第四十九章

「さて・・・」

南小四郎警部は腕を組んで、ソファに座る十二歳の少女を睨み付けた。この厳つい目がいかんのだ、と彼は自分を戒める。ここは、あの事件が起きた大森六太郎の居間である。

「うむっ」

南小四郎は少女に優しく微笑みたかったのだが、実際はそうはいかなかった。彼は今仕事中なのである。彼は冷静を装って、自分がどういう表情をしているのか考えてしまった。おそらく、怖い顔をしているのだろうと思った。いけない。この子は容疑者ではないんだと彼は慌てて顔を撫でた。

小四郎は智香からいったん目を逸らした。俺にはこの子を責めるつもりは少しもない。犯人を厳しく問いただす時のこの目がいかんのだ。この子は母を殺した犯人ではないのである。この子は被害者なのだ。彼は心の中で何度も強く自分に言い聞かせた。

「ははっ」

南小四郎は笑った。だが、彼は笑っている自分の顔を思い浮かべると、苦笑した。片方の頬が凝り固まり、何だかひきつっているようで不愉快な感じがした。

何から聞けばいいんだろう?聞かなければならないことがいくつかあるが、何から聞くのが、この子の気持ちを和らげられるんだろう?小四郎は自分が座っているソファの下に目をおとした。ちょうど彼が座っていた足元の絨毯の一部が、いたずらな子供が泥を塗り潰したような汚い色に変色していた。血・・・だった。

津田砂代は小四郎の視線が血の跡に動いた時、苦い薬を飲んだ時のように顔を歪めた。彼女は事件のことは気になっていたのが、この刑事になぜかしら興味を持った。今も刑事の動きを追っていたら、変色した血の塊りに辿り着いたのである。

義姉、真奈香の身体から流れ出た血だった。砂代は、あの時気持ちは動転していたが、その場所ははっきりと覚えていた。あんなことがあってから、まだそんなに時間は経っていないが、義姉の血は絨毯に泥臭くこびりついていた。一日も早く智香の心から、この悪夢を忘れさせてやらなくてはいけないと彼女は思っていた。団地の入り口にある田島カーテンに取り換えに来てくれるように連絡しなくてはいけないと彼女は思っていたが、彼女自身事件から受けた衝撃が大きく、まだ連絡を取っていなかった。

「あいつ・・・誰ですか?安部安貴とか言っていたが・・・」

とりあえずこんな所から聞くしかないか、と小四郎は考えた。彼は自分では考えられないくらい優しい声で言ったつもりだった。気丈に見つめて来る少女は、誰が見ても心も体も相当疲れているように見えた。今これ以上、刑事の俺が聞くのは可哀そうな気がしたが、少女は小四郎を気丈に睨み返してくる。

智香はえらい方の刑事があいつと言った時、誰のことを言っているのか分かった。あたいは、そんなに鈍感じゃないと言い聞かせ、刑事から目を逸らさなかった。

智香は首を横に振った。

「そうか。それでは、もう一つ聞きます。もう一人のあいつは誰ですか?化けもののといった方がいいかも知れないが」

智香はまた首を振った。

「よし。じゃ、質問を買えるよ。今日起こったこと、そして、もう少し前に起こったことで、あなたの分かる範囲のことを話して下さい」

智香は、今度はゆっくりと首を振った。

南小四郎は二十数時間前にこの少女を見ている。もう会うことのない恭子と同じくらいの歳・・・?恭子はいくつだった。恭子の方が年下だったのかな?彼は娘の歳を忘れてしまっている。小四郎はそんな自分に戸惑い、驚いた。

あの時は異様な物音で砂代の娘の部屋に駆け付けた時、この少女は気を失って倒れていた。その時の彼女は、十二歳の少女らしく弱々しい感じのする子に見えた。

だが、今、目の前にいる少女が、その時と同じ子には見えなかった。

智香の話を聞き終わった印象は、この子は本当に何も知らないのかもしれないと小四郎は感じた。あいつ、六太郎が母を殺した理由を、この子に分かるわけがない。母の死は理解していても、母の死の微笑みの意味は多分知らないに違いない。この子から事件の真相に迫るのは無理なのか。今は・・・十二歳・・・恭子は、父である俺の何を知っている?小四郎は首を振るしかなかった。

だが、小林刑事は南警部と同じ印象を受けても、そう簡単に引き下がる気はないようだ。

「それじゃ、君は本当にそれ以上のことは、何も知らないのか。君は、十二歳だろ」

彼は幾分苛立っていた。若さではなく、彼の気性が許さないようだった。

小四郎は、そんな小林を知っているから、

「小林、もういい。黙っていろ」

と彼を睨み付けた。

開け放ったままの窓から生暖かい風が居間にさっと舞い込み、行き場を見失っていた。やがて、その生暖かい風は耐え切れずに消滅する。

南小四郎は恋しい人がやって来たと勘違いをし、庭に目をやった。しかし、彼の恋しい人は、すぐ近くにいたのである。彼は砂代を一瞥し、また庭に目を移した。

事件が起こった深夜。ここに来た時まだ陽が昇るのには時間があった。居間から漏れる明かりに庭全体は照らされ、何処かで見たことがある景色に似ていた。彼には懐かしさが感じられた。だけど、その景色が何処なのか、今の所彼は思い出していない。

そして、今、その庭の景気は完全に破壊され、無残な姿をさらけ出していた。彼は、今の無残な光景をただ見ているしかなかった、数十分の闘いの跡が痛々しかった。名古屋の夏の厳しい陽光は、その庭を、今は庭と言えなかったが、もろに映し出していた。こんな事件がなければ、夏になり少し茶色くなった芝生もそれなりに美しいのだろう。道路側の白壁の手前にある小高い丘には何本かの樹木が植えてあったが、かろうじて一本だけ残っているだけだった。六太郎が、彼の心にある景色を模してこの庭を造ったのは、彼にも容易に想像出来た。

しかし、何・・・どのような景色なのか、小四郎にはまだ思い浮かべられなかった。彼のもやもやしたものがすべて消え去り、新しい何かが生まれて来そうな感覚はあったが、それは彼の気のせいかもしれなかった。ただ・・・彼は窓際に近寄り、空を見上げた、その遥か上の方には、青い空が広がっていた。小四郎は眩しくて、目を細めた。

「君は、お父さん、いや多分お母さんも同じ場所だと思うんだけど、ご両親の生まれた場所、故郷に行ったことがありますか?」

南小四郎は気を弛めると命令調になる言葉を意識して、声の調子を和らげて言った。小四郎は小林刑事を鋭い目で一瞥し、俺はこんなに気を使っているんだ、だから、お前は黙っていろと指示をした。今、小四郎の脳裏には志摩の濁りのない青い空が鮮明に映っていた。

「あたい・・・ごめんなさい、私、お父様もお母様も、二人が何処で生まれ育ったのか、本当の所は知らないんです」

智香は何も知らないことを恥ずかしく思い、小四郎から目を逸らした。

小四郎は軽く頷いた。あいつなら・・・あいつは自分の子供に何も話していないのか?仕事が忙しくて話す時間がなかったのか。それとも、他の理由から自分たちが生まれ育った場所さえ話さなかったのか。今の所、小四郎には話していない理由は分からない。あの頃、あいつは、俺にいろいろ話してくれたと思うが、多分話さずにいたことの方が多かったように思う。彼は記憶の中に探りを入れた。あの頃の映像がいくつか浮かんできた。あいつは多くの秘密を持っていた。あの頃は、そんなことは気にもしなかったし、気付きもしなかった。あいつが俺に話したのは、あいつの秘密のごく一部だったんだろう。あいつは肝心なことは話さなかった。あいつにも、それはけっして俺に話せないと認識していたんだろう。

「そうですか。あなたのお父さんは、多分お母さんもだと思うんですけど、三重県の志摩地方の人なんです。そうです、ずっと南の方です。落ち着いたら、行って見るといい。海岸沿いが入り込んでいて複雑な地形だが、その複雑さが神秘的で美しい。俺たち、いや・・・私がいた頃は、志摩の地形はそんなに手を加えられていなくて、景色からして体に染み込んで来て、快い気持ちになれたものだよ。生まれ育った所は、その人がどう生きたかによって随分変わって来るけど・・・あいつ、君のお父さん、大森六太郎さんにはどうだったんだろうね?」

南小四郎はもっと言葉を付け加えたかった。今、あれこれ言ったところで、事件の真相に辿り着くことは出来ないと思った。彼の記憶の中の何を捨てて、何をもって真相に迫るべきなのか、まだ整理はついていなかった。それに、彼が今話しているには、唯一の事件の関係者だったが、十二歳の女の子であるのも間違いなかった。

コーヒーの香りが鼻を突いた。南小四郎はキッチンの目を移した。砂代がカチッカチッとカップの音をたて、コーヒーを淹れる準備をしていた。時々顔を上げ、小四郎の話しに興味を示しているようだった。

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