第5話 広瀬夏子の場合 3

「だからあ!ほんっとやめて欲しいわけ!自分で短くしろって言っといて、切ったら切ったで、短すぎってクレーム入れてくんのほんとめんどくさいって」


「あーでもそのお客さんの気持ちわかるかも」かなえは程よく酔いの回った様子で、身体を少し前後に振りながらくっくっと笑う。


「かなちゃんはどっちの味方なのよ!だいたいお客さんがなに考えてるかなんて分かりっこないのよ。そんなにミリ単位で長さが気になるなら注文書でも書いて、工場でやってもらったほうがいいのよ」

 盛大に酔った夏子は足取りも覚束ず、ステップでも踏むかのように右、左、右、左へと大きく揺れる。


「危ないよー夏子、ほんとにあんたは変わらないね。安心したよ」一際大きくよろめいた夏子の腕を支えるように、かなこは夏子に寄り添う。


 焦点の定まらない目でかなこの横顔を伺うと、高校生の頃より短くなった髪の間から小さな耳が見えた。夏子より少しだけ背の低いのは昔から変わらなかったが、アルコールで耳が赤くなっているのを見たときもう高校生ではないんだと、当たり前の事を今更に感じた。



 時刻は23時をまわろうとしていた。昼の間に蓄えられた熱気がアスファルトから立ち昇ってきて、熱とアルコールに当てられた身体は焼いたお餅が伸びるようにみるみる弛緩していく。


「あーほんと腹立ってきた。美容師なんてやめちゃおうかな」夏子が呟く。


「だめだよ、あんなになりたい、絶対に東京で有名になるんだ!って言ってたじゃない」


「でも、東京って思ってたところとなんだか違ったんだよね。来る前はもっと、夢が溢れてる場所だと思ってた」俯きながら話していた夏子は、目の前に落ちていた手頃な石を蹴った。



 からからから。

 石は2人の2メートルほど先まで転がる。


「なんだか高校生の頃はもっとなんでもできるって思ってたよね」かなこは夏子が蹴った石を目で追いながら話す。


「私たちの人生ってこれで正解だったのかな」今度はさっきより力を入れて石を蹴る。



 からからから。

 今度は歩道のぎりぎり端で止まった。


「夏子に辞めちゃだめって言いながら、私、実は仕事やめたんだよね」今度はかなえが石を蹴る番だった。爪先の端に当たった石はくるくると回りながら前に飛んでいく。



 からからから。かん。

 かなえの蹴った石は側溝へと落ちていった。


「そうなんだ」夏子は石の落ちていった側溝を見ながら呟く。


「うん、限界かなって思っちゃってさ。今回東京に来れたのも、夏子に会えたのもみんな仕事を辞めたおかげ」くっくっと笑う。声は笑っていたが顔は寂しそうな表情をしているに違いない。側溝を見ている夏子にもわかった。


「そうなんだ」また呟く。美容師として接客業をやってるくせに、こんなときに何て返せば良いのか夏子には分からなかった。


「ありがとね、急に呼び出してごめんね。楽しかった」グリーンのワンピースが街灯の光を受けて鈍く光る。待ち合わせに指定した駅が、もうすぐそこまで近づいていた。


 ああこのまま終わってしまう。

 久しぶりに会えて、昔のことを思いだして、2人で笑ったのに、終わってしまう。まだ言わなきゃいけないことがある気がする、でもまだ言えてない。終わって欲しくない、でもなんて言えばいいんだろう。夏子はこの場で言うべき言葉を持ち合わせていなかった。

 言葉がでてこないもどかしさを、当て付けるかのようにまた別の石を蹴り飛ばす。



 からからから。


 酔っ払いが蹴ったくせに、石はまっすぐ飛び出していった。言葉をなくした2人が石の行方を見守る。すると、石はちょうど街灯があまり届かず暗くなった場所で変な跳ねかたをしたようだった。

 不思議に思った2人が飛んで行った石の方へ歩いていく。すると道の真ん中に何か黒い物体が落ちていた。おそらくこれにぶつかって石は跳ねたのだろう。

 もう少し近づいてみる、それは猫だった。東京の夜に溶け込むように、真っ黒な猫だった。さっきの石で怪我でもしたのだろうか、私たちが近づいても逃げようとしない。



「猫だ」


「猫だね」


「怪我さしちゃったかな、ごめんね」夏子が黒猫の側にしゃがみ込む。全く逃げようとしないので触ろうと手を伸ばすと、歯を剥いて威嚇される。


「うわっ」たまらずよろめいた夏子をかなえが支える。今度はかなえが手を伸ばしてみた。


「危ないよ、かなちゃん。変な病気とかもってるかもしれないよ」威嚇されたお返しに、ちょっとだけ悪口を言ってみる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」かなえの手は黒猫の頭を撫でた。黒猫は気持ちよさそうにかなこの手に身を委ねている。


「どうしてえ!」


「この猫私のこと好きみたい」くっくっと笑う。


 もう一度夏子が手を伸ばすが、また威嚇をされた。


「どうして私だけ!」


「石ぶつけたの怒ってるんじゃない?うーん、この猫どっかで会ったことあったかな、なんだか懐かしい気がする」かなえは先ほどの寂しげな様子が少しなくなり、穏やか表情で嬉しそうに猫を撫で続けた。猫も目をつぶって気持ちよさそうに撫でられていた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよならタイムスリップ 稜雅 @ryo190

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ