回想 出逢い
さやさやと風が梢を揺らす、木漏れ日が優しく降ってきた。その古びた教会は宮廷の一角にあった。忘れ去れた場所だ。人よりも自然の息遣いが聞こえるような、鳥の鳴き声、カサッと木々の間をゆらす音、埃が固まって付着した灰色をした石造りの床。
その場にとけきった幼い少女だけの楽園。鼠や蝿が徘徊している。
忘れ去れた庭園を、人間の気配が騒がせた。少女はまだ知らない。厚手の臙脂の服の裾から覗く少年の軽い足跡。胸元で結ばれた青紫の組紐のタッセルが少年の歩調に合わせて飛び跳ねる。丁寧に手入れされた柔らかそうな鳶髪が日射しを浴びて輝いていた。焦茶の柔らかい皮のブーツで、灰色がかった白い石の床を軽く蹴り、一定の間隔で回廊を歩み進める。回廊の柱がストライプの影を落としている。彼は回廊を曲がり燦々と陽光の降り注ぐ回廊から大きな建物が影を落とす湿った土に足を踏み入れた。じっとりと暗い褐色の土から草が青々と生えている。本来抜くべき雑草だった。ここに来る途中の回廊にも何かの枝や蜘蛛の巣が散見されていた。その宮廷の一角にありながら裏寂れた場所の廃墟の扉を開く。ギィという音が静寂を破り、幼い少女はやっと闖入者に気付いた。白くふっくらとした幼児の指には、黒光りする昆虫の足が乗っている。彼には何という蟲なのか分からなかった。
「フィグ、すこし待っていて、お客様よ」
白い少女は酷く淡々とした口調で、指先の蟲に語りかけ、彼に口付けた。
淡く明るい若菜色の瞳が少年の方に向けられた。ペリドットのようだと、少年は思った。練糸のようなクリーム色の長い髪と相俟って白く幻想的だった。長い髪は腰の辺りで水平に切り揃えられ、ふんわりと額に掛かる前髪と同じ列でさやさや揺られている。
シンプルなドレスは、クリーム色の柔らかい風合いの絹で胡桃釦で留められている。
胸のすとんとした装甲、少しタッセルを採っただけでパニエ一枚を仕込んだだけの簡素なペティコート、共布の靴に包まれた足。素材は流石に上等であったが、装飾の少しもない。髪も丁寧に世話をされ、櫛げずられただけで降ろされている。
宝飾品も付けてはいない。幼い姫は埃にまみれた床に直に座っていた。セイでもしない、そんなことは。
「姫様、何をされているのですか。侍女殿はどうしたのです?そのように地べたに座られて」
少年は見かねて手を差し伸べた。幼い姫はそれをとらずに、素っ気ない返事を返した。
「わたくしに侍女などいないわ」
ゆっくりとしたペースで一言一言はっきりと発音された言葉は抑揚に欠け淡々と聞こえる。鈴の鳴るような可憐な少女の声は、どこか世界を拒絶するかのような感すらあった。
「そんなはずは……」
「用事をこなしていく者はいるけれど、わたくしに付いて回るものはいないわ、物を言いつけてもお姉さまの侍女のように喜んで奉仕してくれはしないのよ」
幼い姫は何を思っているのか分からない凪いだ表情を浮かべている。それはどこか無機質な昆虫の複眼を思わせた。
「お前は柵の手前の館に出入りする者達ような恰好をしているわね、見習いじゃないのよね?お前みたいに小さい者もいるのね、初めて知ったわ」
小さい、もいっても目の前の姫の方が幼かった。それでも、セイは出仕どころか、親の付き添いであっても宮廷にくるような歳ではなかった。彼女より年上といっても一二歳の差だ。
「柵……庭園の方の鉄柵ですか、姫様はお詳しいですね。姫様は外に興味がお有りですか。あっ申し遅れました。先日前任の死去に伴い赤煉瓦の館の皇室専属護衛官に給わりました。セイ・ゲマリウスと申します」
姫は座ったまま立ち上がろうとしない。皇族が地べたに座っている状況に居心地の悪さを感じたが、どうしてよいのかも分からず、とりあえず、セイは胸に手を当てて一礼した。
姫が立ち上がってペティコートの裾を摘まんでニッコリ作り笑いを浮かべた。口の端はつり上がり目尻は下がっていたが、明らかに作り笑いと分かる、ぎこちないものだった。
「第六皇姫クローディアよ。外に興味はあるわ」
姫が少し身を屈め、ご丁寧に挨拶を返してきたものだからセイは面食らった。姫がころころと鈴の鳴るような笑い声を立てる。
「うふふ、わたしも女官や皆がしているようにして見たかったの」
姫が笑っている。この短い間で少女に人外じみたものを感じ取っていたセイは目をぱちくりとさせた。年相応に邪気のない笑顔を浮かべていると悪戯な妖精のようだ。少女は埃カビか茸の妖精のようだったのが花の妖精に昇格し、セイは見惚れた。
「わたくしはお姉さま方やお兄さま方と違って、あまり人と合うこともないから、挨拶がいるようなお相手とお話をする機会もないのよ。お父様にはご挨拶するけど何週間かお会いしていないし」
姫は口を尖らせて愚痴を言う。その声は弾んで妙に明るく、楽しそうだ。少女の足が軽やかに埃の間を舞い、セイに近づいてくる。
「ねえ、お前、いつも今の時間は暇なの?わたくしの話相手をしない?女官は素っ気ないけど仕事は的確だから美味しいお菓子を用意するわ」
姫はセイと触れ合うような距離で、胸の下から見上げてくる。セイは少女のゆったりとして仕草や口調には余裕を見せているけれど、人寂しさの隠せない様子に同情した。
「暇って仕事柄、確かに手の空いている時間は沢山ありますけど……」
「あら、他にも開いている時間は沢山あるということかしら?いつの時間にしましょうか」
「いやいや、ちょっと待って下さいよ。僕はまだ継いだばかりで術が安定しているか分からないから、人形から目を離しちゃいけないんですよ。あまりにも姫の怪我が酷いので、つい来てしまいましたけど、本当はこうして姫に会いに行っている時間部屋を開けいるのもよくないくらいで。そもそも護衛官が長時間人形から目を離す訳にもいかないし。……まあ、でも。」
「まあ、でも。なぁに?」
「いや、やっぱり駄目ですね。部屋を離れる訳には行きませんから」
「つれないことを言うのね。お前はあの瞳を向けないからって失望したわ」
姫は素っ気なく言い放ち、顔を背けて踵を返した。
「いやいや、待って下さいよ。僕の方は姫様に用事がありますから」
「なにかしら」
姫が動きを止めて振り返り、訝しむようにいった。
「一体何があったのか、教えて頂けませんか?あのように頻繁に怪我をされる理由は何ですか。自傷ですよね。こないだなんかは心臓を抉りだしていらっしゃいましたし、何をお考えなのですか」
「心臓?ああ……わたくし、蟲と一つになりたいの。愛しい彼らにわたくしを食べさせてあげたかっただけよ」
独特のペースの平坦な口調で稚い美少女がいうと妙な迫力が滲みでる。セイが後ずさりもしなかったのは、偏に同業者に訓練されていたからだ。呪術に狂気はつきものだった。
「む、むし……そういえば、蟲とキスしていましたね。ですが、今後は絶対にしないようにして下さい。いいですか?人間は心臓を抉りだせば死んでしまうものです」
「わたくしは死ななかったわよ」
「それは身代わり人形があったからです。本来なら姫様はお亡くなりになられていたところです。身代わり人形のことはご存じですか。まだ、お勉強なされていませんか?」
姫は首を横にふる。
「そうでしょうね。本来なら身代わり人形は不測の事態のためにあるものです。重要な事柄ではありますが、姫様の年齢だともう少し大きくなってから教わるはずです。というか、心臓を抉り出しているときの痛みは、人形は代わらなかったはずのによく出来ましたね」
「蟲のためなら、痛みなどどうでもよくなるものよ。むしろ、とても甘美な時間だった……それで身代わり人形について教えてくれるのよね」
「姫様も中々のものですね。……呪術の才能がありますよ。導師というよりはむしろ災禍の方ですけど。簡単に説明しますと身代わり人形は当人に振り返る災厄を代わりに被ってくれるものです。例えば、姫様が怪我をされたり病気になったりしたら、人形がそれを代わりに引き受けてくれる、ということです。皇族の方々はいざというときのために身代わり人形が用意されています。だから、姫様は本当は風邪を引いていても普段と同じように過ごせるし、心臓を抉りだしたり目玉を引っこ抜いたり、指が……どうしてか消えたりしても平気です。今言ったことは全部なさった訳ですが、その時もすぐに傷が消え去りましたよね?」
「指は蟲に食べさせたの。そして、すぐに傷口は塞がったわ。それって普通のことではないの?」
「全く、普通ではありませんね。むしろ異常です。身代わり人形と同調中なら何もおかしなことではありませんが、それは人形の能力です。身体の素の能力だけでそれができる奴がいたら、そいつは人間ではありません。化け物です。つまり、人間である姫様のお身体はお怪我をしてもすぐには治らないし、目や心臓はおろか指すらも失ったら、二度と生えてこないのです」
セイの目に力が入る。鳶色の瞳が輝く。
「……いいですか?身代わり人形はいざというときのために存在するものです。一時間おきに消費していいものではありません」
「それでは、わたくしは蟲と一つになりたいときはどうしたらよいのよ。それに……」
姫は少し言い淀んでから、硬い口調で告げた。その身体は少し震えている。
「…………わたくしは純粋な人間ではないわ。それでも駄目なのかしら、実は天使は目や心臓を失っても平気だったりしない?」
それでも、蟲に己を喰わせたいらしい。
「天使のことは詳しくないので何とも言えませんが……いや、とにかく姫様は人間と判断されたと聞いております。それなら、人間の基準で判断した方が安全です。まあ、色々と言いましたが、そもそも身代わり人形が反応している時点で姫様に驚異的な自己治癒能力はありません。つまり駄目です、駄目。蟲を愛したいときは別の方法を見つけて下さい」
「そう。納得いないわ。お前は部屋を離れてはいけないと言ったけれど、わたくしがその部屋に行くのは問題ないのかしら」
「はっ?」
「わたくしが毎日お前の仕事部屋に行くわ。これは命令よ、わたくしとお茶をして蟲を愛する別の方法を一緒に考えるのよ」
姫の手がセイの官服の裾を引っぱった。
「えっ?」
「今から行くわよ、お前の部屋の場所を確認しなくては」
「無理ですよ、どうやって するのですか 」
「あら、ここまでこれたのだから、わたくし一人連れ出す程度訳ないでしょうに。もし、怒られたら、過剰に庇ってあげるわ。皆わたくしを恐れているから、お前……いえセイ・ゲマリウスがわたくしのお気に入りだと知れば、皆遠巻きにして注意してこなくなるはずよ」
「いやそれって僕が犠牲になる前提でっ」
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