咲きにほふ乙女

桜が散るその先に

 あの日は、少しだけ風が強い日だった。彼女の艶やかな髪が、私の目の前で踊っていたのをよく覚えている。


「ねえ、名前なんて読むの?」


 かたくて着慣れない制服、見慣れない教室、見慣れない人の顔。指示の通り、これから一年間共に過ごす自分の席に着いてぼんやりと教室の中を眺めていた時だった。ふと、隣から声がかかる。振り向けば、誰かが私の席の隣に立っていた。


「ふかやまって書くけど、名前順だとマ行だもんね。私、漢字苦手で読めなくって」


 その人は、指で宙に「深山」という字を書いた。私の苗字の話をしているらしい。私の苗字はよく「ふかやま」と読み間違えられた。


「あ、えっと、みやま。深山さくら」

「みやま。へえ、そう読むんだね。私は、染井志乃。志乃って呼んで。さくらって呼んでもいい?」

「あ、うん」


 花の綻ぶような笑顔が、とても印象的だった。私とはまるで違う。明るくて、華やかで。きっと、こうやって話すのも入学してしばらくの間だけだろうと思った。こういう華やかな子は、同じように華やかな子とつるむようになる。そういうものだ。


「さくらは近くに住んでるの?」

「あ、ううん、電車で二駅行ったところ」

「電車通学なんだ。私は自転車だけど、家が駅の方だから今日一緒に帰らない?」


 突然の誘いに、思わず返事が出来なかった。ああ、コミュニケーション能力が高い人というのは、こんなに簡単に誘いの言葉を紡げるのかと、妙な関心をしてしまう。私は、中学生活の三年間でそんな風に誰かを誘えたことは一度もなかったなあなどと、おかしなことを回顧してしまった。


「あ、うん、駅まで歩きだけど……」

「その方がゆっくり話せるからいいね」


 志乃の言葉に頷くと同時に、教室の扉がガラガラと音を立てた。入ってきた先生の姿に、思い思いに話していたクラスメイトたちが静かになる。志乃は、慌てて少し離れた自分の席に戻って行った。



***



「自転車取ってくるから、門のところで待っててくれない?」

「あ、うん。わかった」


 一限だけのホームルームが終わると、今日の授業は全て終了した。クラスメイトたちがぞろぞろと教室を出ていく。志乃は、配布物をきれいにファイルに仕舞うと、私にそう言って少し早足で教室を出て行った。私も鞄を肩にかける。今朝よりもずしりと重かった。

 少し古い廊下に出ると、他のクラスの子たちも同じようにホームルームを終えたようで、廊下は混雑していた。たくさんの同級生たちがいる中に、私が知っている人は一人もいない。誰も私を知らない。だから私は、こうやってほんの少しだけ、笑えている。



「さくら! お待たせ!」


 正門に辿り着いてすぐ、後ろから大きな声が聞こえた。振り返ると、少し髪が乱れた志乃が勢いよく自転車を漕いで登場した。


「ごめん、さっき友達に話しかけられて、ちょっと遅くなった」

「あ、ううん、大丈夫。下駄箱が混んでて、私も今来たところだから」

「そっか、良かった」


 志乃が自転車から降りて歩き出し、私もその隣に並んで歩き始める。正門から出ても、自転車で帰路につく生徒たちが、廊下と同じくらいたくさんいた。けれど、駅の方に行く人は少なく、二人で歩くうちに人は減っていった。


「ねえ、こっちの道通って行こうよ」


 志乃が、T字路の真ん中で左の道を指差した。登校する時は、この道をまっすぐ通ってきから、駅は直進した先にあるはずだ。けれど、特に断る理由もない。戸惑いながら頷くと、志乃は少し嬉しそうに笑みを浮かべて左折した。


「朝はさっきの道をまっすぐ来たでしょう?」

「あ、うん」

「だと思った。見せたいものがあるの」


 そう話しながら、さっきよりも少し歩くスピードが上がる志乃について行きながら、私は「見せたいもの」について考えた。けれど、まだ数回しか来ていないこの街で、それを当てるなんて出来るはずもなかった。見当もつかない。

 ちらりと隣を見遣れば、志乃はにやにやと堪えきれない笑みを浮かべている。そんなに楽しいものが待っているのだろうか。もう一度考えてみても、その志乃の笑みの理由はわからなかった。

 しばらく二人で何も話さずに歩いていると、地面の色が変わりだした。薄いピンク色。ずっと見ていた地面から顔を上げると、ぶわりと地面と同じ色の風が目の前を横切った。


「さくらの名前を聞いて思い出したの。ここの桜、すごく綺麗でしょう」


 立ち止まって、志乃がそう言った。小さな川に沿って咲く桜の木。少し強いくらいの風が、木から花びらを奪い取って流れていく。はらはらと落ちていく花びらに当たる陽の光がきらきらと反射する。それが、何とも言えず、美しかった。


「きれい……」

「川沿いに歩いて、途中で曲がれば駅だから、ここ歩いて帰ろうよ」


 志乃はそう言うと、自転車を押して土手に上がる坂道を上り始めた。

 私の返事を聞く気がなかったのか、私が頷くことを見越していたのかはわからないけれど、私も何も言わず志乃の後について坂道を上った。

 土手に上ると、その景色は一層美しかった。私と志乃に花びらが落ちてくる。志乃の艶やかな髪に落ちた桜色が、彼女の愛らしさを引き立てた。ぶわりと風が吹けば、目の前を黒い髪と桜色の花びらが舞う様子に、妙に心惹かれた。


「見られてよかった。さくらのおかげだね」


 そう言って振り返った志乃の笑顔は、背景の桜とよく似合っているなと、ぼんやり思った。


「ここを曲がれば駅だよ」


 ぼんやりとした私の思考を、志乃の声が遮る。差された指に従って右を見れば、少し先に駅が見えた。今朝降りた駅だ。


「私はまっすぐ行くね」

「あ、うん。ありがとう」

「ううん、こちらこそ花見に付き合ってくれてありがとう。また明日ね」


 志乃はそう言うと、押していた自転車にまたがって颯爽と去って行った。またぶわりと風が吹き、花びらが舞った。それが地面に落ちる頃には、志乃の背中は遠くなっていた。



***



 それから、私と志乃は毎日一緒に駅まで歩いた。

 誘われるままに志乃と同じ吹奏楽部に入ったりもした。志乃と仲良くなったクラスメイトたちと、私も仲良くなった。志乃と同じ中学の友達とも、同じ部活の同級生たちとも、仲良くなった。私に、友達と呼べる人たちがたくさんできた。去年までの三年間とまるで違う、充実した日々。それは全て、志乃のおかげだった。



「部活辞めるの?」

「うん。塾に行けって言われて。両立するの大変そうだし」


 初めて会った日に行った土手で、志乃は私に部活を辞めると切り出した。私が驚いて聞けば、志乃はそう言って笑った。

 塾と部活を両立できないほど、志乃の要領が悪いとは思えなかった。けれど、文系クラスに進んだ私には、理系クラスに進んだ志乃の苦労はわからない。二年生になったばかりとは言え、これからどんどん私と志乃の差は開いていくのだろう。少し迷って、「そうなんだ」と当り障りのない返事をした。


「一緒に帰れなくなっちゃうね」

「うん、ごめんね」

「謝ることないよ。頑張ってね」

「ありがとう、さくら」


 ちょうど、分かれ道に差し掛かった。志乃が、押していた自転車にまたがる。志乃は「じゃあね」と言って自転車を漕ぎ、土手をまっすぐ進んで行った。その背中をいつも通り見送る。

 今日は吹いていなかった風が、ふわりと優しく吹いた。桜の花びらが、私と志乃の間を流れて行った。その日が、私と志乃が一緒に居た最後の日だった。



 翌日、志乃は宣言通り退部届を提出して、部活を辞めた。みんなの前で挨拶をする彼女と、悲しむ先輩や同級生。私は、別段悲しいとは思わなかった。会おうと思えば、いつでも会える。みんなが何故そんなに悲しむのだろうと、不思議にすら思った。

 志乃が部室を去って、私たちはいつも通り練習に励み、部活を終えた。外に出ると陽が傾いて、視界がオレンジ色だった。みんなが自転車で私を追い越していく。隣には誰もいない。そこでようやく、少しだけ寂しいような気持ちになった。

 一年前、志乃と出会って、一人が当たり前だった私の隣に志乃がいるのが当たり前になった。その志乃が隣にいなくなり、やがてそれがまた当たり前になるのだろうと思うと、胸がちりりと少し痛んだ。



 会おうと思えば、いつでも会える。そう思っていた。けれど、日々の中に志乃がいないことがだんだん当たり前になっていった。

 志乃が部活を辞めてから、私は一度も志乃と会っていないことに気が付くのに、ずいぶんと時間がかかった。



***



「ねえ、さくらちゃん。志乃ちゃんが学校辞めたって、何か聞いてる?」

「え?」


 高校最後の大イベント、修学旅行の自由行動について相談しようと、放課後教室に残っていた。ふと、同じ部活で三年目にしてようやく同じクラスになった優子がそう言った。私は、久しぶりに聞いた志乃の名と、その後に続いた言葉に目を見開いた。


「辞めた? 学校を?」

「うん、クラス替えの紙に名前がなかったんだって。さくらちゃん、仲良かったから何か聞いてるかと思った」

「ううん、何も聞いてない」


 優子が肩を竦める。去年から引き続き同じクラスの真由美が口を開いた。


「学校休みがちだったんでしょ? 出席日数足りなかったらしいよ」

「そうなの? そんなサボるタイプじゃなかったよね?」

「何か病気って聞いたけど」

「病気?」


 優子が私を見る。けれど、私は新たな情報に瞬きを繰り返すしかできなかった。志乃が休みがちだったことも、病気だなんてことも、私には初耳だった。私は、何も知らない。何も知らされていない。


「部活辞めたのもさ、その病気が理由じゃない?」

「そうかも。成績良かったのに、勉強に集中したいって変だなって思ったよね」




 二人が、修学旅行の話なんて差し置いて、志乃の話で盛り上がっているのが、少し遠くで聞こえる。ポケットに隠し持っていたスマホを取り出す。メッセージアプリを立ち上げ、志乃とのトークを探した。随分スクロールしないといけないほど、私は志乃と長い間連絡を取っていなかったことに気付いた。


「あ、さくら。志乃のアカウント消えてるっぽいよ。クラスの子が送ろうとしたけど、無くなってたらしい」

「そうなの?」

「みたい。電話番号もアドレスも知らないし、誰も連絡とれないよね」


 今時、電話番号やメールアドレスは用がなければ交換しない。メッセージアプリさえあれば、メッセージのやりとりも、電話も、全部出来てしまうから。私も、志乃のアカウントしか知らない。アドレス帳に、志乃の名前はない。


「志乃って、意外と薄情だよね」


 真由美の言葉に違和感を覚えた。志乃は薄情なんかじゃない。私は、そう思う。

けれど、それに反論できるほど、私は志乃のことを知らない。何も知らなかった。私も、連絡を絶たれた中の一人だ。


「そろそろ自由行動のやつ決めない?」


 ようやく口から出たのは、まるでその事実から逃げるかのような言葉だった。優子と真由美は思い出したようにパンフレットを鞄から取り出した。




「じゃあね、さくらちゃん。また明日」

「うん。また明日ね」


 ほとんど雑談で終わってしまった話し合いは、明日に延長になった。下駄箱で、二人が一緒に自転車置き場に向かっていくのを見送る。そして一人で帰路についた。

 教員会議の都合で、今日はどの部活も休みだった。誰もいない道を一人で歩く。もうとっくに、一人で帰ることに慣れてしまった。何も考えずとも足が勝手に駅の方へ向かって進む。差し掛かったT字路で、直進しようとする足を止めた。少し迷ってから、私は左へ曲がった。まだ、桜は咲いているはずだ。ほとんど散ってしまっているだろうけれど。


 土手に着くと、ずうっと続く道がどこまでも桜色に染まっていた。見上げる桜の木は、緑色に変わり始めてる。辛うじて、咲くのが遅かった花が枝にしがみついているような状態だった。ここに来るのも久しぶりだ。志乃が部活を辞めると言った日以来だと思う。

 この土手で桜を見る時は、いつも志乃が隣にいた。志乃と一緒に帰る時にしか、通らなかったから。そのせいか、桜を見上げると志乃に会いたくなった。今の今まで、会おうとも思わなくなっていたのに。

 志乃がいないことが当たり前になることが、あの時は寂しいと思ったくせに、いつの間にかそうなっていたことにも気付いていなかった。真由美が志乃は薄情だと言っていたけれど、私の方がよっぽど薄情だ。

 志乃が部活を辞めてから、一度でも会いに教室に顔を出していたら、何か違ったのだろうか。彼女と繋がり続けることが出来たのだろうか。彼女が学校を辞めることを、あの日のように一番初めに教えてもらえていただろうか。それは、今となってはもう分かりようもないことだ。


 駅の方へ行く分かれ道にさしかかると、ぶわりと風が吹いた。辛うじてしがみついていた花が、風に攫われる。目の前を花びらが舞った。初めてこの土手に来た日も、志乃が部活を辞めると言った日も、同じような景色だった。土手の先を見ても、彼女の後姿は無い。それが、どうしようもなく悲しいような気がした。



 桜が散るその先に、彼女はもういない。

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