蒙古八千年記

時雨薫

蒙古八千年記

 『あなたの犬を留めてください』モンゴル語の会話集には決まってこんな文句が載っている。いつ使うのかと訝しむ人がほとんどだろう。これが存外よく使う。というのもあの広大なモンゴルの草原では番犬というものは大概放し飼いにされていて近づくものを見境なく襲うように躾けられているから。俺もちょうどその文句のお世話になったばかりだった。

 ずっと先に見える白い天幕から返事が帰ってくる。すぐに丸く太った男が出てきて灰色の犬を鎖に繋いだ。俺はそれを見届けてからやっと安心した心地で、しかし躊躇いなく足元まで寄って来る羊たちにいくらか辟易しながら、天幕へ近づくことができた。犬は灰色というよりむしろ銀だった。そして曇天の日の浜名湖のようにこころなしか蒼かった。俺はチンギス・ハーンの伝説を思い出していた。あの英雄が喩えられる蒼き狼はこんな色のことを指していたんじゃあるまいかと物の本で読んだことがあった。

「いい犬ですね。力強くて、狼みたいで」

 自然と口に出た心からの評価だった。ここの人々の間じゃ社交辞令として交わされる挨拶はもっぱら羊の肥えていることだとか馬の毛並みの美しさだとかへの称賛だから、俺の言葉はさぞかし外国人のそれらしく響いただろう。

「ああ、綺麗なもんだろう。こいつとは因縁浅からぬ仲でね」

犬の頭を撫でながら男は袖を捲くって俺に左腕を見せた。自慢するには深刻すぎる大きな傷の跡がある。

「入ってくれ。もてなしの準備をしてある」

 天幕の中はいくらか裕福な遊牧民の典型的な趣味で飾られていた。棚には細々とした、しかし馬の尻のように力強い曲線的な装飾が施されていたし、正面にはやはり韓国製のテレビとチンギス・ハーンの肖像がかけてあった。いままで訪れてきた何十の天幕と変わらない造りだ。焼いただけの羊や素人には何が何だかわからない手の込んだ料理が無数に饗された。ロシア製のウォッカを男が直々に俺のグラスへ注いだ。

「我々の悪い癖でな。商談の前に決まってお互い出来上がってしまうのさ。その方が腹を割って話せるという考えなんだろうが、近代的な価値観というやつに照らすと受け入れがたいものなのかもしれんな」

俺はウォッカを飲んだ。喉が焼けるような、きついアルコール。暴力的で自堕落なあたたかさに包まれた脳には羊肉の味と臭みがどうしようもない快楽として感じられる。浜松にいた頃の俺はどんなに金をかけたってこれだけの快さに身を委ねることはできそうになかった。俺は今野生の快楽の中にいる。

「羊20頭、確かに売ろう。しかしどうやって譲り渡す? トラックで運べる量ではないだろう」

「人と犬を用意してあります。朝に出れば俺の野営地まで問題なく運べる」

「お前は何をするんだ?」

男の顔が鬼のように赤くなっている。この土地の人間は皆怖いほどに酒を飲むが、決して強いわけではない。

「技術がないというのなら見て学ぶのも悪いことじゃないだろう。しかし、それではお前が逃げてきた退屈に呑まれるだけなんじゃないのか。お前はモンゴルへ渡ってきて独立して身を立てて、しかし結果は雇われる側から雇う側になっただけなんじゃないか?」

 天幕を出た頃にはもう日が暮れていた。屋内から漏れる明かりに照らされて犬の目が光った。

「また約束の日に会おう。こいつと首を長くして待ってるよ」

ええ、とだけ俺は答えた。羊を驚かせないよう丘を越えたところに停めてあったランクルのところまで歩いた。ひどく寒かった。車のエアコンをガンガンに効かせた。ラジオが退屈な民謡を拾っている。野営地までの40キロを俺は一人走った。途中で野生化した馬とぶつかりそうになった。馬はいなないて去った。毛並みが美しかったから野生になってまだ一代目かもしれない。主人を捨てた身なのだろう。

 翌日から俺は人の手配に奔走していた。あらかじめ頼んでおいた二人のうち片方は連絡がつかなくなりもう一人は落馬して骨を折ったからだ。モンゴルの草原に半自給自足の俺の国を建てて観光客からの収入で食っていこうなどと夢を見たことが馬鹿らしくなってくる。あまりに情けない。どこで話を聞きつけたのか知らないがウランバートルに住む金森という日本人が声をかけてきた。羊の移動をただでやってやる代わりにお前の俺様ランドのスタッフとして無期限で雇えという話だ。裏の有りそうな男だとは思ったが、頼んだ。どのみち現地事情に通じたスタッフは必要になるはずだったから。

 約束の日が来た。俺はまた丘の上から天幕へ向かって例の文句を叫んだ。

「古いやり方ですね」金森が言った。

「今じゃみんな携帯で済ませてしまいますよ」

金森の手際の良さは惚れ惚れするほどだった。20頭の羊を一人で完全に統率している。ただ、あの犬が金森にだけ猛烈に吠えることは奇妙だった。

「客人とわかればいつもは大人しくするものなんだけどな」男が言う。

「賢い子なんですよ。よく敵を見分けている」金森が言った。

彼は野営地へ向かって進み始めた。俺は車に乗り込んでその後をゆっくりと追った。途中で駅のある小さな街の横を通りかかった。俺はそこの商店でコーラと安いパンを買って馬上の金森に手渡した。相手の好みがわからないときにはこれらを買うのが礼儀だと思っていた。

「あの犬が敵を見分けたってどういう意味なんだ?」

「中国にいた頃に犬料理を盛んに食べましてね。それ以来、勘のいい犬には吠えられるんです」

金森は袖をまくって左腕の傷跡を見せた。

「昔噛まれました。私は犬という種から恨まれているらしい」

羊たちは夕日が沈む前に俺様ランドの柵の中にすっかり収まった。

「それに比べて羊ってのは従順だ。俺はどれほど羊肉を食べてきたかわからないってのに」

「愚鈍なだけですよ」金森が言う。

「飲んでいかないか? いいウォッカがあるんだ」

金森は辞退した。彼は馬を小屋へ帰し、馬鹿でかいバイクに乗り換えて去った。俺は彼を呆然と見送った。

 羊を売った男から連絡があった。今度競馬を催すことになったから日本人代表を立ててくれというのだ。俺は金森に電話をかけた。快諾だった。「勝負事は心地よいですから」電話の向こうで金森がどんな顔をしているのか俺にはとんと想像できなかった。

 金森はアディダスのジャージにプロテクターを着けただけの格好で現れた。あまりに貧相だからと例の男が金森にモンゴルらしい帽子をかぶせた。時刻が来て馬たちが一斉に駆け出した。彼らはすぐごま粒ほどの大きさになり、やがて消えた。この草原では競馬といえば何十キロも駆けるものだ。伴走する車両からの映像がテントの中に設置されたディスプレイへ映し出された。馬たちは隙間なく密集して土煙をあげながら走っている。その中に金森もいた。酒と料理が次々に並べられた。半径50キロメートル中の子どもたちが集まっていて互いにつつきあったり骨つき肉にかじりついたりしている。正月の駅伝みたいだった。俺もビールを勧められて飲んだ。

 テントからいくらか離れたところで大人たちが煙草を吸いながら世間話をしていた。俺と金森を呼んだ男はその中にいて犬を撫でている。俺は犬が煙草の煙に耐えられるのか心配になった。退屈を催したのだろう。男は俺の横にかけた。親父の匂いがした。同じ煙草がモンゴルで手に入るはずないのに。

「あの金森ってのはいい騎手だね。あれほどの奴はこの土地にもそうそういるもんじゃない。良い友達を持ったな」

「実のところ、友達と言える仲なのかはわからないんです」

「じゃあ雇ったのか」

「今はまだ」

男が料理に手を伸ばした。俺は男に新しいビールを手渡した。

「あいつ、こないだあなたの犬に吠えられてたじゃないですか。中国で犬料理を食べてから知らない犬に吠えられるようになったらしいんですよ」

「同族の仇か。なるほどな」

男がビールを開けた。一口で半分ほど飲んでしまう。

「実のところ俺もこの子の仇なのさ」

いつの間にか犬が俺と男の間に座っていた。

「8年前の冬に俺の天幕が狼の母子に襲われたことがあったんだ。俺は外で料理のために火を焚いていて、奴らがすぐ近くに来るまでその姿に気づかなかった」

男が犬の背を撫でる。俺は男の左腕の傷を思い出していた。

「冬だからな。よほど飢えていたのだろう。火を恐れずに母親が俺の腕へ飛びかかった。きつく噛み付いて離れなかった。俺はそいつを追い払おうとしてのたうち回った。狼の体は悲しいほど軽かった」

男が袖を捲くった。

「その時の傷だよ。執念だな。少しも消えそうにないんだ。俺は鉈を狼の腹へ突き立てた。血が地面を濡らして狼が絶命するまでにさほど時間はかからなかった。それで、そのときの子供がこいつってわけだ。時々怖くなるよ。こいつは俺の傷を見つめて動かなくなることがあってな」

俺は狼を見た。尻尾こそ振っているが、その目は男の傷を凝視していて微動だにしない。狼にも無意識があるのかもしれないと思った。それはあまりに恐ろしい考えで、俺はすぐに酒を飲まなければならないほどだったが。

 ディスプレイの前で歓声が上がった。先頭集団が折り返し地点を迎えていた。金森は三位につけている。彼は微笑んでいた。

「翌朝、母親の死骸を埋めているときにこいつが現れて母親と同じ穴に埋まろうとしたんだよ。俺は何度も掬い上げたんだが、こいつはしつこくてな。俺は腕の中でもがくこいつに愛着が湧いてしまった」

「すぐ懐いたんですか?」

「懐いたのだか屈服したのだか、わからんね」

薄暗くなろうとする頃になって馬たちが帰ってきた。一位は金森だ。

 冬が来た。冬のモンゴルは途方もなく寂しい。夏の草原は荒涼な大地に変わり、肌を突き刺す風が吹きすさぶ。パチパチと薪の燃える心地よい音がする中で、俺様ランドの計画は大詰めに入っていた。骨折男の怪我が治り労働力が一人増えた。日本の旅行代理店との話もついた。馬も羊たちも健康だ。春には開園したての俺様ランドへツアー客が押し寄せるだろう。俺は満腹感のような心地よさの中にいた。

 深夜に電話が鳴り響いた。例の男の妻からだった。旦那が重傷で車が必要だという。コートを着て天幕を出た。ひどい吹雪だった。単眼のヘッドライトがものすごい勢いで丘を越えてきて俺の前で止まった。運転手がヘルメットのバイザーを上げた。金森だった。

「人手がいるでしょうから」

助手席に金森を乗せて走った。ホワイトアウトしても車を止めなかった。ぶつかるものといえば動物しかないし、それらの大部分はランクルで吹き飛ばせるから。経験したことのない精神状態だった。時速180キロメートルという速度が魂を張り詰めさせた。俺は窓の外に蒼く光る獣たちを見た。そいつらはしだいに狼の形をとっていった。俺は彼らと並走していた。

「見るな!」金森が叫んだ。

「引き込まれますよ。引き込まれれば戻ってはこられない」

天幕が見えた。俺はアクセルから足を離した。

 男の妻はほとんど言葉が通じないくらいに動転していた。俺と金森は天幕に押し入った。寝台の上で肉塊が干されている。それが男だった。腕がちぎれ、骨が露出し、腹が食い破られて腸を引きずり出されている。それでもまだ鼓動に合わせて血が湧き出ていた。金森が携帯の明かりを男の目に当てた。

「残念ながら」

金森は手を合わせて念仏を唱えた。男の妻が崩れ落ちた。

 金森が屈みこんで寝台の下に手を伸ばした。男のライフルと弾があった。金森は慣れた動作で弾を込めた。

「どいてください」

彼はそう言って俺へ銃口を向けた。俺は身をそらす。天幕の入り口の前、明かりが漏れるところに狼がいた。狼は吹雪に打たれている。口が赤黒く染まっていた。

「殺すのか?」

俺は金森に聞いた。金森は撃鉄を起こし、撃った。血が噴き出し、狼が倒れた。俺は生暖かい狼の血を全身に浴びた。

 俺は狼に駆け寄った。蒼い狼がまとっていた痛いほどに厳しいオーラはあっという間に空気に希釈されていった。狼はもう灰色の土と区別がつかなくなった。遠吠えが聞こえて俺は顔を上げた。丘の上に蒼く光る獣が三匹いた。金森が天幕から駆け出し三発の銃弾で答えた。光る影は泰然と俺たちを見つめ続け、丘の向こうへ去った。

「これが大地ですよ」金森が言った。

「そしてこれが呪い。私はまた呪いを解きそこなった」

吹雪がまた一層強くなった。狼の血の匂いが俺の鼻腔を突いた。

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