小さな幸せと

「牧野さん、ちょっといいかな」


 昼休みに、いつも通りお弁当を食べていた時だった。顧問の先生が廊下から私を呼ぶ。お弁当の蓋を閉めて廊下へ向かった。クラスの隅で小さな笑い声が聞こえる気がする。


「準備室の絵なんだけど……」

「え?」



 困惑している様子の先生について、部室でもある美術室に向かう。

 隣の準備室の隅にひっそり置いてある少し大きいキャンバス。隠すようにかけた布をめくって、私は自分の目を疑った。

 黒、黒、黒。今朝淡く色付けたはずのそれは、まるで夜の空のように真っ黒になっていた。


「さっき気が付いたの。一体誰がこんなこと……」


 隣で先生が変わらず困惑した声でそう言うのが、少し遠く聞こえた。

 偶然こんなことになるわけがない。意図的に、悪意を持って塗られた黒い絵の具。誰がやったのかなんて、考えなくてもわかる。

 先生だって、そんなことわかってるくせに。証拠がないから決めつけるわけにもいかないのだろう。白々しく言われたセリフに、悲しいとも思わなくなった。


「どうしましょう、もうコンクールまで時間もないのに……」

「いいです、また書き直しますから。お昼休みも終わりそうなので、教室に戻りますね」


 古びた準備室の扉が音を立てて閉まる。

 犯人の心当たりを伝えたところで、先生が何かしてくれるわけでもない。それに、あの汚された絵はもう元には戻らない。時間の無駄だ。



 出る前と変わらず騒がしい教室に戻る。自分の机まで行くと、残していったはずのお弁当箱が姿を消していた。

 足元を見下ろすと、散らばって踏みつけられた卵焼き。四分の一くらい残っていたお弁当の中身は全部床の上に零れ落ちていた。くすくすと聞えよがしの笑い声が、また教室の隅から聞こえる。


「はあ……」


 もう、溜息しか出てこない。子供じみた嫌がらせ。何が楽しいのかもわからない。悲しいとも思わない。見て見ぬふりのクラスメイト。もう慣れてしまった。

 予鈴が鳴る。掃除道具入れに手をかけて、箒と塵取りを手に取った。



***



 放課後が一日の中で、一番好きだ。開けた窓から入ってくる風が心地好い。一緒に入ってくるグラウンドを走る運動部の掛け声もちょうどよいBGMになっている。

 目の前の真っ白なキャンバス。握った鉛筆は、いつまでたってもキャンバスを走らない。

 今朝まで描いていた絵は、今すぐにでも再現できる。なのに、どうしてももう一度同じ絵を描く気にならなかった。汚されたのは、キャンバスだけじゃなかったらしい。


「もう、辞めようかな」


 誰もいない準備室に、ぽつりと呟いた言葉が広がった。

 誰も聞いていないし、誰も返事をしない。美術部なんて、名ばかりだ。たった一人の部員。辛うじて、辞めようとした後輩を幽霊部員として引き止めて、部活としての体裁を保っているだけ。

 今回のコンクールに出す絵を描いたら、私は引退だった。そして、美術部は無くなる。それがほんの少し早くなるだけで、誰も困りはしないし、名ばかりの顧問の先生もほんの少し早く解放される。むしろ有難がられるかもしれない。



「もったいなくない?」


 突然聞こえた声に驚いた。慌てて振り返れば、一人の女の子が準備室の入り口に立っていた。

 見たことのない女の子だ。でも、胸につけたリボンは私と同じ色。同学年の生徒らしい。友達らしい友達もいない私が知らない生徒がいても、何ら不思議はなかった。


「あなたは……?」

「辞めちゃうの? せっかくここまで頑張ったのに?」


 私の問いにはその人は答えなかった。淡々と私に問いを重ねるその子。一体何なのだろう。私が辞めるかどうかなんて、この子に何の関係もないのに。


「あなた誰なの?」

「私はスミレ。ねえ、本当に辞めるの?」


 めげずにもう一度問えば、その子はスミレと名乗った。私の好きな花と同じ名前。そして、スミレもめげずに私に同じことを問うた。


「誰も、困らないし」

「あんた以外は、でしょ」


 何を知っているというのだろう。どこか上から目線で偉そうに言う姿に、むっとした。


「きっと後悔するよ。将来、きっと」

「別に後悔なんて……」

「いいじゃん、続けたって誰も困らないんだから」

「あなたに関係ないでしょ? なんなの?」


 何も知らないくせに、何もかも知ってるようなことを言う。思わず語気を荒げてしまった。久しぶりに感情が表に出てしまった気がする。はっとして、口を噤んだ。


「私は、あんたの絵好きだよ」


 そう言ったスミレは、なぜか得意げに笑った。

 私の絵なんて、誰も見ていないと思っていたのに。顧問も、同級生も、家族さえも。去年のコンクールで入賞したとき、形式的に全校集会で校長から賞状をもらったけれど、誰かから祝いの言葉もかけられなかったのに。



「……あの子たちに、負けたって思われたくないから」


 別に、スミレに言われたからじゃない。後悔するのが嫌なわけでもない。ただ、子供じみたイジメで絵を描くのを辞めたと思われるのが嫌だっただけ。自分に言い聞かせるようにそう言ってやった。


「いいじゃん」


 スミレは、そう言ってニカリと笑った。



***



「あーあ、また……」


 新しく描き始めた絵は、色付く前にまた汚されていた。今度は、汚い上履きの跡がくっきりと残っていた。スミレが、それを見て声を漏らす。


「どうする? 辞める?」


 挑発するようにそう言った。コンクールの期限まであと少しだ。ギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際。それを理由にもう辞めてしまっても良かった。けれど、スミレにまた何かを言われる気がして、それも嫌だった。


「ちょうど描き直したいと思ってたから」


 嘘じゃない。あれからなぜか準備室に毎日やってくるようになったスミレの方を向く。スミレは、キョトンとして私を見た。私と違って、感情が表情によく出る子だ。


「モデルになってほしい」

「え? 私が?」


 驚いたように私を見る。正直なところ、「人」を描くのはあまり得意じゃない。誰かをモデルに絵を描いたことなんて、ほとんどない。だから、私の絵は自分の好きな花の絵ばかりだった。

 最後のコンクールで、初めてのことに挑戦するなんて、なんて無謀なんだろう。もう一人の自分が頭の奥の方でそう囁く。

 わかってる。でも、何となくスミレをモデルに絵を描きたいと、思ってしまったんだ。そして、タイミングよく描いていた絵が汚された。どうせ描き直すのなら、描きたいものを描きたい。


「いいよ」


 少し迷った素振りを見せた後、承諾の言葉が返ってきた。



 それから、毎日朝早くから下校時間ギリギリまでスミレを目の前に座らせて絵を描いた。夕陽が照らす横顔が、とても美しいと思った。それをうまくキャンバスに描くことができるかはわからない。

 でも、どうしてもスミレをキャンバスに残したかった。初めて私の絵を好きだと言ってくれた、彼女を。とても恥ずかしくて、本人には言えないけれど。


「ねえ、絵見せてよ」

「だめ。完成してからって約束でしょ」

「けちー」


 こんな風に、私にじゃれついてくる人なんて、この学校にはいないと思っていた。学校に入ってすぐの頃に仲良くなった子はいたけれど、くだらないイジメのターゲットになり始めた頃には一人ぼっちだった。

 別に、寂しいと思ったことはない。見て見ぬふりする友達、クラスメイト、教師。みんな、くだらないと思った。そんな人たちに哀れに思われることも嫌で、気にしてないフリをしてきた。平気な顔をして。



「いつ完成するの?」

「もう少し」


 コンクール締め切りの数日前。あとは少し色を直せば完成だ。何とか間に合った。毎日朝早く登校して、下校時間ギリギリまで残って、ようやくここまで来た。


「完成したら見せてくれるんでしょ?」

「うん、約束したからね」


 スミレは待ちきれないという顔をした。そんな風に私の絵に興味を持ってくれる人がいるというのが、こんなに嬉しいことだとは知らなった。思わず口元が緩む。


「あ! 今笑ったでしょ!」

「笑ってないよ」

「笑ったじゃん!」

「笑ってない」


 そんな風に、くだらない話をするのも楽しかった。



***



「牧野さん、コンクールの絵は完成しそう?」


 朝、準備室の鍵を受け取りに行くと、珍しく顧問の先生が話しかけてきた。


「はい。間に合うと思います」

「そうなのね。見てもいいかしら?」

「え、あ、はい」


 少し戸惑った。今まで興味もないようだったのに。でも、顧問としてはコンクールに出す絵を見ておくのは最低限必要なことだろうし、隠す理由もない。顧問の先生は、頷いた私を見て立ち上がった。



 準備室の鍵を開ける。スミレはまだ来ていないようだ。

 キャンバスにかけた布を退ける。そこには、昨日帰る前に見たままの絵があった。

 そういえば、あれからキャンバスが汚されることがなくなった。彼女たちも飽きたのかもしれないな、なんて呑気なことを考える。


「まあ、牧野さんが人物画を描くなんて珍しいわね。モデルは誰?」

「同じ学年のスミレさんです。苗字は……」


 そこまで言いかけて、スミレの苗字を知らないことに気づく。初めて名乗られた時、彼女は苗字を言わなかった。それから苗字の話をした記憶もない。

 慌てて胸にかかっているはずの名札を思い出そうとしたが、それも思い出せなかった。そもそも、名札をつけていなかったような気もする。


「スミレ……? そんな名前の子、いたかしら」

「え? でも、同じ色のリボンだったので……」

「記憶にないわねえ……」


 全ての美術の授業を担当している先生が知らないなんてこと、あるのだろうか。でも、美術の授業は一年生しか受けないし、忘れてしまっているということも有り得る。


「とりあえず、無事に絵が完成しそうで良かったわ。じゃあ、頑張ってね」


 そう言って、先生は準備室を出て行った。静かになる準備室。スミレはそろそろ来るだろうか。

 もう絵はほとんど完成していて、モデルとしての役目はとっくに終わった。それなのに、スミレは毎日準備室にやってきた。私が黙々と作業する間、何かを話しかけてくるわけでもなく、ただ静かに同じ空間で同じ時の流れを感じるように、静かに隅に座っているだけだった。

 何が楽しいのだろうと聞いたことがある。彼女は、絵を描いているのを見るのが好きなのだと言った。



「おはよう」

「おはよう」


 先生が立ち去ってから少しして、スミレはいつも通りやってきた。こんな風に毎日挨拶を交わす相手がいることが、なんだか嬉しい。


「そう言えば、スミレの苗字って何だったっけ?」


 ちょうどさっき疑問に思ったことを、忘れないうちに問うた。一度スミレの胸元を見たけれど、やはり名札は付けていないらしい。


「え? どうしたの急に」

「さっき、顧問の先生と絵のモデルの話になって、スミレの苗字知らないなって」


 先生がスミレの名前に心当たりないって言ってたんだ、と話す。ほんの笑い話のつもりだった。良く関わる生徒でなければ、下の名前だけ聞いてピンと来ないのも当然だ。


「ああ、知らないだろうね。私の美術の先生、あの人じゃなかったから」


 スミレはしれっとそう言った。私も「そうなんだ」と流してしまいそうなほど、自然に。言葉が出ていく前に、ふと何かが引っかかった。

 あの先生は、私が入学した時にはもう美術の先生として授業をしていたはずだ。確か、入学する二年くらい前に赴任してきたと聞いたことがある。そして、一年生しか受けない美術の教師は、一人しかいない。


「どういうこと? 美術の先生ってあの人だけだよね?」

「あー、うん、ごめん」


 私の困惑した顔を見て、ようやく自分の言ったことの不自然さに気付いたようだ。ばつの悪そうな表情を浮かべる。

 私の頭には、さらに疑問符が浮かんだ。いったい何に謝っているのだろう。


「隠してたことがあるんだ」

「隠してたこと?」


 スミレが、いつもの定位置である椅子に腰かける。私も、とても絵に集中できるはずもなく、キャンバスを放置したままスミレの向かいの椅子に座った。



「私、あんたと同い年だけど、同い年じゃないの」


 神妙な面持ちで話し始めるが、一言目から、私には訳がわからない。思わず眉がぎゅっと寄った気がする。


「あー、なんていうか……その……私が入学したのはあんたが入学する三年前なんだ」

「三年前?」


 私が入学する三年前に入学したということは、ちょうど私の学年と入れ替わる年だ。そんな大先輩が、何故今も同じ制服を着て校舎の中にいるのだろう。

 三回留年したということだろうか。けれど、留年する人なんてそう多くないこの学校で、そんなにたくさん留年を繰り返していたら誰でも知っていそうな気がする。

それに、さっき言っていた「同い年だけど、同い年じゃない」の意味がよくわからない。

 頭の奥に、一つの可能性が過った。それはあまりに非現実的で、非科学的だ。


「ねえ、スミレ、もしかして……」

「待って、言わないで」


 私が開いた口を塞ごうとするように、両手を前に伸ばされた。その手は、私に触れる少し手前で止まる。


「言ったら、消えちゃうんだ」


 そう、力ない笑顔を私に見せた。

 出会ってまだそんなに経っていないけれど、私はそんなスミレの表情を初めて見た。その表情と言葉が、全てを物語っていた。



「私の友達も、絵を描いててさ。だけど、途中でやめちゃったんだ。それを、今ものすごく後悔してる。だから、どうしてもあんたを止めたかったの」


 ぽつりぽつりと話す声は、どこか申し訳なさを含んでいるようで、いつもよりずっと弱々しい気がした。スミレらしくないと思った。私は、スミレのことを何も知らないのに。


「騙すみたいになってごめん。本当は、すぐに来なくなるつもりだったんだけど、モデルになってほしいって言われて、嬉しくてつい……」

「なんで謝るの?」


 何て言葉をかければ良いのだろう、と頭のどこかで考えてたけれど、考えつく間もなく、私の口はそう言葉を吐きだしていた。


「私、スミレに感謝しかないよ。こうやって絵を完成させられたのも、スミレのおかげだし、学校に来るのが楽しみだなんて、本当に久しぶりだった」


 うまく笑えているだろうか。もうずっと、笑うことも泣くことも怒ることもやめてしまっていたから、自信はない。でも、精一杯私は笑って見せた。



「絵、見せてよ」

「まだ完成してないよ」

「いいじゃん、けちけちしないでさ」


 スミレはそう言っていつもと同じようにニカリと笑った。

 私は、この笑顔が好きだと思った。またスミレをモデルに絵を描くときは、この笑顔を描きたい。


「仕方ないな。特別ね」


 そう言って一緒にキャンバスの前に立つ。夕陽がスミレの頬を照らす絵。どこか悲し気に見えるのは、偶然だろうか。


「素敵な絵だね」


 スミレの指先が、そっとキャンバスを撫でる。本当に撫でられているのかはわからないけれど、その仕草がとても美しかった。


「あ、気を付けなよ。あんたに嫌がらせしてる子たち、また絵を汚そうとしてるから。前は守ってあげられたけど、もう守ってあげられないよ」


 スミレにそう言われて、この絵が完成目前までやってこれたのは、スミレのおかげだったことを知る。

 私が礼を言うと、スミレは得意げな顔をした。同い年なのに、こういう表情をすると少し幼く見える。それが彼女の魅力だと思った。



「ありがとね、私を残してくれて」


 スミレがもう一度絵を見て笑う。それがあまりに儚くて、もう会えなくなることを自然と悟った。

 悲しい、寂しい、そんな感情が胸を覆う。けれど、それを打ち明けられるほど、私は素直じゃなかった。


「また、スミレの絵を描くよ」

「モデルはできないよ」

「いいの。忘れないから」


 そう言うと、スミレの頬が淡く染まった。

 もう一度、口が「ありがとう」の形に動く。声は、私の耳には届かなかった。



 感謝されることなんて、きっと何もできなかった。私が感謝することばかりだ。

 卒業する頃、何の思い出も無い学校生活も、スミレと出会えただけで悪くなかったと思うのだろう。時々スミレのことを思い出しては笑うのだろう。そして、これからも生きていくのだろう。



 小さな幸せと、奇跡のような小さな記憶を胸に抱いて。

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咲きにほふ乙女 @hasuxxx

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