第五十章

津田砂代は刑事の話に耳を傾けていた。えらい方の刑事が志摩の話をしていた時に、彼女は手を止め、顔を上げた。初めて見た時から気になっていた、何処かで会ったことがあるような気がしていたが、はっきりと思い出していなかった。

あの人は・・・砂代は今はっきりと思い出した。しかし、今は改めて言葉を掛けることは出来なかった。彼女にとって志摩はけっして心優しい場所ではなかったのである。それに刑事は起こった事件の捜査で来ていた。そんな時に、個人的なことは聞けなかった。


大森六太郎とは、高校を卒業してから一度も会っていなかった。あいつとは志摩高校に入るとすぐに知り合いになった。あいつの方から話しかけて来て、俺の家はちっちゃな家だったから遊びに来いとは言えなかった。だけど、来い、と誘われ座神にあるあいつの家に行くと、どこか神秘的な雰囲気があった。あいつにとって俺は唯一の友達だったようだ。俺もそういう面では上手ではなかった。そんな所に気が合ったのか。あいつが、俺以外の奴と話しているのを余り見かけたことがなかった。

南小四郎は両親の相次ぐ死で二度志摩に帰ったが、六太郎に会いに行かなかったし、座神の大森の家の噂も聞くことはなかった。俺の住んでいた所と座神との距離が結構離れていたこともあったかもしれない。そして、何よりも彼自身が大きな事件を抱えていたので、すぐに志摩を出た。人と付き合うのが下手のままだった小四郎には、自分の前を通り過ぎて行く人間にいちいち気を使う気にはなれなかった。だから、いつか通り過ぎて行った人間が、また自分の前に現れることなど全く想像していなかった。

みんな、過ぎてしまった時間なのである。その度に、いちいち時間を戻すなんて面倒臭くて、小四郎の苦手とする所だった。だが、彼は刑事だった。南小四郎は自分の職業を良く理解し、納得して行動していた。事件の関係者の過去をとことん調べるために、彼は彼らの過去に土足で踏み込んだ。彼は、今事件の関係者の一人になりつつあった。そして、この事件で、自分の過去を引っ張り出すことになるとは想像すら出来なかった。

「知っているんだよ、君のお父さんを」

南小四郎は口を歪め、笑みを浮かべて、言った。彼の心の中は濃淡の激しい灰色の雲が渦巻こうとしていた。これから六太郎の闇の部分を掘り返さなければならないのである。当然、そこには彼自身、南小四郎が出て来ることもあるはずである。

「えっ!」

大伴智香は驚いて、気難しい顔をしている刑事を見上げた。彼女が考えてもしていなかった、お父さんを知っていると言った刑事を、不思議な生き物でも見る目で小四郎から目を離さなかった。

「やっぱり、そうでしたか」

砂代は持って来たコーヒーをテーブルの上に二つ置いた。智香にはレモン水のグラスを置き、

「これで、いいね」

といった。

智香は頷いた。

砂代はちょっと恥ずかしそうに小四郎を見つめたが、目を逸らそうとはしなかった。

南小四郎はやっと気付いてくれましたかという笑みをつくり、砂代を見つめていた。彼は砂代の近くに、彼女の夫である英美がいないのを確認すると、にやりと口を歪めた。そんな自分に気付いた彼は、馬鹿なことを考えるな、と自分の感情を戒め、叱った。

砂代は孝子を見つめ、その後兄の子供である智香を見つめた後、

「お母さん、この刑事さん、知っているんだよ」

といった。砂代は目を伏せ、顔を赤らめ微笑んだ。

孝子は何だかほっとした気持ちになった。物心ついてからの母の印象は何処か暗く、秘密を持っている印象だった。もちろん、笑った顔も見ていたが、ここまで顔を赤らめ、気持ちいい笑い顔を見るのは初めてだった。

「兄とは友達で、よく家に遊びに来て見えましたね」

「ははっ、あの頃は怖いもの知らずでした。今、あのようなことを今やれ、と言われても、とても出来ません」

砂代は小四郎ににこりと笑った。彼女の目は十数年前の南少年と今の南警部とを重ね合わせようとしたが、しっくりしないものを感じて、戸惑っているように見えた。

南小四郎の祖父は学といって、奈良県から志摩の方に来たらしい。らしい・・・というのは、彼、小四郎は自分の先祖が何処かという面倒臭い詮索をしなかったし、する気もなかった。これは、小四郎がそういうことに全く興味がなかったし、無頓着だったということに尽きる。ただ、志摩の夏の空が異様なまで純粋な青さで覆われるのを目にする度、祖父がここに来たのが分からないでもなかった。

「あっちは、あの頃と少しも変わっていないんでしょうね?」

南小四郎はちらっと砂代に目をやり、すぐに逸らした。長く見つめていられないというのが、彼の今の気持ちだった。砂代が自分の存在に気付いてくれたのはいいが、余計に心の中がときめいて仕方がなかった。

「私は、ここ何年、志摩には帰っていないんです」

といった後、彼女は力なく首を振った。小四郎は砂代の哀しい表情を見たことがなかった。いつも離れた所から見ていたが、そんな時彼女は仲のいい女の友達と笑っているか、本を読んでいた。そして、黙って空を見上げ、志摩の空の青さを堪能していた。その気持ちのいい幼さが、今も彼の脳裏に鮮明に残っていた。

小四郎は昔好きだった人に会っているという快い気持ちを強引に打消し、刑事の目に変えた。

「いろいろあったようですね」

小四郎はいった。

津田砂代は素直に頷いた。彼女は怪訝な目で刑事を見た。この方は、志摩で私に何があったかを知っている。他の人には知られたくないこと。特に、この人は兄の友だちで、あの頃の私を知っている人だから、恥ずかしい。でも、この人は警察の人だから、その気になればあの頃志摩で何があったのか、すぐに調べられる。隠しようもない事実だから、一層知ってもらった方が、自分は気が休まると彼女は思った。

「ああ!」

智香が奇声のような溜息を上げた。

「お父様・・・お父様をどうしようとしているの?あたい、会いたい。お父様に今すぐ会いたい。ねえ、刑事さん。お父様に急いで会いに行かなくてはいけない。でないと・・・」

智香は手首を組み、左右両方の手首の黒い痣をつかみ、痛むのか苦痛に耐え忍ぶような表情をした。

「どうした?」

南小四郎は真砂代と顔を見合わせた。

「あいつが・・・!」


「はっ!」

飯島一矢は呟きにも似た叫び声を上げた。夏休みに入った二日目の今日。彼はクラブ活動の陸上部に行くつもりだったが、気分がすぐれないと伝え、休んだ。そうなると、ますます外に出る気がしなかったので、自分の部屋に閉じこもっていた。開けっ放しの窓からは珍しく気持ちの良い風が吹いて来ていた。彼は目を閉じた。

一矢は夢を見ていた。彼の見る夢はいつも実に不愉快な夢ばかりだった。そんな夢だから、いつ目覚めさせられても大歓迎だった。今まで夢の途中で目覚めることはなかつた。今日、その夢の中に、あの娘、大森智香が現れたのである。しかも、理由は分からないが、非常に苦しそうにして現れ、もがき苦しんでいたのである。

そして、滅多にないことだが、一矢は自分から強引に、今見る夢から目覚めさせた。彼は立ち上がり、クローゼットを開けた。ハンガーに吊るしてある五六着の服を掻き分けつね中から長さ一メートルほどの剣を取り出した。

「行くか・・・行った方がいいんだろう」

一矢はこう呟いた。

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夢よ 希望よ 愛よ 私に翼を下さい  第三部 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog

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