佐木崎小学校5年2組啓示係の受難

@uboakun

A

 夢を見た。

 気が付けば、僕は真っ白い空間の中にぼおっと突っ立っていた。うまく体が動かない。僕の体はまるで芯まで湿気ってしまったかのように、物凄く重たくなっていた。特に頭は湿気に酷くやられてしまったようで、意識は靄がかかったようになって複雑な思考は出来そうにない。

 この時点では、僕はこれが夢であることに気が付いていなかった。目の前に広がる景色が、明らかに現実離れしていたにも関わらず。

 白い。この世界は、ぐるりとどこを見渡しても真っ白い。光源は見当たらなかったが、不思議と暖かな光が世界を包んでいてとても心地よく感じる。

 自分の体を見下げると、僕は寝た時のままの姿でここにいるようで、くたびれたTシャツとよれよれの薄いズボン、それと今朝爪を切り損ねた素足が見えた。不思議なことに、周りがこんなにも明るいというのに僕の足元に僕の影は無い。

 さて、ここは一体どこだろうか。僕の生涯を振り返ってみてもこんなに白くて明るい変な場所には覚えが無い。まさか天国ではあるまいな、という考えがよぎったが、別に僕はこれまでそんな大層な善行を積んだ訳でもない。どちらかと言うと、賽の河原で黙々と石を積んでいるのがお似合いだ。

 ひと月ほど前に、山本くんの作っていたトランプタワーが四段目に達したところで、盛大に倒してやったということがあったなあ、というところまで僕の思考が遡り、まさかあれが原因ではなかろうかと考え出したとき、僕の眼前に一人の女の人が現れた。

 そこで、僕はこれが夢だということに気が付いた。現れたその女の人が、あまりに綺麗だったからだ。おおよそ現実のものとは思えない。夢なのだから当然かもしれなかった。

 僕がその美貌に呆気に取られているのも気にせずに、女はその薄く紅が塗られた口を柔らかく動かした。


「おはようございます」


 鈴を転がすような声とは、このような声のことを言うのだろうと思った。それ程までに、彼女の声はこの白い空間に似つかわしく澄んで響く。


「おはようございます」


 何度も繰り返してきた学校での習慣からか、意外にもするりと口から言葉は出た。その後に、おはようございますという挨拶は適切なのだろうかと思い至った。これは夢で、僕は寝ているのだ。しかし、寝ている時に使う挨拶というのは聞いたことがなかったので、ひとまずおはようございますで納得しておく。

 女の人は僕の返事を聞いて満足気に頷くと、言葉を続けた。


「突然の来訪御容赦ください。あまり時間が残されていないので手短にお話ししますが、実は、私は、神なのです」


 自分で言うのもなんだが、僕はそこそこ賢い子供である。サンタクロース幻想を捨てるのとどちらが先だったかは知らないが、神様なんてまともには信じていない。正月には神社にお参りするし、クリスマスにはケンタッキー食ってはしゃぐし、大晦日には除夜の鐘を聞きつつガキ使を見たのは記憶に新しい。神に祈った記憶なんて、授業中に強烈な腹痛に襲われた時くらいしかない。

 ともかく、僕は目の前の女の言葉を盲目的に信じられるほど子供でなかったのだ。


「なるほど、凄いですね」


 僕は賢い子供らしく返答した。それは確か、何かのテレビ番組で得た知識を持ち出した結果だった。おかしなことを言う人間に対して、それを否定するのは危険であるという。

 僕が彼女を病気扱いしているのを知ってか知らずか、女は静かに微笑みをうかべて、


「はい、凄いのです」と言った。

「それで、その凄い人が、僕に何の用ですか?」


 僕がそう訊くと、神を名乗る女は笑みをただちに打ち消して、きわめて神妙な顔をして言った。


「私はあなたに啓示を授けるために来たのです」




 ★




「カリフにでもなるつもりなの?」


 僕の幼い頃からの友人であるKはそう言って笑った。


「君はムハンマドの血筋ではないだろうから、必然的にスンニ派ってことになるだろうね。今は風当たりが強くて、安定した職業とは言えないよ? 大丈夫?」


 Kは賢い子供だ。僕よりはるかに。僕が九九の七の段で苦戦していた時には、既に彼女はインド式で二十の段まで覚えていたし、僕がアルファベットをマスターした頃、彼女はドイツ語の名詞の性・数・格を理解していた。多分脳みその構造から違う。ゆえにか、僕と彼女は長い付き合いではあったが、時折話が通じないことがあった。今がまさにそうだった。


「笑い話じゃないんだよ僕からしたら。祖先ならともかく、神を名乗る不審者に夢枕に立たれたんだ」

「でも、綺麗な女の人だったんでしょ?」


 Kはそう言って唇を歪める。僕はKのその表情に、若干の落ち着かなさを覚えた。

 奇妙な沈黙があった。休み時間の教室はそれなりに賑やかで、完全に無音という訳では無いのだが、ひどく居心地の悪さを感じる。


「……なにが言いたいのさ」


 耐えきれず僕は訊いた。


「欲求不満なんじゃない?」


 フロイトじゃないけどさ、と彼女は続けた。僕にはよく意味がわからなかったのでとりあえず、


「さあね」とだけ答える。

「まあ全部を欲求不満に繋げるのは乱暴だと思うけど、深層心理が表層に現れているってのは、まあ有り得ることだと思うよ」


 Kはくつくつと押し殺すように笑った。それが何だか気に入らなかったので僕は少し声を張って、


「それで僕は夢の中で神様に会ってね、啓示を授かったんだ」

「掲示係だけに?」


 Kは面白がるのを隠そうともせずに言った。

 掲示係とは、ここ佐木崎小学校の各クラスから漏れなく一名ずつ選出される、名誉ある役職である。このポストに就いたものは、教室前部、及び後部の壁に張り出される掲示物のうち、掲示期限を過ぎたものについては排除する権限を持ち、また上部(担任)からの指示に従い新たな掲示物を掲出する業務に就くことになる。

 要は雑用係だ。今年度、僕はその当番に割り当てられていた。


「……しょーもな」


 僕は吐き捨てるように言った。それはKの冗談に対してでもあったし、掲示係の役割に対してでもある。


「本当にね……一年生のときを覚えているかい?」


 Kはもはや笑いを堪えきれないといった様子で言う。

 もちろん覚えていた。できれば忘れたかったけれど。

 一年生のときも、僕は掲示係に任命されていた。それも、その時に関しては自ら進んで立候補した。その動機というのが、それ以来ずっと笑い草になって僕の行く先にぼうぼうと茂っている。


「君は、掲示係の『ケイジ』を、デカの方の刑事だと、思ってたんだよねえ……! アハハ……」笑い草を茂らせながらKは続ける。「落し物を探すとか探偵まがいのこともしてたし、いやそりゃ刑事も探偵もディテクティブだけどさあ……! それに、いじめっ子を学級裁判で追及とかもしてたよね……それ刑事じゃなくて検事の仕事だし! それに、物の貸し借りで揉めた時に仲裁もしてたしさあ……それは刑事じゃなくて民事だよね……くく……アーハッハ」


 僕の心はもはやペンペン草一本すら生えないほど痛めつけられていた。


「あー笑った……それで、次は啓示だって? 面白すぎるよ、君ってほんと」

「……ほんとなんだぞ」

「信じる信じる。まあ君はそんな意味の無い嘘をつく人間じゃあないからね」


 Kは目元を拭うような仕草をすると、満を持してといった感じでこちらに顔を寄せた。


「それで、啓示だっけ。何を言われたの?」

「そう、それがちょっと……あれなんだよ」

「あれって?」

「よく覚えていないんだ」


 僕がそう言うと、彼女は頭をがくりと揺らした。


「なんじゃそりゃ」

「しょうがないだろ、夢なんだから。でも、全く覚えていないってわけでもない」


 彼女は僕の話を促すように、あごを軽くしゃくる。僕は夢の内容を思い返しつつ、それを出力していく。


「給食の話なんだ。今日の給食に問題があるって話だった」

「なに。今日の献立のビーフカレーをポークカレーに変えろ、とか。まさか、コッペパンと一緒にワインも出せ、とかじゃないだろうね?」

「毒なんだ」

「え」

「給食に毒が入っている、って話だったと思う」


 周りの喧騒が少しその温度を下げたような気がした。Kもその寒気に当てられたのか、先程までやや赤らんでいた頬は血の気が少し薄くなったように見えた。


「何だか予想以上に物騒な話だった」Kは姿勢を正してこちらに向き直る。「毒って……どんな?」

「分からない。覚えてない。ただ、口にしてはいけないと言われたんだ」

「ふうん……今日の献立は何だったかな。カレーだよね?」

「そこに掲示してあるよ」


 僕は黒板の左横のスペースを指し示す。そこには一ヶ月分の給食の献立とその栄養成分のリストが画鋲で貼り付けられていた。僕が今月頭に掲示したものだった。


「確か、今日はカレーと麦ご飯とサラダだったはず」

「じゃあ、毒が入れられているとしたらカレーだろうね」


 Kは当然そうだろうという風に言った。僕もしばらく考えて、確かにそうだと思い至る。


「確かに、カレーを残すやつなんていないだろうからね。毒を入れるやつがたくさんの人を殺したいのなら、残されにくいものに入れるはずだ」


 僕が言うとKは意外そうな顔をして、

「そういう考えもあるのか」と言った。

「Kはなんでカレーだと思ったの?」

「カレーは色が濃いだろう? それに味も濃い。だから毒を入れるならそれかなって」


 それもそうだった。しかし彼女は僕の意見の方に感心したようで、しきりになるほどなあと頷いていた。


「でもまあそれは誰かが故意に毒を入れた場合だよね。事故で混入する場合もあるだろうし、食中毒ってのもある。サラダなんていかにも食中毒が起きそうだし、案外そっちかもしれない」

「それで、僕はどうすればいいと思う?」


 僕が言うと、Kは意外そうにこちらを見つめ返した。


「どうって、給食を食べなければいいんじゃない?」

「違うよ。掲示係として、僕はこの情報をみんなに提示するべきなのかな?」

「給食に毒が入っているから食べるなって?」


 僕が頷くと、Kは少し考えるような仕草を見せて、


「もし実行したら大顰蹙を食らうだろうね」


 この学校の生徒を対象にカレーについてのアンケートを実行すれば、この学校には大きく分けて二種類の生徒がいることが明らかになるだろう。カレーが好きな生徒と、カレーが好きな嘘つきだ。

 僕はカレーが嫌いな子供というのを聞いたことがない。少なくとも周りにはいない。もしカレーを食べてはいけないなどとのたまおうものなら、僕は異端者として告発され、直ちにクラスの連中に寄って集って棒で叩かれ石を投げられ、しまいには黒板に磔にされて、三日三晩ののち死体は見せしめとして給食センターの前に晒されることになるだろう。

 僕がそんな想像をして背筋を凍らせていると、Kがクスクスと笑う。僕が半ば睨むようにして視線を向けると、Kはいかにも面白そうな顔で言った。


「そんなに顔を真っ青にして、どうしたんだいほんと」

「真っ青にもなるさ。僕は異端審問にかけられることになるんだぞ」

「おかしなことを言うなあ。そもそも、君は神を信じていないんだろう? それなのに、なぜその『啓示』とやらをそうも盲目的に信じているんだい?」


 それもそうだった。なぜ僕はこうも啓示が真実であることを疑わないのだろう。僕にはどうも、この啓示が真に迫ったものであったように思えてならないのだ。


「それにね、いいかい。啓示というには君の言うそれはあまりにも俗過ぎるんだよ」Kは僕を諭すように続ける。「啓示というのは、真理だとか人には知り得ない知識とかを神が授けてくれることを言うんだ。君のそれはただの危険予知だ。そして、そういうのをなんて言うか知ってるかい?」


 僕が頭を振ると、Kは言った。


「虫の知らせさ。言っとくけど、寄生虫ってわけじゃないからね」




 ★




 その日の夜。僕はやはりあの空間で目を覚ました。暖かな光に包まれた、不思議な世界。僕はその中に神様を見つけた。


「おはようございます」


 結局、寝ている時に使う挨拶は分からなかったのでそう声を掛ける。神様はそれに応えてどこか申し訳なさそうに微笑んだ。


「おはようございます。散々でしたね」

「昨日の『啓示』はあれのことを言っていたんですね」

「所詮夢ですからね。あなたが啓示を正確に覚えていられないかもしれないということを考えていなかった、私のミスです」

「一部分は覚えていたんですよ。給食の中に僕が食べられないものがあるってことは、なんとなく記憶に残っていました」

「だからあなたはそれを、給食の中に毒が入っていると解釈してしまったんですね」

「まあそこまで間違っていなかったわけですが……」


 結論から言うと、僕はあの後腹を壊して五時間目の授業中ずっとトイレに籠り切りだった。結局給食にはほとんど口を付けなかったというのに。唯一口にしたのは、牛乳だった。

 K曰く、僕は乳糖不耐症という体質かもしれないらしい。牛乳の成分を消化する酵素が普通の人よりも分泌されにくいので、牛乳を飲むと消化不良を起こすとかなんとか。


「神様が言ったのは、牛乳を飲むなってことだったんですね」

「ええ。あなたは牛乳を飲むとお腹を壊します。今まで気付いていなかったようですが」

「給食の度に毎回お腹を壊すわけではなかったですから……」

「あなたは昨日薄着で寝て、体調が良くなかった。そんな状態で牛乳を飲んだのですから、お腹を壊すのも当然です」


 これから先、僕が給食の牛乳を飲むことは無いだろう。Kが「いらないなら私にちょうだい」と言うので彼女にあげるつもりでいる。


「ところで、何故神様は僕を助けようとしてくれたんですか。こうして夢にまで出てきて。僕は神様なんて信じていないのに」 

「いえ、あなたは立派な私の信者ですよ。昨日も、あんなに熱心に祈ってくれたじゃありませんか」

「え?」

「『ああ神様、どうかこの腹痛を治めてください。もう悪いことなんてしませんから』でしたっけ。ちゃんと神様は聞いていましたよ」

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