね”って囁き続けてたの」

『なにその努力』

「おかげで、光莉はちゃんと自分のことを遥だって思ってたでしょ」


 自慢げに遥が胸を張り、さすが私、と自分を褒め称える。けれど、彼女はすぐに表情を曇らせた。


「光莉が本当のことに気づいたら、こうなるって思ってたんだよね。四十九日間、黙っていれば良かった。そうすれば、入れ替わったままだったのに」


 クローバーの上、遥が座り込む。

 ぶちり、とクローバーを引っこ抜いて花壇に向かって投げる。

 泣いているのか、私の視界も滲んでいた。


『そんなの、私が許さない』


 体がないのにある。

 そんな不思議な感覚を感じながら宣言すると、遥が情けない声を出した。


「光莉、入れ替わってよ。そこ、私の場所」

『もう無理だよ。遥、ぴったりはまって動かなさそうだもん。さすが本人、体としっかり融合してる』


 私はふわりと浮いて、彼女の意識の周りを回る。

 頭の中の真ん中らへんに立っている遙は、その場所にとてもよく馴染んでいる。意識が戻る前は体との結びつきが弱かったのかもしれないが、今はつついてもぴくりとも動かない。


「このままじゃ、光莉がいなくなっちゃうじゃん」

『たぶんね』

「そんなのやだ」

『もうどうにもならないから』


 運命はあるべき場所に戻って、回り始めている。

 生きながらえた遥は明日へ。

 潰えた私の命は還るべき場所へ。

 お互い向かうべき場所へ向かって、歩む。


「暑い。やっぱり、こんな日に外へ出るべきじゃなかった」


 遥が不機嫌そうに言う。


『夏だし、こんなものでしょ』


 暑さがわからない私は、軽い口調で告げる。

 すると、遥がさらに不機嫌そうに言った。


「光莉に触りたい」

『私は、遥にたくさん触った』

「ずるい」


 文句がいくつもあるらしい遥は、ぶちぶちとクローバーを引っこ抜く。そして、四つ葉がないと言って空に放り投げた。


『ねえ、遥。私がいなくなる日まで思い出巡りしよう』


 私の言葉に、遥が眉間に皺を寄せる。

 ほんの少し黙り込んでから、諦めたように口を開く。


「予想最高気温が三十五度以下の日にね」


 遥が空を見上げる。

 私の視界にも、青空が広がる。

 太陽の熱は感じない。

 遥の意識がすぐ側にある。


 四十九日。

 それよりも長いかもしれないし、短いかもしれない時間。


 いつまでここにいられるかはわからないけれど、遥の中は意外に居心地が良くて私は目を閉じた。

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私と彼女の脳内コミュニケーション 羽田宇佐 @hanedausa

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