回想 「姫」


「へえ、ここが」


 それは庭園の森のような風情の一角に存在した。赤煉瓦の屋根が中々に可愛らしい館である。宮廷の呪術師の仕事場である“赤煉瓦の館”は、青い釉薬の瓦屋根に赤煉瓦の壁だったが、セイの仕事場兼住居は赤煉瓦の屋根にクリーム色の壁だった。場所も宮廷の随分と奥まったところにあり、官庁の集まる一角に存在する赤煉瓦の館とは随分と距離が離れていた。城下には母親の暮らす屋敷もあったが、父親に呪術を仕込まれていた彼は滅多に戻ることがなかった。

 館の内部は小綺麗に保たれていたが、それはセイの手絡ではない。セイは部屋から出てこない少年で、そうではないときは一人で木蔭に出て本を読んでいた。食事も一人で誰もいないときに食べた。  


 「少し待って下さいよ」


 セイは青く塗られた扉を開き、館の中に入っていった。明かりを付け、手早く茶器の準備を整える。


「どうぞ、人を迎えるようなところではないので、色々とごみごみとしていますが」


 セイは足で扉にドアストッパーを押しこめ、姫の手を引いて案内する。館の内側は中々に生活感に満ちていた。物珍しそうに見渡す皇姫に赤面したくなった。彼は特にクロスも敷いていない白く塗った机の中央に、館にあった日持ちのする砂糖をたっぷりと使った乾いた茶菓子を盛った大皿を置いた。それから赤い木製の椅子を引き、姫を座らせ、目の前に白い陶器の皿を差し出す。ついでに対面の己の側にも置いた。


「とりあえず、それでも食べていて下さい。皇族の方にお出しするようなものじゃありませんけど……」


 椅子にちょこんと腰掛けた姫は何故かキラキラとした目でセイを見ていた。


「わたくし、他人にもてなされるのは初めてだわ。全くなってはにないダメダメなおもてなしだけど、なんだか嬉しいわ」  


 ポットを温めながら、セイは姫の言葉に動揺した。彼女は想像以上に人に飢えた生活を送っているらしい。

 金色の持ち手のポットは小さな白い花をびっしりと貼り付けて焼いた白の陶磁器だ。この高価な品を、彼はじろじろと眺めていると密集した小花に気持ち悪さを感じられる点を気に入って購入した。

 とりあえず、棚から出してきた一番高価な茶器だった。セイが知るところでは、という但し書きは付くが。一揃いのティーカップに茶を注ぎ、ソーサーの上にスプーンを添えてだす。ガラスのシュガーポットも添える。そして、セイは椅子に座ろうとして目の前の幼い少女が皇姫であることを思いだした。立っていた方が良いのか?でも、もう随分と無礼を働いている気がするし。赤煉瓦の館の奇人変人とか接してこなかった少年には勝手が分からなかった。作法だって何となく覚えたのを実行しているに過ぎない。大体自分の身分だって雰囲気でしか把握していなかった。何だったか忘れたけど爵位はある。領地こそ給わっていないものの、建国以来宮廷で皇室の身代わり人形を見守ってきた。中々に重要な役割を与えられていると想う。ただ、何を言い繕っても呪術師であることに変わりはない。 


「あら、おま、セイ・ゲマリウスは座らないの?そのつもりでお皿を置いたのでしょう。お茶も冷めてしまうわよ」


「姫がいいなら座らせて頂きますよ」


 セイは机に近づいてきていった。


「クローディアよ。わたくしの名前も使われないと寂しがるのよ」


 姫は椅子から飛び降り、白い机の向かいに回ると赤い背もたれを引いてみせた。


「どうぞ座って下さらないかしら」


 にっこりと笑って姫はいった。セイは自動人形のようにギクシャクとした動作で腰掛ける。軽やかな笑い声が降ってくる。


「セイはお作法が分からないから楽しいわ」 


 あ?少年は宮廷作法を完璧に覚えようと決意した。姫は本当に楽しそうだ。


「そのうち完璧に覚えますから、今だけですよ、今に見ているように」


「あら、セイにはきっと無理だわ。わたくしと自然体で付き合えるんですもの」


「なんですかそれ。僕が姫と普通に接していたら、どうして作法を習得できないことになるんですか」


「分からないの?セイには恐怖が足りないわ。だからよ。そんなことより、クローディアって呼んで頂戴。わたくしの名前、誰にも使われなくて寂しがっているの。セイのことも名前で呼ぶわ。ねえ、いいでしょう。わたくしも家族以外を名前で呼ぶのは初めてよ」


 重たいよ。 


「僕は初めてではありませんが、分かりました」 


「なら、呼んで頂戴」


 姫──クローディア殿下が向かいの席からじっと見つめてくる。そうされると呼びにくい。 


「クローディア殿下……っはい、これでいいですか!」


「いいわよ、ええ、とってもいいわ」


 少女は満面に笑みを浮かべていた。


「もう一回」


「クローディア殿下」


「もう一回」


「クローディア殿下」


「もう一回」


「クローディア殿下って、何なんですかこれは、なんか凄い笑顔ですが、楽しいのですか?」


「楽しいわよ。名前を呼ばれる度にわたくしの承認欲求が満たされていく気がするの」 


「はあ、分かりましたよ。クローディア様。あなたに付き合いましょう。ここもこの居間まででしたら自由に出入りして頂いて結構です。但し!滅多にないというか、本来は滅多にないはずなのにあなたのお陰でよくあることになってしまっていますが、人形に異変が起こっているときは、影のように大人しくしていて下さいよ。いざとなったら、影魔に追い出させることを了承して下さい」


「いいわ。えいまが何かは分からないけど、されるがままになるわ」


「ええ、是非ともその言葉を守って下さい。それと、僕と自傷以外の方法を考えて下さいよ、真剣に」


「……考えるわ。セイのお仕事が増えるのでしょう」 


「そこではありませんよ。もっと、こう」


 なあ、セイよ……お前がそれを言うのか?


 闇の奥から声が聞こえる気がして、セイは言葉に詰まった。


「とにかく、まずは命に関わる行為から是正していきますからね」


「……ねえ、とりあえず、心臓は駄目だと分かったわ。他にはどれがいけないのかしら?」


「まずはそこからですか……」




 




 


 ねえ、お母様?笑っておくれよ。なあ、この際いつものように癇癪を起こして花瓶を投げつけるのでもいいから。どうして……どうして……ビチャピチャと何かを啜る音が聞こえる。どうして……どうして……。僕のお母様がこのような化け物になってしまったのだ。城下の屋敷の薄暗い広間には恐怖を誘うような黒髪の女性の崩れかけた何かがいる、血の水溜まりが恐怖をじわじわと浸食していく。高い天井の金のシャンデアに蝋燭にゆうらりと燃える火が灯されている。それでも、薄暗い。火の残った蝋燭の数は僅かで、灯りの灯っていた何千もの火は搔き消えてしまった

 滑った黒髪、射干玉の黒髪がいやに艶めかしく抜けるようにまっ白い肌に貼り付く、そのあげられた顔は──皮膚が裏返り、ぐずぐずに肉がひっかきまわされているかのように見えた。──目はない、肉は腐っている、顔に蝿がたかる。お母様?お母様にひっつくなんて、悪い子だねぇ……幼い呪術師は蝿を握り殺して、そこからじわりと呪詛を発生させた

 ああ……怨め、怨めよ。お前の仲間はお前のせいで死んだんだよ。

 さあ、お仲間を殺しておいで……ジュと音を立てて蟲が空中でタールのように溶けて虚空へ搔き消える。

 お母様?僕を見てよ。どうして、お目々がないの?僕のをあげようか……少年は自らの目玉をくり出し、腐り果てた顔面に押し当てた。

 どろり、と押しこめられた目玉が溶け出し、白目がお母様の胸元まで落ちていった 絹のドレスはボロボロだ。ああ、心臓がないからいけないのかな、いや、むしろ脳味噌?少年は己の頭をひっつかんで、頭蓋骨をたたきわり、


 ピンク色をした脳味噌がのぞく………少年の記憶はそこで途絶えている。


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