河童

 1時間につき900円。夜勤なら1150円。で、限りある人生の一部を売って、僕は生きている。

 さびれた街の、小さなコンビニ。22時を越えたら朝までもう誰も来やしない。無意味な24時間営業。


 から。いつものように、帰宅する。カップラーメンと缶チューハイ、パック詰めされたキュウリの酢の物が入ったコンビニ袋を片手に提げて。

 今日は6時間売った。僕の人生を。その結果、2,700円足すことの3,450円、合わせて6,150円を得る。その値段が妥当なのか、買いたたかれているのか、はたまた破格の待遇なのか、僕にはわからなかった。

 自分の人生の価値なんて、僕にはわからなかった。


 から。いつものように、帰宅する。人通りもまるでない、真っ暗で静かな夜の道。もう何年も歩いている、まるで変わらないこの道。

 ああ、まるで僕の人生のようだ。なんて、ヒロイックな感情に浸る時期はとっくに通り過ぎてしまった。今はもう、何も感じず、何も考えず、誰も待っていない小さなアパートに向けて機械的に手足を動かすだけだ。

 妙に長い赤信号を待って、塗装がぼろぼろの横断歩道を渡り、ひとクラスしかない小学校の前を通って、左折、そのまま路地裏に入って――僕は河童を見た。


 例えば『深い緑色の、ぬらぬらした肌』だとか、『背を覆う亀のような甲羅』だとか、『まるでニヤついているかのような、奇妙に折れ曲がったくちばし』だとか、きっと様々に修辞技法を用いて、そいつを形容するべきなのだろうけれど。しかし。

 僕の貧困な語彙をいくら駆使しても、『河童』という二文字が与える鮮烈なイメージには到底かないそうもない。

 それぐらい、目の前のそいつは『河童』だった。


 河童は、小さな段ボールにすとんと収まっていた。体育座りの形だった。僕は、軽く会釈だけして、河童の前を通り過ぎようとした。

「おい、兄ちゃん」

 河童に声をかけられた。

「なんでしょうか」

 反射的に。僕は振り返り、返事をしてしまった。河童は僕の目をまっすぐに見据えていた。その眼は、睨みつけるようでありながらどこか悲哀の色を帯びていた。

「なあ、兄ちゃんよ。お前さんも人の子やろ」

 河童の声は、ベテランの俳優のような渋みがあった。

「はあ……」

「これ見て、何か思うところないんか?」

 河童が指をさした先は――河童の手を見て、僕は「ああ、本当に水かきがつている」と思った――自らが収まっている段ボールの、耳の部分。いや、正確には、そこに書かれていた文字。


『拾ってください』


 黒のサインペンで乱雑に書かれた、簡素なメッセージ。

「な?」

「いや、『な?』って言われましても」

 これで伝えるべきことは全てだ、と言わんばかりの河童に、僕は当然の抗議を申し入れた。河童はわざとらしいため息をつき、続けざまにこう言った。

「いやな、兄ちゃん。俺がこうなるには、それはそれは深い事情があんねや」

「はぁ………」

 我ながら、これ以上ない生返事だった。





数秒の、沈黙。





「え?」

「え?」

 そして、どちらともなく疑問符。

「あ、なんか、喋りだすのかと思って」

「ああ、なんや、聞いてくれんの?」

 ああ、今のうちにこの場を立ち去ればよかったと心底思ったが、時すでに遅し。河童はもう、喋りだす体勢に入っている。喋りだす体勢というのが、具体的にどういう体勢であるかは想像にお任せするが。

「しかしまあ、兄ちゃんもお人がよろしい。あんま見ず知らずの奴の話を聞くもんやないで」

 下らないことを考えていたら、河童から余計なお世話としか言いようのない忠告を食らった。

「でしたら、すぐに帰りますが」

 河童は下品な笑いとともに「冗談やがな」と言った。その態度はとても癪に障るが、しかし、帰ってもつまらない家で一人さもしい飯を食べるだけだ。それなら。と、僕はおとなしく河童の話を聞くことにした。


 曰く。

 河童は、10年前にマイちゃんという少女に拾われたらしい。

 その頃、都市開発によって河童たちは住む場所を追われ散り散りになってしまったという。幼かったこの河童は一人逃げ遅れてしまい、この街に取り残された。妖怪というのは薄情なもので、河童の父も母も、河童を見捨ててそそくさとどこか遠くへ行ってしまったらしい。そうして、河川敷で途方に暮れていたところ。

「マイと出逢ったっちゅーわけや」

 腕を組み、目を閉じ、たびたび深くうなずきながら、河童は言った。

 いつの間にか、僕がこの後の食事のために買ったキュウリの酢の物が開けられていた。「ああ、やっぱりキュウリ好きなんですね」と僕が言うと「いや、あんま。ってか、酢の物嫌いやねん」と返すので、ひっぱたいてやろうかと思った。

 爪楊枝で葉の間を掃除しながら――人間のような歯だった――河童は話を続けた。


 曰く。

 マイちゃんとの日々は、それはそれは楽しいものだったらしい。河原で一緒に遊んだり、鉄棒の練習に付き合ったり、一緒に運動会に出たりと、河童はマイちゃんの成長をずっと近くで見守ってきたのだという。しかし、マイちゃんが成長し思春期を迎えると、徐々にその関係も変わっていったようだ。

「おかんにな? 『河童のパンツとマイの下着一緒に洗わないでって言ったじゃん!』ってブチ切れててん。それ見てワシもごっつ切れ散らかしてな。したらもー『出てけ!』ってガツーン言われてん」

 いつの間にか、僕がこの後の晩酌のために買った缶チューハイが開けられていた。「河童もお酒飲むんですね」と僕が言うと「普段はこんな安酒飲まんねやけどな」と返すので、ひっぱたいてやろうかと思った。というか、一発ひっぱたいた。

 叩かれた頬をさすりながら「という訳で、このせっまい段ボールに押し込められたワシは、またも棲み処を追われましたとさ」と河童は自らの話を締めくくった。

「はぁ………」

 本日二度目の生返事を贈呈し、僕はその場を立ち去ろうと河童に背を向けた。

「や! や! 待ってーな!」

 そんな僕を、必死に呼び止める河童。不思議なことに、河童は段ボールからは頑なに出ようとしなかった。

「兄ちゃん、ホンマ人でなしやな」

 妖怪に言われたくない。

「いや、この話聞いて、思うところあるやんか」

「えー……や、大変だなぁ、と」

 僕が返答すると、河童は「これだけ言ってもわからない奴…」といった態度で肩をすくめた。今度はグーでいこうかと思ったが、その前に河童が自らの顔の前で手を合わせたため、僕はひとまず拳を収めた。

「頼むわ、兄ちゃん。今日一日だけでええねん。兄ちゃんのうちに、泊めてくれんか?」

 人が人にお願いをする時のポーズだった。僕は「うーん…」と一呼吸おいて

「というか、川に帰ればいいのでは?」

と、当然の提案を河童に投げかけた。しかし河童は「それはアカンねん」と、今までにない深刻な顔で言った。

「ワシら妖怪っちゅーのは、悲しいかな、人に依存して存在しとんねん。いや、正確には人の信仰っちゅーやつやな。しかし、機械で開発されきった今の日本の川にはその力が残ってへん。せやから、ワシらみたいな妖怪はもうあそこでは生きられへんねや」

 なるほど、今河童が段ボールから出られないのも、入れたマイちゃんが――本人の自覚はないだろうが――「そこに入っている」と強く念じたその力に縛り付けられて、ということらしい。

 逆に、今河童を認識している僕が、例えば僕の部屋に「河童がいていい」と思うならば、河童はその力で存在できるというわけだ。

「せやから、頼む。今日一日だけでええから」

 河童はまたも顔の前で手を合わせ、僕に懇願してきた。スペースが許すならば、そのまま土下座でもしかねない勢いだ。


 事情は全てわかった。

 僕は河童にはっきりとこう言った。

「や、無理ですね。うち、ペット禁止なんで」


 自分の人生の価値なんて、僕にはまだわからない。

 けれど。

 少なくとも、アイツに使う時間はないな。

 僕は心からそう思った。

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文章 竹原 @takehara-10

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