桜花は一片の約束

いいの すけこ

さくらとさくら

「さくらー」

 呼ばれた気がして、私は声の方を振り返った。

 教室の後ろ、窓際にたむろしていた男子たちと目が合う。

「なんだよ、藤野ふじの

「えっ、あの」

 まともに言葉を交わすこともできずに、私は慌てて目を背ける。

 呼ばれたかどうかを確認することさえできなかった。

「呼んだかー?」

 男子たちの輪に、もう一人男子生徒が加わる。

 ああそうか、そういうこと。

「藤野さんとなんか話してたの?」

 背後から、彼の声が聞こえる。

「全然。っつか、お前のこと呼んだらなぜか藤野が振り返ったの」

 ああもう、わかったから。

 勘違いして振り返った私が馬鹿だったから、放っておいて!

「ああ、そっか。ほら、藤野さんって、俺とおんなじ名前だから」

「え、藤野って良一りょういちだっけ。女子なのに?」

「違う違う。さくらだよ。藤野さくら」

「ああ、さくらの方かあ」

 納得したような声が上がる。

 

 私の名前は、藤野さくら。

 彼の名前は、佐倉さくら良一。


 私と彼は、名前と姓が『さくら』同士なのだ。


「つーか、藤野ってさくらって言うんだな。初めて知ったわ」

「俺も覚えてなかったわ。大体、藤野が下の名前で呼ばれるのなんか、聞いたことないもんなあ」

「あいつが友達といるの、見たことねえもん」

 教室の隅から聞こえてくる会話。

 私はただ黙って、素知らぬ顔で、自分の席についている。

 中学一年の終わり、春休みを控えた教室。

 私達はもうすぐ二年生に進級する。この学校はクラス替えがなく、三年間固定クラスだ。だからたとえ教室が変わろうと、校舎が変わろうと、集まるグループはきっと変わらないまま。教室でたむろする場所すら、一年生の頃と同じような場所に群れるに違いない。

「そういうこというの、やめようぜ」

 佐倉くんの、周りをたしなめるような言葉が聞こえた。

 口ぶりは明るいから、一応言ってみただけかな。いや、場の空気がわかってるんだろうな。佐倉くんは明るくて、クラスの輪を作っていくようなタイプの生徒だから。

 そういう優しい子とか、壁を作らない感じの子が私に声をかけてくれることもあるけど、下の名前で呼んでくれるくらい親しい友達が、私にはいない。

 そうしてまた、一年の時と変わらない人間関係が、私を一人のままにさせるのだろう。

「あ。俺、面白いこと思いついちゃった」

「なになに?」

 楽しそうな声が聞こえてくる。教室の中は賑やかで、楽しそうな会話に溢れているのに、佐倉くんの混じったグループの会話ばかりが聞こえてくる。

「佐倉と藤野が結婚したら、『佐倉さくら』になるってことじゃん!」

「さくらさくら!うわー、ウケるー!」

 私は机を凝視したまま、目を見開いた。

 結婚とか、なんてたちの悪い冗談だ。

 いい加減にしてくれ!

 そう、怒鳴ることができるほどの強さがあれば。

 私はとっくに、クラスメイトに下の名前くらい覚えてもらっているんだろう。


「良一、じゃあなー」

 一人で歩くことに慣れた帰り道、背後で例の男子たちの賑やかな声がした。私は振り返らずに、裏門に向かって黙って歩く。

 裏門へ続く細い道に沿って咲く、桜が綺麗だった。せっかくの桜並木なのに、裏門を使う生徒が少なくてもったいないなと思う。

 だけどこの道が、大勢の生徒であふれかえっていたとしたら。

 楽し気にお喋りする子たちに紛れて、私は桜を眺めることもなく、うつむいて歩くのだろう。

「藤野さーん」

 本当にうつむきかけていた私の耳に、明るい声が響いた。振り向く間もなく、佐倉くんが隣に並ぶ。

「さっきはなんかごめんなー」

 相変わらずの明るい調子で佐倉くんは言う。ノリが明るいからって、不誠実だとは思わない。

「佐倉くんが謝ることじゃないし」

 むしろ、わざわざ謝ることの方が律儀だ。

 こうやって気がかりなことはすぐに決着をつけちゃって、あっさり前に進んでいく人なんだろうな。ぐずぐずと考え込む私とは正反対だ。

「佐倉くん、みんなと一緒に帰らないの?」

「正門からだと、めちゃくちゃ遠回りになるもん、俺」

「一緒に帰らないで、ハブられるとか思わない?」

「え、それくらいで?」

 佐倉くんにとっては、それくらい、なのだ。

 友達と別れるってことが、一人で帰るってことが、それくらいのこと。

「藤野さんこそ、一人なの?」

「うん」

 私だって、一人で帰るのはもはや慣れ切っているし、寂しいだなんて思わない。

 ただ、隣に誰かいればいいなあって。

 誰かと一緒に桜を見たいなあって。

 それくらいのことは、思うけど。

「おー。すっげえ桜」

 同じペースで歩きながら、佐倉くんが言った。

 まあ、こうして合流してしまったからには、ペースを上げたり、ましてや急に走り出すわけにもいかないけれど。

「でもさー、小さい頃とか、この時期からかわれなかった?俺、桜の時期になると桜とおんなじだっていじられたぜ。あと、桜の木の下でわざと『さくらー』って呼ばれて、返事すると、『お前じゃないよ!』って言われたり」

「あー。あったあった」

 今じゃ下の名前すら覚えてもらえてないけど。

 からかわれるのとどっちがマシだろう。

「今日も藤野さんと紛らわしかったじゃん?だから俺、あいつらには『良一』って呼ばせることにした」

 そう言えば、さっきは『佐倉』じゃなくて『良一』で呼ばれていたっけ。

「別に佐倉くんが気を使うことないよ。私のこと、『さくら』って呼ぶ人なんて、いないし」

 足元に桜の花びらが舞い落ちていく。

 いつの間にか下を向いて、足元ばかりを見ていた。 

「じゃあ俺が藤野さんの事、『さくら』って呼ぼうかな」

 今までと全く変わらない調子で、佐倉くんが私の名前を口にした。

「は……?」

「そうだ、俺が藤野さんのことさくらって呼んで、そんでもって藤野さんは俺の事、良一って呼んでよ。そうしたら万事解決!」

「いやいやいや!」

 いやいやいや。いったい何が万事解決するっていうんだ、それ!

「そうしたら紛らわしくないしー」

「ちょ、ちょっと待って。無理。ほんと無理!男子の下の名前、呼び捨てるとか無理!呼ばれるのも無理!」

 頭と手を振って、全力で佐倉くんの提案を拒否する。 

「無理ー?まー、あんまり男子と女子で下の名前で呼び合うっていないもんなあ」

「でしょでしょ。いないでしょ。絶対からかわれるから!」

 そうだ。ちょっと落ち着こう、私。いや佐倉くんが落ち着いてくれ!

「あいつらからかうの好きだからなー。『佐倉さくら』とか」

「そうそうそう」

 今思い出しても恥ずかしくなる。

 どうしてこう、みんなして、誰かと誰かをくっつけるみたいな話が好きなのか。

「今時、夫婦別姓とかもあるのになー。女の人が男の方の名字に必ずなるって考えが古いよな」

 えっ、気になるところそこなの?

 私は佐倉くんという人のことが、だんだんわからなくなってくる。

 わかってることなんて、そもそも全然ないに等しいかもしれないけど。 

「いじられるのは、確かに嫌だもんな。俺は名前をどう呼ぼうが、構わないと思うんだけどなあ」

「佐倉くんは誰とでも話せるような人だから、いいかもしれないけど……。私にとってはすごく難しいことなんだよ」

 からかってくるような人の前で毅然としていることも。

 誰かと名前で呼び合うほど仲良くなることも。

 私にとっては、ひどく難しいことなのだ。

「よし!」

 今度は突然、佐倉くんが気合を入れるような一声を発した。

 身構えた私の前で、佐倉くんが突然腕を振るう。

 いったい何事かと、目をぱちぱちとさせていると。

「……取った!」

 佐倉くんがガッツポーズをした。いったい何事かと思っていると、そのままガッツポーズで固めた拳を私の前に突き出してくる。

 その手を、私の目の前でゆっくりと開いた。


「……桜の花びら?」

 佐倉くんの手のひらに、一枚の桜の花びらが乗っていた。

「うん。今、舞い落ちてきたやつを、地面に落ちる前に空中でキャッチした」

 佐倉くんは得意げに笑う。

「え、それ結構難しいんじゃない?」

「うん、難しいよ。だから俺、桜の時期になると、この桜キャッチに挑戦するんだ。うまくいったら、願い事が叶うってことにして」

「願い事?」

「今年は願い事っていうか、目標」

 笑みを深くして、佐倉くんは言った。

「今年中に、藤野さんと下の名前で呼び合うこと!」

「はい?!」

 思わず声が裏返る。

 さっきからこの人、なんでこんなに名前で呼び合うことにこだわるんだ?!

 そんなに私がぼっちなことを気にしてるのか?

 そんなに、私のことを。

「だから、無理だって……」

「じゃあ、今年中じゃなくて、卒業までなら?」

 佐倉くんは諦めない。

「卒業までなら、何とか……」

 押しの一手の佐倉くんに、私は思わず答えてしまう。

「よし。じゃあ卒業までに。約束ってことで、この花びらはさくらにあげよう」

 あ、いま本当にさくらって呼んだ。

 佐倉くんが手を差し出してきたので、私もおずおずと手を出した。

 ふわりと、桜の花びらが手のひらに乗った。

 卒業までなら。

 卒業するまでになら、何とか、なんとか、ね。

 呼べたら、いいよね。

「よーし、目標第一歩。俺さ、卒業するまでにクラスメイト全員と下の名前で呼び合うのが目標なんだ!」

 あ、全員か。

 そういうことね。

 私とだけじゃなくてね。

 そりゃそうだ。

 名前で呼び合うような友達のいない私が、私だけ、なんて図々しすぎる。

「ねえ、佐倉くん。誰か、下の名前で呼んでる女子って、いる?」

「えー?んー、いや、さくら以外は誰もいないなあ、今んとこ」

「そっか」

 私は桜吹雪の中で手を一振りする。

 あまりにも軽い桜の花びら、掴んだとしても、感触もわからないかもしれないけれど。

 私は空中で拳に固めた手を、そっと開く。

「あ」

 そう。図々しいかもしれないけれど。

 下の名前で呼ばれる女子一番乗りには、なったようだから。

 彼の下の名前を呼ぶ女子の、一番乗りになる努力くらいは、してみようかと思う。

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