エンゲージ・アット・シャンゼリゼ<シャンゼリゼ大通りの約束>

草薙 健(タケル)

さぁ、シャンゼリゼ大通りだ。エンゲージ(交戦を開始せよ)!

 これから、人生を賭けた戦いが始まろうとしている。


 ここはフランス中心部へ向かう幹線道路。夏の日差しが照りつける中、僕はゆったりとした速度時速36キロメートルでロードバイクに乗っていた。周りには150人ほどが密集して走っている。


 僕は今、ツール・ド・フランス2020――通称ツールに出場している。23日間かけて21ステージを争う長丁場も、ついに最終日を迎えた。


 最終ステージ第21ステージの前半は、これまでの戦いをねぎらう意味でレースは行わずパレード走行するのが慣例だ。今大会のマイヨジョーヌ黄色いジャージ――全21ステージの合計タイムが最も早い者に贈られる総合優勝の証――をほぼ手中にしているコロンビア人が、集団の先頭でシャンパングラスを掲げながら写真撮影に応じている。


 その様子を眺めながらこれから始まる戦いに僕が思いを馳せていると、隣を走っているチームメイトのピートが話しかけてきた。


「何か考え事か?」

「ツールが終わった後どうするか考えてたんだよ。ピートは何がしたい?」

マイヨヴェール緑色のジャージ獲得のお祝いに、ハンバーガーをたらふく食べたいぜ」


 マイヨヴェール緑色のジャージを着たピートは、冗談っぽく答えた。


 ツールには、主要な表彰とそれに対応したジャージが4種類存在する。その1つがポイント賞――マイヨヴェール緑色のジャージだ。

 ツールでは、各ステージのゴール順位に応じてポイントを獲得することができる。もちろん順位が高いほど得られるポイントも多い。そして、最終的に獲得合計ポイントが最も多い選手にポイント賞緑色のジャージが贈られるのだ。


「日本のマンガじゃ、そう言うのを死亡フラグって言うらしい」

「なんじゃそりゃ」

「戦う前から勝ったような発言をすると、戦いに負けて死んじゃうっていうジンクスだ」

「お前が聞いてきたから答えてやったのに」

「ごめん」


 僕の懸念は、もしピートが今日のレースでノーポイントだと、現在2位につけているライバルの結果次第では逆転されてしまうということ。それだけは絶対に避けなければならない。


「まぁ、マイヨヴェール緑色のジャージも大事だが、今日集中すべき戦いはそれじゃない」


 そう。ピートの言うその戦いを制すれば、勝手にマイヨヴェール緑色のジャージもついてくる。そう言う意味でピートの言い分は全く正しい。


「そうだったね。ピート、約束してくれ。僕たちがしっかりアシストするから、必ずゴールスプリントで勝つって」

「エーススプリンターとして当然だ。シャンゼリゼでの勝利はスプリンター全員の夢。みすみす逃しはしない」


 3400kmキロメートル以上走ってきた長い旅を締めくくるにふさわしい場所、花の都――パリ。凱旋門を臨むシャンゼリゼ大通りの周回コース。


 そこは、僕たちスプリンターチームの晴れ舞台だ。


 ■


 スプリンターチームの目的は、マイヨヴェール緑色のジャージを手に入れること、そして、シャンゼリゼ大通りのような平坦ステージで優勝することだ。


 エーススプリンターは、ステージを100kmキロメートルも200kmキロメートルも走った後で、ステージ優勝を目指しゴールラインまでの約200mメートルを全力でもがく。

 そのため、エースはそのたった200mメートルのためにレース中はひたすら体力温存に努める。7人のアシスト達は全員で彼を風から守る。風はサイクリストの体力を消耗させるからだ。

 1つの賞、1つの優勝を8人がかりで獲りに行く――ロードレースが個人競技では無くチームスポーツであると言われる所以ゆえんだ。


 ■


 プロトン自転車集団はシャンゼリゼ大通りの周回コースに入った。


 荘厳な凱旋門が目の前に姿を現す。


 ついにたどり着いた。過去の偉大な選手達も同じ景色を見てきたのかと思うと、感極まるものがある。


 しかし感傷に浸っているのもつかの間、集団が一気に殺気立つ。スピードが急激に上昇し、パレード走行は終わりを告げた。


『ゼッケン132と54がアタックしたぞ』


 監督から無線を通じて情報が入った。


 レースが活性化するとを試みる者が現れる。これは総合系やスプリンターのエースがいないチームがステージ優勝を狙うときの戦術で、プロトン自転車集団から抜け出して先行し、そのまま逃げ切ろうという魂胆だ。


 もちろん、ステージ優勝を狙っているスプリンターチームが黙って見過ごすはずがない。ほとんどの場合は僕たちアシストが逃げを追いかけて潰す。


 そう、ほとんどの場合は。


 ■


 レースは最後の1周残り7kmに突入した。


『おい、なんでまだ逃げを捕まえられていない!?』

『ピートはどこだ!? 見失った!』

『バカ、さっさと前に来いや!』


 監督の怒り狂った声と、状況が掴めていないチームメイトの声が無線で錯綜する。


 プロトン自転車集団の先頭付近は大混乱に陥っていた。


 1人の選手がまだ逃げ続けている。


 このままでは彼にステージ優勝を持っていかれてしまうため、逃げを捕まえたい複数のスプリンターチームが集団の先頭に殺到していた。もちろん、僕達のチームも集団最前方に位置取ってトレインを形成している。


 スプリント前にはトレインと呼ばれる1列縦隊をチームで組む。エースの消耗を避けつつトップスピードを維持するためだ。

 まるで暴走機関車のようにゴールへ向かって突き進み、1人、また1人とアシストが力尽きては先頭が入れ替わる。最後の1人は残り200mメートル付近でエースをゴールに向けて発射するため最高速時速65km以上まで引き上げる。発射台はこの僕だ。


 サイコンサイクリングコンピューターには 56 km/h時速56キロメートルの表示。シャンゼリゼ大通りの並木がまるで矢のように流れていく。


『逃げとの差は10秒だ! ギリギリだぞ! ペースを上げろ!』


 監督からそんな指示が出た数秒後、僕の前を走るアシストが力尽きてトレインから離脱してしまった。予定より早い。残るアシストは僕1人だ。


 逃げを追うのに力を使いすぎたか……。


 ゴールまで残り1kmキロメートルを示す赤い円筒状のアーチ――フラムルージュを通過する。間に合うか!?


 そのときだった。


 ガッシャーン……!


 いつ聞いても嫌な自転車同士の接触音が後ろから響き、すぐに消えた。


「このタイミングで落車!?」


 僕は思わず叫んでいた。

 振り返ることはしない。時速62kmキロメートルでそんなことをするのは無謀と言うほかない。

 しかし、嗅覚が告げていた。後ろにいるべき人物がいない。


『ピートが落車に巻き込まれた!』


 嗚呼、神様!


 これでピートはノーポイントだ。最悪なことに、ポイント賞2位のライバルが目の前にいる! くそっ! 奴が高ポイントを獲得すればマイヨヴェール緑色のジャージを持っていかれてしまう!


 ……約束しよう、ピート。お前のジャージはが守る。チームの目的は俺が果たす。


 


 俺が代わりに、シャンゼリゼで勝つ!


 ゴールまで残り300mメートル


 やや早いタイミングでライバルが仕掛けてきた。ロングスプリントだ!


 この距離だと体力が持たず失速するからまだ行かないと思っていたが、とんだ奇襲だ! 逃げてる選手に追いつこうと焦ったか!? だが、奴に躊躇ちゅうちょは無い。すでに全力だ! ……もう出るしかない!


 俺は頭を下げて体幹を地面と水平にし、ハンドルのドロップ部分を握ってスプリント体勢に入る。全身全霊の力を脚に込め、ダンシング立ち漕ぎで追撃を開始した。


 残り200mメートル! かわせるか!?


 サイコンサイクリングコンピューター67 km/h時速67キロメートルを示しているのが目に入る。

 まだだ! まだ加速できる!


 逃げていた選手をかわす。残るはライバルただ1人!


 残り100mメートル


 ライバルの右側に並んだ! あと少しで先頭に――


 おい、やめろ! なんで俺の方に寄ってくるんだ!? 被せてくるな!


 もうこれ以上俺は右へ行くことはできない! フェンスに……接触する!


 ガンッ! という鈍い音が響いた。

 それと同時に、俺の視界がひっくり返る。


 そして、俺は落車した。


 ■


 ゴールしてから20分。僕は体のあちこちに痛みを感じながら、チームの待機場で呆然としていた。


 結果は2位。


 なんとも無様なゴールだった。

 僕はゴールライン手前10mメートルで落車し、地面に転がった僕の体と自転車はその惰性でゴールラインを通過したのだ。


 落車してなかったら、確実にライバルをまくってトップを獲れていた。

 あと1歩だった。あと1歩で優勝できたのに……。


「よくやった!」


 監督が満面の笑みでこちらに駆け寄ってきた。


 よくやった? ステージ優勝出来なかったのに? それどころか、僕はピートのマイヨヴェール緑色のジャージを守ることすらできなかった……!


 ここまでの努力は一体何だったんだ? 2つの落車が全てを台無しにしてしまった!


「お前、勝ったぞ!」

「え?」

「あいつがゴール前で斜行しゃこうしたことがレギュレーション違反と認められて、降格処分――優勝取り消しが決まった! お前の優勝だ! シャンゼリゼで勝ったぞぉ!」


 その瞬間、周りのスタッフが一斉に歓喜の雄叫おたけびを上げた。


 斜行しゃこうとは、スプリントにおいて斜めに走って相手選手を妨害する行為を指す。落車を誘発する危険行為、また、スポーツマンシップに反するとして禁止されている。


「まじ……?」


 僕は現実が飲み込めず、ただ呆然と椅子に座ったままだ。


「ついでに、ピートのマイヨヴェール緑色のジャージも決まった! 逆転される条件はだったからな!」


 僕は……約束を果たせたんだ!


 ■


 体のあちこちにガーゼが貼られた痛ましい姿で、僕はシャンゼリゼの表彰台に立っている。しかし、不思議と痛みは感じない。


 ほんの数時間前まで、こんなことになるなんて想像すらしていなかった。これが興奮しないでいられようか。


 僕は決めた。


 今こそ人生を賭けた戦いエンゲージメントをするときだ。


 僕は優勝トロフィーを地面に置き、ジャージのポケットから小さい箱を取り出す。そして、テレビカメラに向かって片膝をついてひざまずいた。


「リン……僕と結婚してくれないか!」


 その様子は、テレビを通じて全世界に放映された。


 ■


 その後、恥ずかしすぎるとリンから頭をポコポコ叩かれた。まるで公開処刑だと。

 その様子を見て、僕と同じように痛ましい恰好をしたピートが、ハンバーガーを食べながら笑い転げている。


 まったく、僕がお前のマイヨヴェール緑色のジャージを守ってやったというのに、失礼な奴だ。


 ……まぁ、いっか。


 僕はリンと熱いキスを交わす。彼女の左手薬指には、小さなダイヤモンドが光り輝いていた。


(了)

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エンゲージ・アット・シャンゼリゼ<シャンゼリゼ大通りの約束> 草薙 健(タケル) @takerukusanagi

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