第3話 土御門紬の非日常

 紅い瞳を輝かせ、口元からは牙のような鋭い犬歯。


 明らかに、普通の人間には絶対にありえないまるでコウモリのような黒い翼をゆったりと目一杯広げて加速する。


 「血ぃ、血ィィィィィイイ!」

 「ひっ、ひえぇぇ!!」


 普段全く使用していないせいか、僕の脳みそは女の子みたいで情けない悲鳴だなぁ、とか、今日の夕飯にしようと思っていた惣菜の入った買い物袋が落ちてしまったなんてこの状況で思ってしまう。明らかに、日本の高校生が遭遇していい状態ではないのに。


 僕と彼女に30メートルはあった距離は、瞬きほどの間で零になる。驚異的な身体能力。最初の一歩目すら僕に見ることはできなかった。


 驚いて背を向けて走り出そうとして、後ろを向こうとして足をもつれさせた上に腰を抜かして地面に転がった僕に手を伸ばしたところで……崩れ落ちた。


 「え、何事?」


 先ほどまでの状況とのギャップがありすぎて、先ほどからまとまらない思考はさらにぐちゃぐちゃになる。いつも風呂上りに飲むことにしている、トマトをメインにした缶の野菜ミックスジュースが買い物袋から落ちて凹んだのを確認。僕の気分も凹んだ。これをふろ上がりに飲むのがいつもの楽しみなのに。


 そしてなぜか、保険の教科書にある人命救助の手順通りに意識確認をしだす僕。日本の教育は案外優秀なものらしかった。保健体育だけはね!


 「あの、大丈夫ですか?」


 これがいけなかった。


 この時の僕は、あまりにも危機感が足りていなかったと、後になって後悔した。


 なぜ逃げなかったんだろうと。


 ほんとにそう思った。


 そのまま足首を怪力で捕まれ、再びしりもちをついた僕に彼女が覆いかぶさった。抵抗しようにも、腕が抑え込まれて身をよじるくらいしかできない。

 固いアスファルトで舗装された地面にごちんと頭をぶつけた。あぁ、絶対たんこぶができるなぁ、これ。


 吸い込まれるようなしっとりと濡れた紅い瞳は瞳孔が開き、光はなく。荒い呼吸は興奮しきった猛獣を思わせた。


 喉の奥から聞こえる獣のようなうなり声。


 そのまま彼女は僕の顔に顔を近づけ――噛みついた。


 「っつ、つう!?」


 噛みつかれた首筋からの、激痛。


 抵抗はできない。痛みで驚き無意識に反応した体の防衛行動すら圧倒的な力で抑え込まれてしまう。


 それから、快楽。


 全身を抑え込まれて身動きの取れない状態で首筋に噛みつかれているのに、僕の口元は笑みを浮かべているのが分かった。僕の状態は普段からこうあるべきだったという安心感と暴力的なまでの多幸感。


 あきらかにおかしい。でも、抵抗できない。いや、抵抗したくないという意志と、幸福感に僕は支配されていた。


 「ふぁ…あぁ……」


 意識が遠のく。理由もわからぬ幸福感の中で、僕の意識は機能を停止した。




 意識の浮遊。毎日嗅いでいる自室の畳のイグサの匂い。つい先日畳を変えたばかりなので、まだ強くにおいが残っている。


 僕は自室で、いつも使っている布団の中で寝ていたらしかった。


 誰がここまで運んでくれたんだろうか。頭がボヤっとしてうまく思考をしてくれない。経験したことはないが、貧血、というのはこの症状のことなんだろうか。



 確か、家の前の仁司命名の土御門坂で、先輩に襲われて……。


 ――っつ、そうだ!


 「夕飯の材料!!」


 僕は跳び起きた。


 「ははは、起きていきなり夕飯の心配とは、紬は主夫が板についてきたなぁ」


 そこには父さんと、東雲先輩。


 父さんがいるのはわかる。当然、この家の主であるからだ。おそらくなんだかよくわからないけれど気絶してしまった僕を運んで、看病していてくれたのだろう。


 それに、東雲先輩も。多分、僕を気絶させた張本人だから。どうして今日初めて顔を見た人に襲われないといけないのかはさっぱり想像がつかないけれども。


 問題なのは二人の体制、というか状態というか。鎖? で全身を正座した状態で身動きが取れない状態されている東雲先輩と、いつでも振り下ろせるように抜身の刀を構えている父さん。


 ボクの寝起きの間抜けな一言に笑ったのか、口や表情は笑っていたけれど、目だけは笑っていない。こんな父さんの眼は初めて見た。というか父さん、その刀はもしかしてうちの神社の最奥に祭られている御神体じゃなかった?


 「え、父さん。何この状況」

 「まだ、紬には教えるつもりはなかったんだけれどな」


 そういって苦笑いする父さん。そしてそのまま東雲先輩の首筋に刀を当てた。


 「説明しろ、吸血鬼。紬への償いと、説明のためだけにお前を生かしてとらえたんだからな」


 底冷えする声。こんな冷たい声を出した父さんは生まれて初めてだ。


 「土御門君。今の私を見てどう思う?」

 「えっと、可哀そう?」


 なんだか僕は被害者らしいこの状況でも、鎖でがちがちに縛られている先輩を見ると、なんだかちょっとかわいそうに見える。ほんとに南江こんな状況になっているんだろうか。


 「優しいんだな、キミは。私の状態ではなくて、身体的な特徴のことだ。端的に言おう。私は吸血鬼なんだ」


 確かに、気絶するときに少しだけ見た先輩の体。コウモリのような翼に、長い長い犬歯。映画や漫画の中で見る、吸血鬼にそっくりだった。


  東雲先輩にかまれた首筋に手を持っていく。そこは、まだ熱を持っていた。


 「じゃあ、つまり僕は吸血鬼である先輩に襲われてしまったと……、じゃあ、僕は吸血鬼になってしまうんですか!?」

 「いや、吸血鬼になることはないよ。私が君を襲ってしまったときには、眷属を作ろうとして襲ったわけじゃない」

 「はぁ」


 まったく状況が理解できていない僕に父さんが助け舟を出してくれた。


 「紬。吸血鬼や幽霊、妖怪といったたぐいの怪異は、本当に実在しているんだ」

 「とうさん、いくらなんでも……」


 そんなこと、ありえないと。そう僕は否定することができなかった。あの時見た先輩は、後とき僕を襲った目の前の吸血鬼は、たしかに人間ではなかったのだ。


 言葉では説明できない。だが、本能で理解した。してしまった。


 「怪異に遭遇した人間はね、見る世界が変わってしまうんだ」

 「世界が……変わる?」

 「そう。例えば車好きな人間と、そうでない人間がいるとしよう。街を走る車を一台見るだけでも、車の知識がない人間ならば、ただ車があるということしか認識できないが、車の知識がある人間だったらどうなる?」

 「えっと、さらにその車について理解できる?」

 「そうだ。その車の名前、つんでいるエンジン、どんなスピードが出せるのか、乗れる人数は? 価格はだいたいいくらぐらいなのか? 文字どおり、世界の情報量が違う」


 じゃあ、吸血鬼が実在すると知ってしまった僕は。


 「幽霊なんかが見えるようになってしまった……?」

 「この世界に紬を引き込むことはしたくなかった。紬の、そうだな、神通力、霊的エネルギーというべきものは、常人の何百倍も強い。だから紬が正しき世界の認識をしてしまったときに、絶対に怪異に狙われるとわかっていたから。それをこの吸血鬼のせいで……」


 普段優しい父の抑えきれない怒りの感情。それに当てられたのか、僕の体は震えていた。


 「先輩は、なんで僕のことを……?」

 「月に一度だけ、満月の夜に吸血鬼の吸血衝動は増大する。私はそれを、制御することができなかった」


 申し訳なさそうな先輩。それから、一呼吸おいて、覚悟を決めたように。


 「私は、自分勝手な理由で、これから君を危険にさらすことになったんだ」


 先輩は、泣いていた。文字通り、血の涙。そうだ。鬼が、吸血鬼が涙を流すときは――




――血の涙を流すんだ。

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僕は普通に恋がしたい! 九十九(つくも) @takanashi_iroha

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