使者
嫌な、夢を見た気がする。吐き気のするような。セイにとって認めたくない己の。さやさやと梢が風にゆられる。窓が開いていた。いつの間に開けたのだろうか。レースのカーテンが引っかかって朝方の光に運ぶ風に吹かれる。
ベッドから窓際の緑の小さな棚の上まで点々と赤い足跡が続いていた。人のものではない。しいていうなら鳥類の。それにしても大きい。人の成人した男性ほどもある。これは何だろうか。セイは足跡を避けて窓際まで向かった。
外を覗き込むと黒い焦げ痕が地べたにくっきりと残っていた。草の緑の間にジュッと焼け焦げたような、小動物ほどの大きさのもの。またか、と思う。妖魔だ。大方、しくじって上役から逃げ出しここで仕留められたのだろう。今頃、から揚げにでもなっているかも知れなかった。
それにしても。こうして勝手に人様の家に入ってくるのは止めて欲しい。まるで姫のようではないか。
いやさすがに妖魔と同列にするのは姫が可哀想か。妖魔は姫ほど可愛くないし、姫ほど猟奇的でも……ない? 同じくらいか?? まあ、少なくとも姫は人間の宮廷で育っているし、妖魔ほどに野蛮ではない筈だ。やつらほどがさつでも血の気が多くもない。奇妙な趣味はあるが、それぐらいではないか。
姫、姫か。
今日誰もが知っている恐ろしい儀式の事を思い出した。朝の爽やかな日射しが差し込める。それに反して暗い影の底に己が身を置いているような気分になった。
今日、クローディア様は嫁がれる。
それもまともな相手ではない。妖魔の帝王ゲサルダダだ。彼の帝王はセイに姫をお守りすることを、お許し頂けるのだろうか。彼方に行っても、呪術の繋がりが保たれるとも限らなかったから、それ以前の問題なのかも知れないが、魔の城に行く姫との繋がりが途絶えてしまうのは恐ろしかったし、わずかばかりの希望は許して欲しい。
ゲサルダダに支配されてから、メノスでは怪奇が立て続きに起きていた。魑魅魍魎が大手を振るって人間の領域を歩くようになったのだ。妖魔らがどこからもとなく湧き出してきた。
最も単純化した理論において、妖魔とは自己を認識する穢れた諸力・魔に属する力の塊である。であるからして人間とは異なり、瘴気の総量から存在量を推し量ることのできる存在だった。
単純に瘴気の総量が多ければ多いほど上等な妖魔ということになっている。ゲサルダダが明確に基準と序列を定めたからだ。妖魔はより強大な存在に服従しなければならない。彼を主人と呼んで。
妖魔の帝王はこのようにして強大な軍事機構を作り上げた。残酷な掟をして厳しく律されており、妖魔が闊歩しているわりに混乱は小さなものであった。メノスは魔に堕ちてから、人が堕ちることもあり得るようになった。
こういっては何だが呪術というものの力が増したような気がする。セイは日常業務の繰り返しであまり感じる機会はなかったが、赤煉瓦の館の同僚の中には妖魔に堕ちれば更に増すのかと試みた者さえいた。
いずれ、いずれこの地の人々も妖魔に転変するのか、と思えば薄ら寒い思いがした。好き好んでなったものは知らないが、人間が妖魔に変わるなど耐えられるものではないだろう。だが、これまでゲサルダダに征服された多くの国の民は妖魔と化した。
征服されて久しい古い国の多くが今や妖魔軍に編入されていたし、そうではない国、例えば、かつて天信仰の総本山だった聖都の如き、熱心な信徒の扱いは酷いものだった。奴隷以下、だ。家畜よりも酷い。
妖魔に同化してゲサルダダの従順な臣民となるか、信仰を貫き永劫の拷問を我が身に与えるか。
結局、多くの人々はどちらも選べず、流されるまま、決心を固めることもできぬままに明日を生きることを選ぶのだろう。
雪のように白い花びらが降っていた。憂鬱な灰色の曇天を誤魔化すように、そして僕らに催涙を誘発するかのように。風に臙脂色をした儀典用ローブが翻る。天候は宜しくなかった。
暗澹たるものが肚の奥に沈殿していた。灰色の空から降り注ぐ真白き花びらの雨は感傷的な気分になるような、儚い美しさだった。
静かだった。まるで葬式のようにしんみりとした雰囲気に、どうしてだ!! と叫び出したかった。
理不尽に対する対抗心と何も為せない己に対する怒り、そして現実の壁を前にして諦観と無力が襲い来る。
現れた姫は相変わらず、極上の容姿をしていた。無機質な瞳にドキリとする。妖魔の帝王に通用するかは測れないが、人間からするとこれ以上にない生贄のように目に映る。高貴な血筋と天上の血脈が混ざった地上の姫君にして、他を圧倒する幽玄の美貌の持ち主。
最高の、戦利品。
吐き気がする。
姫は純白の盛装に身を包んでいた。
銀色のティアラは額に近い方が低く後頭部に行くほど高くなる不思議な形で、一粒の深い紫の宝石が輝いていた。額の上方に聳える紫の宝石を取り囲むように真珠や金剛石で飾った凝った細工があり、後ろにいくにつれてパイプオルガンのように細い銀の板を並べたような形になっていた。細い板にも透明の宝石が並んでいた。
儚い美しさで霞のように降りた銀糸のマリアベールはとても薄く妖精の翅のようで、細い滑らかな肩が一層か細く見えた。二の腕のところから袖が外に向かって飛び出た純白のオフショルダードレスが視覚効果を増幅している。
凪いだ無の瞳が天を見つめていた。何を考えているのか。今日はその真っ白なドレスの何処にも、黒光りする蟲の姿はなかった。
生温い瘴気が吹いてきた。
空の彼方から降り立ったのは、悍ましい容貌の山のような巨体だった。真っ青な翼竜の群れと刀を佩き、旗を掲げた妖魔の一団が後方に滞空している。
巨体は混沌として訳の分からぬ有様だった。無理やり人に当て嵌めると肩の部分から唐突に垂れた生白い木の根、地面に接する磯巾着のような触手。べろんと剥けた蛞蝓の皮から飛び出た真っ黄色の雌蘂のような何か、ひび割れた木材のような皺だらけの黒ずんだ皮膚があるかと思えば、褐色の毛が生えた部位がある。だが、燠火のように煌々と燃え盛る真っ赤な目だけは分かった。あの意思を宿しているような輝きは目に相違なかろう、と。
あれが世に聞くゲサルダダの使い魔か。ゲサルダダが己を模して創ったという。本人は使い魔の何十倍にもなる巨体であり、さらに醜く禍々しく悍ましい、汚物の如き姿をしているという。
あれの何十倍も悍ましいとは想像すら出来なかった。
「きゃあ!」
姫に侍っていた女官が悲鳴を上げて逃げ惑う。
邪気漂う巨体から先端に扇状の器官がついたひょろ長い触手が伸び、姫の方を向いたからだ。
姫は真っ白になって悲鳴すら上げられない様子だった。
「この、白いのが皇帝の娘御か」
毛氈苔のような扇状の器官にはどろっとした濁った灰色の粘液を分泌する腺毛が生えていた。
たらっと唾液のように垂れる。
「おい。俺は確認しているんだ」
ゲサルダダの使い魔の声は姿に見合わぬ高い知性すら感じられる静かな声だった。
「ひっ……さ、作用にございます! 此方のお方がメノス十三王国第十九代国主ユガレスダ・カーシャ陛下の御息女クローディア殿下でございますっ」
引き攣った顔で大臣の一人が答えた。恐怖から声は上擦り早口になる。
「そうか。クローディア皇女、選べ。我が創造主より捧げ物の乙女は一人同行者を指名して良いことになっている。誰でもいい。王でも罪人でも、な」
実際に人質の乙女が国主を指名した前例があった。その国主は酷く取り乱し、人質を口穢く詰ったが、帝王ゲサルダダの名の下に乙女の同行者として連れ去られた。
誰でも一人国から連れて行って良い。ゲサルダダが人質の乙女に与えた権利だった。儚い身である人質に唯一保障された権利だといってよい。
息を吞むような静寂。誰もが息を潜めて厄災が我が身に降り注がないように神に祈る。
そんな中で僕は、待っていた。
その白い繊手が、僕を指すのを。
「宮廷呪術師、皇室専属護衛官セイ・ゲマリウスを指名しますわ」
その瞬間だった。多分、聴衆は僕の存在を亡き者にした。
ふと、視線を感じてそちらを見ると見知った呪術師の顔があった。好んで道化のように振る舞う同僚エタヤ・アゼンネールが如何にも愉快と言わんばかりの不愉快極まりない満面の笑みを浮かべていたのだった。
僕は絡みつくような愉悦を裁ち切るように身を翻した。そして、二度と振り向かえらなかったのだ。
刀を佩いた妖魔の軍人と真っ青な翼竜に吊り下げられた駕籠が地上に降りてくる。といっても駕籠は地表から僅かに浮き上がった状態だ。4頭の翼竜が四角い駕籠を持ち上げ、羽根をばたつかせている。漆黒の駕籠は黒光りするメタリックな素材で外装され、先鋭的なフォルムの過剰装飾に覆われていた。
護送の兵士と見られる刀を佩いた妖魔も高度こそ下げたものの浮遊しており、一人だけ降りて来て、駕籠の扉を恭しく開いた。
一拍置いて動かない姫に滞空していた妖魔の一人が行動を起こそうとしたが、無理やり駕籠に放り込まれる気配に姫はぎこちなく身体を動かした。
駕籠に乗り込む瞬間、彼女は僕の手を強く握り、力んで目を瞑った。
華奢で軽やかな身体の動作でソファに尻が乗せられ、扉が閉まり薄暗くなった。感じたことのない浮遊感と共に駕籠が上昇する。
刀を佩いた妖魔兵が周囲をとり囲み、規則正しく並んだ妖魔の中の幾人かが旗を閃かせた。こうして遙かな西へ、妖魔の帝王ゲサルダダの支配する異相の宮城へと旅立ったのだった。
蟲花の皇姫と護衛呪術師─魔王城の人質になる姫様についていきます─ ののの。 @jngdmq5566
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