第四十八章

里中洋蔵が創った暗黒の空の上には、やはり名古屋の真夏の厳しい空が存在していた。今まで智香は洋蔵の創った暗黒の世界にいたのではなく、間違いなく目に痛みを感じる現実の世界にいたのである。その暗黒の雲が消えてしまった空に、智香は白い鳥の姿を探した。

「智香、大丈夫か?」

飯島卓の声は浮ついていた。智香という女の子が特異であると認めていた彼でも、目のした光景が余りにも現実から掛け離れていて驚きを隠せないでいた。彼には智香を助け、共に飛び回っていた安部安貴が、智香とどういう関係の人物なのか知らない。洋蔵、化けものの言う陰陽師が、どういうものなのかも知らない。そのことが、洋蔵から受ける異常な恐怖心とどう関係しているのか、これも彼には分からない。

今、卓に分かっているのは、さっきの現実離れした世界を創ったのは洋蔵だということ。その中で智香が洋蔵との闘いで、智香が心と体に深い傷を負ったにせよ、堂々としていたということ。この二つである。そして、突然現れた白い鳥は、何なんだ?

「大丈夫だよ」

智香は笑顔を見せた。明らかに、卓を心配させまいとする気遣いが見て取れた。怪我もしているに違いない。そして、本当は人を気づかう気分じゃないはずである。卓は、智香の気遣いを嬉しく思った。だから、彼は笑みで返した。卓はそんな智香を見て、

「おっ!」

と声を上げた。

卓がちょっとした驚きをみせたのは、理由があった。彼女の顔は泥が付いていて汚かった。彼女は汚れた顔を拭こうともしなかった。彼がこれまでに知る智香の笑顔の中で、眺める方としては最高に気持ちのいい表情をしていたのである。

「お姉ちゃん」

津田孝子は不思議な生き物でも見るような目で智香を見ていた。あの日の朝方、気を失い、目を開けた智香と目を合わした時には、智香はまだ・・・ごく普通の女の子だった。しかし、今は違った。智香はあの化けものと闘っていたのだ。孝子の知る智香ではなかった。

「孝子!」

智香は優しく言った。孝子は今の智香を見て、戸惑っていた。今までの智香と同じなのと言いたかったが、智香自身、自分の変化に気付いていたから、何も言わない方がいいと思い、薄っすら海を浮かべた。

孝子は智香に抱き付いた。抱いた智香の感触も肌の温かさも・・・彼女が良く知るものだった・・・やっぱり、お姉ちゃんだ、と孝子は強く抱き締めた。


まだ、洋蔵との闘いは終わってはいなかった。

大伴智香の目は、孝子を抱きながらも明るくなった空に、はっきりと里中洋蔵を捕えていた。

暗黒の空はもう完全に消えていた。闘いがまだ終わっていない証拠は、洋蔵の形相は全く変わっていなかった。名古屋の厳しい明るさの下では、もう普通の顔に戻ってもいいはずなのに。洋蔵も、何処かで人として生活しているに違いないのである。

「これで終わりと思うな。俺とお前の宿命の闘い・・・その時がそこまで来たのだ。闘いはどちらかが消えてなくなるまで続くのだ。それが、俺とお前に与えられた宿命なのだ。よく考えることだ」

洋蔵の言葉に、智香は微かに頷いた。彼女はそんな自分に驚いた。

洋蔵の目が動いた。彼の視線の先には安部安貴がいた。何処かに離れて落ちた安貴は、まだ智香の傍にいて、見守っていた。

「お前が現れて、来るべき時が本当に来たと思ったよ。この時代にお前という人間がいるのは驚いたが、俺としてはもう完全に途絶えたと思っていたのだ。出て来てくれて嬉しく思っている。まあ、役者がそろったということだろう。それに、俺の知らない奴まで現れた」

洋蔵はこう言うと、口を歪め、空を見上げた。彼の視線の先には名古屋の真夏の空が広がっていた。しかし、そこには白い鳥はもういなかった。


南小四郎警部は洋蔵に対し、どういう態度をとったらいいのか戸惑い、迷っていた。自分は明らかに門外漢という印象は否めなかった。今の所、洋蔵が話す内容に興味を持って聞いているしかなかった。


「この近くに双竜王の珠がある。双竜王の珠が俺を呼んでいる。何処だ・・・」

洋蔵は自分の周りに注意を払った。大森六太郎が思いを込めた庭は、以前の面影はほとんど目にすることは出来なくなっていた。

「ここでは・・・ないのか?俺の気のせいか?いや、双竜王の珠は、今目覚めようとしている。俺の体には、その鼓動が響いてくる」

いや・・・洋蔵は意志を集中させた。そして、彼は自分を納得させた。

「ふ、ふっ。まあ、いい。必ず俺が手に入れてみせる。

こういうと、洋蔵は智香を睨んだ。

「我、宿命の相手、智香よ。お前に聞こえるか?双竜王の珠が目覚めようとする鼓動を。四百余年の時を経て、双竜王の珠は目覚め、新しい時間が動き始めようとしているのだ」

智香は一度首を振った。だが、すぐに止め、洋蔵の姿を捕え続けた。

「我、祖先よ。天なる父よ。地なる母よ。やっとその時が来たようです。俺があなた方の怨念を晴らして見せます」

洋蔵は天を仰ぎ、叫んだ。その次の瞬間、一筋の雲さえない空の一点が鋭く光り、閃光が走った。空全体が一瞬白くなり、光った。

「警部、何も見えません・・・」

小林刑事が目を押さえながら、懸命にもう一度空を見上げようとしていた。

南警部はすぐに反応出来なかった。彼は周りの状況に、完全に無防備になり、起こった状況を把握するのに時間が掛かってしまった。改めて今の状況を把握、確認し、視界がもとに戻った時には、洋蔵の姿は消えていた。おまけに、安部安貴もいなくなっていた。

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