人間のエゴ

すでおに

人間のエゴ

 照明の落ちた動物園。夜行性の鳥の不意打ちのような羽ばたきや獣類の地を這うような咆哮が時折闇を揺らしたが、大方の動物は眠りについていた。


 物音に気付き、シマウマは目を覚ました。硬質な雨音のように細かく、それでいて確かな音。こっちへ向けて小石が投げ込まれていた。闇に目を凝らすと人影が手招きしている。


 老いたシマウマは眠りに戻ろうとしたが、小石を投げる手には勢いがついていた。音が大きくなったのは大きな石を選んでいるせいだ。どうにかしてをおびき寄せようとしている。


 眠りを妨げられたシマウマは止むを得ず身体を起こし、その方へ一歩ずつ近づいた。


「君をサバンナに帰してあげるよ。僕のところへおいで」 


 そこにいたのは昼間見た男だった。檻の外から憂いの目で見詰めていた男。しばらくじっと立ち止まったままだったから覚えている。表情に決意めいたものを浮かべているのが見て取れたが、こういうことだったのか。


 シマウマが煩わしそうに首を振ると、男はどうやったのか、錠を開けて檻の中に足を踏み入れた。


「この狭い檻から連れ出してあげる。君を助けに来たんだ」

 迷いのない眼差しで男はそう言って、迎え入れるように両腕を広げた。

「外にトラックを停めてある。君一頭なら十分に乗れる。狭いかもしれないけど少しの間の辛抱だから」


 シマウマは溜息を吐いた。それから男の心に直接語り掛けた。

『今は真夜中だ。静かに眠らせてくれんかね』


 確かに声が聴こえた。自分の想いが伝わったと知り、男は一層熱を込めて語り掛けた。

「いまがチャンスなんだ。アフリカへ行く船がとれたんだ。僕と一緒にサバンナへ帰ろう」


『言っている意味が分からないのだが』

 シマウマは咳ばらいをしてからそう言った。


「この窮屈な檻から解放してあげるっていってるんだよ」

 男は闇の中で目を輝かせている。


『窮屈な檻?』


「そうだよ。大草原に、サバンナに帰してあげるよ」


『ここがそんなに窮屈に見えるかね?』

 シマウマは首を左右に振って檻の面積を確かめた。この動物園では至って平均的な大きさで、決して広いとは言えないが一頭で独占しているのだから不自由は感じていなかった。


「当たり前じゃないか。今にも息が詰まりそうだよ」

 男も周りを囲む鉄柵に目を配った。


『ここを窮屈だという君は一体どんな部屋で暮らしているんだい?』


「僕が住んでいるのは普通のアパートだよ。6畳一間だけど、一人だから不満はない。だけど君はシマウマだ。広いところを思い切り駆け回りたいだろう?」


『私はすっかり年を取ってしまってね、そんな元気はもうないよ。君は駆け回るのが好きなのかね?』


「僕は運動が苦手だから平気だよ。だけどシマウマは走るのが仕事でしょう?」


『誰がそんなことを言ったんだ』

 シマウマは苦笑した。


「誰に聞いたわけじゃないけど。違うの?」


『老いぼれだからね。もう走るのはしんどいんだ。私もこの檻に不満はないよ』

 右の後ろ脚で、煙草をもみ消すように地面を擦った。

 

「でも狭い檻の中で、人目にさらされていたらストレスが溜まるでしょう」

 男が言った。檻の生活に不満がないことが不満そうに。


『多少のストレスはあるがね』


「でしょう」と男は頷いた。


『君にはストレスはないのかい?』


「そりゃあるよ。しがないサラリーマンだから。毎日ストレスの連続だよ」


『なぜ会社を辞めない?』


「生きていけないからだよ。人間社会ではお金がないと生活できないんだ。だから仕方なく働くんだよ」


『動物園の動物に限らず、ストレスを感じない生き物がいるのかな。人間は職場や学校、コミュニティで何かしらのストレスを受けるだろう?』


「でもサバンナを駆け回るのが動物本来の姿でしょう」


『満員電車に揺られて、会社でストレス漬けにされるのが人間本来の姿かね?』


「好きでやってるわけじゃない。そうするしかないからそうしているんだ」

 男は口を尖らせた。


『君はサバンナへ行ったことがあるのかい?』


「行ったことはないけど、テレビで観たことがある」


『どんな光景だった?』


「地平線まで大自然が広がる素晴らしい光景だった」


『それだけかい?動物はいなかったのかい?』


「もちろんいたよ。動物園では見られない野性の動物たちが生き生きと生息していた」


『本当に生き生きとしていたかね。君が観たのは、和気あいあいとした動物たちだったかな』


 男は言葉を詰まらせた。シマウマが食い殺されるシーンを思い出したからだ。逃げ惑うシマウマにライオンが喰らい付き、赤い血で口の周りを染めながらむしゃぶりついていた。


「目を覆いたくなるシーンもあったけど、自然の掟だから仕方ないでしょう?」


『野生の動物が野生の動物に食い殺される。その姿は自然で、美しかったかい?』


 返事はない。


『死にたい動物がどこにいる?喜んでライオンやチーターの餌食にされているとお思いか?全力で逃げる姿を見なかったかい?みな生きるのに必死なんだよ』


 男が何か言い掛けたが、シマウマは語を継いだ。


『ストレスは確かにある。しかしそれは人間も同じだ。会社へ行けば少なからずストレスを受ける。だからと言って会社を辞めないだろう。生きていくために我慢しなければならないことがある。動物も同じだ。ここでは人目にさらされるが、サバンナではいつ食い殺されるか分からない死と隣り合わせで生きているんだ。それがどんなストレスかおわかりか。

 ここにいればそれを抱えずにすむ。その上医療が整っておる。具合が悪ければ診察してもらえる。人間の知恵を動物に生かしてくれる。ここは恵まれた環境でもあるのだよ。


 それをぬるま湯と表現するかもしれないが、君はわざわざ熱湯につかりたいかね?人間は戦争のない時代が長く続くと平和ボケだという。しかしわざわざ命の危険にさらされる必要があるのかな。平和ボケ解消のために戦争を始めるべきかい?


 人間同士で殺し合い、多くの命をおとした。それが人類の歴史だ。それは正しかったのかな。100年前より兵器は進化し、殺戮はより容易くなった。しかしそれが人類の進化と言えるのかい?


 動物同士が殺し合うことが、そんなに自然で魅力的かな。弱肉強食の生存競争は人間の目には魅力的に映るのかい?シマウマが、キリンが、全力で逃げるのを追うライオンが人間の望む姿かい?

 疫病が流行れば我先にマスクを買い求める人間たちが、動物に何を求めているのだ。


「生きるていることは素晴らしい」人間がよく口にする言葉だ。生きるために最善の道を選ぶ。それが許されるのは人間だけかい?動物本来の姿とは何かね?』


 シマウマは空を見上げた。黄色い月が夜を照らしていた。


『私はここで天寿を全うし、飼育員に最期を看取ってもらうつもりだ。

 

 動物園の動物が可哀そうなど人間のエゴだよ』


 そういうと老シマウマは泰然と寝床へ戻り、横になって目を閉じた。


 男はツバを吐き捨てて檻を出て行った。遠くでトラックが走り去る音が聴こえた。夜明けはまだ先だった。

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