ホワイトデー

清井 そら

ホワイトデー

 ここは日本の中心、東京駅。そして今日は3月14日。有名な菓子店には仕事が終わったサラリーマンが一列に並ぶ。黒服の集団が並ぶ様はさながらアリの行列のようで。かく言う私もありの一匹ではあるのだが、このアリの中では最も落ち着きのない部類だ。たかがホワイトデーでこんなにそわそわしたことは今までにないのではないかと思う。

 子供の誕生日がある二月と四月に挟まれた三月のこの行事は今まで事務的なものでしかなかった。妻が毎年2月14日に作ってくれるガトーショコラに対しての感謝以上の気持ちは存在しなかった。子供が家にまだいた頃は一緒にお返しを選んだりもしたが、巣立ってしまった今は付き合っていた頃から数えると28年連れ添った妻と二人きりでそんな盛り上がる行事でもない。子供の帰省のほうがよっぽど一大事だった。


 

 時計を眺めてニヤニヤする。

「遅い、遅い」

 今でいうホワイトな会社に勤めている夫はほとんど6時には出社して帰ってくる。残業と飲み会の時は決まって一文の連絡をよこしてくる。律儀に事務的な報告のみをあの人は送る。本当に根がクソ真面目な人。ホワイトデーは決まってしっかりお返しを持ち帰る。一度たりとも忘れたことがない。子供と一緒に買ってくる時は決まって子供が好きなお菓子を買わされてきて、疲れている時はコンビニで適当に済ませる時があるのも気がついている。近年はコンビニのお菓子ばっかりで飽きてきた。それでも忘れてくることはない態度は可愛げがないとしか思えなくなってきた。

 そんな夫が珍しく遅い。それも今日は残業の連絡も飲み会の連絡ももらっていない。

 ご飯食べるのを我慢して待っているのだから、いいお菓子を買ってくることを期待しても、期待が外れて機嫌を悪くすることも多少ならバチは当たらないと思う。



 今日の仕事は外回りだった。内容はあまりないもので、これから始めるプロジェクトを担当することになった後輩をよく見知った取引先に連れて行き挨拶回りに付き合う。私は円滑に進めるためにいるだけで、さほど役回りはない。明るく人を巻き込むのがうまい後輩だ、予想以上に話が長引いて、夕方を過ぎた頃に会社に戻らず帰宅していいと連絡があった。疲労が明らかに足にきている。年齢を痛感する。後輩は彼氏とデートだと言ってスキップするように帰って行った。その様子に違和感を覚えたが、パワフルな後輩のことだとさほど気に止めることもなかった。

 なんとなく喫茶店に寄って足を休めたら、最寄り駅から直帰しようと思っていた。調べて良さそうな喫茶店に向かう途中街並みに既視感があることに気がついた。数度しかきたことがないがここは妻に初めて出会った場所。もしかしてと思って向かった喫茶店は妻がバイトしていた喫茶店だった。内装はリフォームして店名も変わっていたから店の前に立つまでは気が付かなかった。 

 

 社会人になりたての頃、友人に会いにいつもの場所よりも少し足を伸ばしてみた。友人オススメの喫茶店があると連れ出され、ナポリタンを食えと言われた。ナポリタンとコーヒーが絶品だそうだ。しかし、ナポリタン以外の料理はそこそこだそうだ。押しの強い友人に引きずられるのは気が進まなかったが、ナポリタンには心惹かれた。

 その頃は、ろくに女性と付き合ったこともないくせに自立した性格のいい女性が理想だと、友人たちとの他愛もない話で豪語していた。それがかっこいいと思っていた。だからショックだった。注文を取りに来た店員にまさか一目惚れするなんて思っていなかった。秀でて美しかったわけでもないし、アイドルのように可愛らしかったわけでもない。ほどよく可愛らしくて、柔らかい表情がほの暗い店内を優しく照らすようだった。楽しみにしていたナポリタンの味は全く思い出せない。

 二週間と間を空けず喫茶店に再び向かい、嫌いなクソ真面目な自分をぶち壊して、連絡先を聞いた。元から辞める予定だったらしく、最初のデートの頃にはもうあの喫茶店でバイトをしていなかった。それからデートを重ね、押しまくって交際にこぎつけ、頼み込んで結婚した。

 

 店内の匂いはあの時のまま。匂いと記憶は直結しているというが、思い出すなんて生易しいものじゃなくフラッシュバックのように突然鮮明にあの頃の妻が見え、あの時の気持ちが蘇った。鳥肌が立つ。大事なことも28年間という時が流れてしまっては忘れてしまうものかと胸が絞られるように切なくなった。昔からずっと、大事な大事な恋女房だったのに。

 喫茶店でコーヒーを飲みながらウンウン唸って頭を抱えてやっと記憶の引き出しの隅っこに残っていた妻の好きなお菓子を思い出した。

 だから、私よりも10、20は若いだろう人々ばかり並んでいる列の一部となっている。居心地の悪さと、不安でどうも落ち着かない。こんな可愛らしいショップには並ぶのも初めてだ。噛まずにマカロンを注文できるだろうか?頑張らなくては。柄ではないが花でも添えよう。確か、妻はかすみ草が好きだった。それよりも妻は喜んでくれるだろうか?



  鍵を開ける音がした。あの人が帰って来たのだ。

「何を買ってきてくれたのかな?」

 ダイニングテーブルで頬杖をつきながら意図せず言葉が漏れた。夫までは届いていないだろう。なぜかウキウキする。付き合いたての頃みたいだ。夫がまだ彼氏だった頃、二歳年上の彼が緊張しながらも全力で愛してくれるのが嬉しくてたまらなかった。本当に幸せだったしそんな彼が大好きだった。結婚したら想いは風化するこも覚悟していたし緊張しっぱなしじゃ生活できないのもわかっていたけど寂しいのも事実だ。

「た、だいま」

 驚くことに、いつになく彼の声は緊張している。こんな声を聞いたのは第一子の妊娠をつげた時以来じゃなだろうか。変にこっちも緊張してしまった。

 「お、お帰りなさい」

  ダイニングまで無事に帰ってきてくれた夫の手元を見て笑みがこぼれる。このきもちは昔みたいだ。

「何よ。私の好みわかってるじゃない」

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