神様のいない場所
泉宮糾一
神様のいない場所
抜けるような空の青と、眼下に広がる灰色。高台からの眺望はその二色だった。陸地のうち、残骸が残っているのは一部分だけだ。護岸は真新しいコンクリートで固められ、路上には草花も芽吹いている。決して一色では無いはずなのに、全体の色合いは灰色の濃淡のように感じられた。
高台から海までは距離があった。階段は残っているから、伝って降りて近づくこともできた。しかし、降りてすぐのところに寺があり、大勢の墓が並んでいるのが見て取れて、その気も削がれた。軽薄にも撮ってしまったスマホの写真を削除すると、私を呼ぶ声がした。
「休憩時間は終わりです。バスにお戻りください」
僕と同じバスの乗客たちが戻ってくる。全員が災害ボランティアに参加した民間人だ。
バスの指定座席に座る。話し声はあまり聞こえない。夜通しで走ってきた車内の中には、まだ寝息を立てている者もいた。
*
二○一一年三月に、東北地方を中心とする大規模な地震が起きた。
当時の僕は東京にある私立の大学に通っていた。参加しているゼミの教授に、本来は学期中に仕上げるはずだったレポートを提出し終えて、解放された気持ちで正門から外に出たところで地面が揺れた。交通網は麻痺してしまい、他県からの通学生だった僕は帰るに帰れなくなり、大学の体育館で一夜を過ごすことになった。大学の事務局が用意してくれた毛布は避難人数に少し足らなかった。しかしむしろ人が多かったおかげか、時期の割に寒さは感じなかった。
あのときの動揺した空気や、非日常に対する興奮を、五年経った今でも憶えている人はどれくらいいるのだろう。それが悪いと言いたいわけじゃない。できることなら忘れた方が良い。それが普通の人の感覚だと思う。僕のように、忘れられない理由がなければ前を向いた方が良い。
春休みを故郷で過ごすと僕に伝えてくれたときの諒子は喜色ばんでいた。
僕と同学年だった彼女は、岩手の沿岸部の街から上京してきていた。東京での暮らしにずっと憧れていて、その憧れがほとんど削がれないまま一年を過ごせたらしかった。家族と話したいことが山ほど積もっていたのだろう。
「でもね、東京の大学を選んだとき、あまり親からいい顔はされてなかったんだよ。それで入試が終わってからもギクシャクしちゃってた。でも、夏休みに電話で話したときはだいぶ落ち着いていた。だからこの春休み中に仲直りする予定なんだ」
大学通りの沿道でマフラーに顔を埋めながら話す、その横顔をもっと見ておきたかった。それはたった一年しか見られなかった景色であり、一年しか聞けなかった声色だった。
「上手く行くと良いね」
「ありがと」
彼女の願いや僕の祈りがどれほど通じたのか、結果はわからなかった。三月半ばに彼女の誕生日があり、その日には全部連絡してくれると思って、僕は地震の当日まで気長に待ってしまった。
「大震災なんて誰にだって予測できない」
当時、僕の周りにいた友人たちはそう慰めてくれた。それを聞く度に僕は頷いていた。理解していたつもりでいたけれど、本当は全く聞き受けられていなかった。僕の脳裏には常に諒子が浮かんでいた。少しでも薄れている気がしたら、歯を食いしばって、諒子のこと以外は考えないようにした。彼女を忘れないことが僕にできる唯一のことだと信じていた。
*
今回のボランティアに参加したきっかけは、職場の掲示板にあった復興支援ボランティアの募集のポスターだった。主催は近所にある大学の社会福祉学部の教授であり、学生向けの告知のようだったが、社会人からの参加者も募集していた。
僕は学生時代にも一度、ボランティアに参加したことがあった。そのときは、同世代の大学生たちが大勢参加していた。そのうち、面接で話せるネタ探しに来た人は、就活が始まるとぱったりと来なくなった。それでもやる気を持って臨んでくれただけまだ良心的な方だ。中には参加途中からやる気を無くす人さえもいた。そのような人たちを前にすると、僕は動悸が速くなった。大事になってしまう前に、自分からは近寄らないようにしていた。
今回のボランティアの事前講演会では、主催者の大学教授が熱意を露わにしていた。
「このボランティアは一週間のプログラムであり、この日数は他の先進国のボランティアに比べたら遥かに少ないのです」
その後は、労働等に拘束されるこの国で奉仕の精神を根付かせるのがいかに大変かについての話に繋がる。参加者の学生たちの顔は見えないが、あの熱意を素直に受け止めて感化されるほど純粋な人はどれくらいいたのだろうと気になってしまった。
「高台のお陰で、街は守られたとも言えます。しかし、海岸沿いにも確かに生活はあったのです」
ガイドの人が黙祷を促し、乗客たちが嘆息を漏らし、僕も追従した。
高台から海岸線までに広がっていた街並みを僕は知らない。どれほどの人が亡くなったのか、データや画像を参照することはできるけれど、そこで暮らしていた人たちのことも、生活様式のことも知らない。僕は目を閉じ、慣れ親しんだ諒子の輪郭をたどった。
学生時代のボランティアは、瓦礫の撤去作業が主だった。あとで知ったことだけど、民間のボランティアが参加する撤去作業は震災から一年後には概ね終了したらしい。それ以降は、重機でないと片付けられない大がかりな障害物の撤去が、街造りと並行して行われていった。
片付けるだけでは、元の景色は戻らない。崩落した川や海沿いに護岸工事をし、ひび割れた道にアスファルトを敷き、作った道路で重機を運搬する。それらの計画的街造りがプロの手によって施工されていく傍らで、民間のボランティアに求められたのは、現地の人たちが日常生活から再び心離れないように寄り添うことだった。
バスは僕らをとある仮設住宅に運んだ。仮設いう字面からは脆弱な印象を受けるけれど、そこはごく普通の、鉄筋コンクリート造のアパートにしか見えなかった。
ボランティアは僕を含めた社会人の班と学生の班に分かれた。社会人班は支援物資の仕分けや町内のイベントの準備に携わった。ゴミ回収、食事会、新設されたばかりの公民館でのスポーツ活動。それらのイベントの全てには、当日関わることはできない。たとえ準備の途中でも、活動の最終日が来たら、あとは後続のボランティアたちに受け継ぐことになる。
たった一週間といっても、やることは多い。「無理のないように」と、ボランティア講習会でもよく聞いた言葉を思い出す。支援に終わりはない。一気にやろうとして疲れてしまったら元も子もない。
業務の合間には、ラウンジに向かった。そこでは学生班が、子どもたち相手に遊びや勉強会を開いていた。大学主催ではあるが、今回のボランティアでは学生の参加者が少ないらしく、気がついたら僕も彼らの活動を手伝うようになっていた。
子どもたち、特に未就学児ともなると、ほとんど全員が明るい顔をしていた。あの震災のことを覚えていない子や、当時まだ生まれていない子なども混ざっていた。
あるとき、僕は手のひらにおさまるくらいのゴムボールを壁に向かって投げた。それに向かって子どもたちが飛び込んで、僕に向かって投げ返す。笑い声がラウンジに響き渡る。手加減をしながら、取りに行くのが難しくないように調整して、何度もゴムボールを往復させた。
「子どもがお好きなんですか?」
とある女子大生に話しかけられて、ゴムボールを止めた。子どもたちが不満顔だったので、積み木で遊んでいる子の方へ向けて、ボールを転がしておいた。あとは上手く混ざり合うだろう。
「保育士を目指していた人が近くにいて、その人に教えてもらったんです。子どもたちと触れ合うコツ」
「コツ?」
「余計なことをなにひとつ考えないようにすること」
女子大生は笑ってくれた。帰りのバスに乗る前に、その女子大生と目が合い、軽い会話を交わすことができた。
「ボランティアをするの、初めてだったんです。想像していたのと違っていて、案外楽しかったなあ」
感慨に耽る彼女の顔は平和そのものだった。その人は友達に呼ばれて、手を振って去って行った。僕はそれを見届けて、誰にも気づかれないように、小さな溜め息をついた。
学生時代のボランティアは、外での作業が中心だった。今回のボランティアも、街を出歩く機会はあった。しかし、僕の想像していたよりもずっと、街は綺麗に整備されていた。
僕はずっと諒子を探していた。彼女の遺体は未だに見つかっていない。珍しいことではない。あの地震から五年が経過した今になっても、死者数よりも行方不明者数の方がずっと多かった。失踪した人について、それが地震など災害の影響と考えられる場合、一年の経過を条件として、申告に基づいて死亡したという扱いできる。それが法的に安定した取り扱いだとされている。
諒子の遺体が残っているとは考えにくい。そんなことはわかりきっていて、それでも僕は未だに彼女を探していた。あの地震の傷痕を払拭しようと、整えられた街並みには、彼女がいるとは思えなかった。
*
僕と彼女は大学で同じ学部に所属していた。名前は入学当初から知っていたけれど、個人的な連絡を交わすようになったのは夏に差し掛かった頃だった。付き合いがいつから始まっていたのかははっきりしない。僕は夏休み中に初めて電話をしたときからだと思っていたし、彼女はその電話のやり取りが数回続いた後に、二人で吉祥寺の自然公園の公孫樹並木を歩いたときだと思っていたらしかった。
諒子はスマートフォンでの写真撮影を趣味にしていた。後の流行語大賞に繋がる写真アプリがリリースされる前だったので、時代を先取りしていたとも言える。秋の写真を撮りたいという彼女の漠然とした願い事に、僕はふらふらとついていった。到着してからも気ままに歩いた。徐々に話すことがなくなって、落ち葉を踏みしめる足音だけが淡々と響くようになっても、気まずいとは思わなかった。
スワンボートで有名な池が夕暮れに照らされて、諒子がいくつもシャッターを切った。それで満足した彼女は、僕をつれて駅へと向かった。
「いいお土産ができたよ」
そういいながら、諒子は指にはめたリングを擦っていた。
多分違法だったのだろうけれど、園内に小さな露天があり、リングはそこで購入した。彼女が自分のお金で買ったものだった。
「ぴったりなのって、すごくない? これは奇跡だよ」
諒子は歯を見せて笑っていた。
「奇跡の無駄遣いだな」
素っ気なさ過ぎたことを今さらになって悔やむ。
彼女はそのリングをずっとはめていた。その姿を見ているうちに、僕は自分がそのリングを買ったかのような錯覚を抱きそうになって、それを伝えると、彼女は口を尖らせた。
「それは別に買って」
それ以来、露天で売られるのとは違う、格調高い指輪を買うにはいくら必要なのか、僕は調べるようになった。その頃には僕は諒子とつきあっていることを疑わなくなっていたし、彼女も同じだったと思う。
格調高い指輪は結局買えなかった。岩手へと帰省する前に、駅までの見送りを頼んできたときも、彼女はあの公園のリングをはめていた。
それは二月下旬の、まだ寒さの残っていた時期だった。諒子はお気に入りの赤とオレンジの縞模様のマフラーをふわりと巻き、僕の横を歩いていた。夜のうちにうっすら積もった雪は、日中には溶けると予報されていた。刻まれていく僕らの足跡はとても薄かった。彼女がまったくよろけなかったのは、出身地のためだったのだろう。何度も思い返さなければ、気づきもしなかったと思う。
「またね」
最期の言葉は短かった。もしもそこで黒猫が横切ったり、靴紐が切れたりしたら、劇的だったのかもしれないが、諒子のスニーカーは新品だったし、猫の声さえもしなかった。僕は彼女に手を振り、駅はいつものアナウンスを流していた。平凡な日常だった。その平凡さを疑いようもなかった。彼女と歩いたあの道は今日までに、アスファルトが何度か塗り直されている。
*
震災の遺失物は、市町村の役所に届けられる。そこでは遺失物の形態や発見時の様子、誰が届けて誰に渡したかということが記録されていた。
遺失物管理担当者の前に、僕は度々足を運んだ。震災の直後のボランティアでも、五年後のあのときも、そしてさらに五年後の、今年のボランティアのときも、指輪はまだ発見されていない。おそらくは今もまだ、この東北の地の土中か、海の中を漂っている。
五年前の社会人ボランティアから、僕は毎年ボランティアに参加するようになっていた。学生たちの移り変わりは早く、あの女子大生も次の年にはいなくなっていた。大人には継続参加者が多かったが、数は少なくなっていった。その中には僕の顔見知りもいたけれど、必要以上に接しなかった。
仮設住宅で暮らしていた子どもたちは順調に育っていた。五年前に中学生だった子たちはほとんど全員が進学のために、別の場所へと移っていった。
仮説住宅はやがて国へと返却されることになっている。それが住宅として使われるならば問題ないけれど、そうでない場合、住民は別の住居を探さないといけない。住民からの反発は大きかった。ぼくもボランティアの他の方々の憤りに乗っかって反発をした。暮らしを壊すなと、復興はまだ終わっていないと、声を上げた。
指輪はまだ見つかっていない。彼女が生きていた明かしを見つけるまでは、僕は被災地に関わっていたかった。それさえ失ってしまったら、僕にはもう何も残っていないからだ。
地震からの復興状況や原子力発電所の廃炉問題。あの震災の日が近づいてくるとテレビでは特集が組まれ、被災地の人々の涙が毎度のごとく放映される。未来への希望や絆を呼ぶ声とともに、復興への願いが込められていく。
そのような番組が流れ始めると、僕はボランティアの準備を始める。準備に掛ける時間は年々短くなっていた。普段の生活からして物をあまり持たなかった。気ままというより、意欲が減退していた。仕事はしているが、飢えない程度に生きられればそれでよかった。
とはいえ、ただ生きることも最近は難しい。熱中症対策を疎かにした大勢の善意の民間ボランティアたちの死肉を糧に電飾を光らせた東京オリンピックが終わってから、この国は不況であることを隠そうともしなくなった。僕などよりずっと健全かつ健康で頭も良く、働く意欲に溢れている若者たちが、日に何度も電車の前に飛び込んでいった。二〇〇〇年代初頭のとある事故の影響で、都内ではホームドアが急速に設置されたけれど、あれのおかげで都心ではあまり事故は起こらない。死にたくなった人たちは律儀に電車賃を払ってホームドアのない郊外まで出向き、上りの満員列車の前に飛び込んだ。彼らの一世一代の大仕事は、東京駅に着いた頃にはダイヤグラムの五分の誤差と棒読みの謝罪に変換された。普通の自殺ではもはやつまらなさすぎてニュースはおろかSNSへの投稿すら書かれなかった。
ボランティア行きのバスの席は、今では半数ほどしか埋まっていない。ボランティアの募集自体が限られていた。復興計画は十年を目処にという、時の政府が何を根拠に言い出したのかもわからないキリのいい指標がまかり通って完遂されようとしていた。きっともう大丈夫とみんなが言っている。本当のことは誰も知らないのだろう。そう思いつつ、僕自身もそれほど興味はなかった。
バスが出発する。僕らは揺られていく。数少ないボランティアたちの顔色は随分と良くなった。ほとんど友人になった被災地の人々と会うのが楽しみなのだろう。まるで第二の故郷だと誰かが言えば、誰もがうなずく。みんな、復興を喜んでいる。町はよみがえった。真実など気にすることはない。日常は戻った。一時期の観光地化や、ダークツーリズムも落ち着いた。スーパーがあり家電量販店があり、ほどほどの価格で生活が構築できてほどほどに苦しい生活をあくせく働きつつましやかに過ごせる。それは日常と読んでおかしくはない。馬鹿げた高さと威力の津波に軽々しく殺される非人道的な非日常はみんなの切なる希望に従い今ここに完全に排斥された。
僕はその安寧のただ中にいる。他人を慮ることが加速度的に難しくなっていく世の中で、一人黙々と復興ボランティアに参加し続けていた寡黙な青年として、一目置いて見られているらしい。
*
僕がなぜボランティアをしていたのか、誰も知らない。あの遺失物管理担当者は察せたかもしれないが、今年からは担当という席自体がなくなっていた。特別な遺失物はもう見つからないと見做されたのだろう。十年が経てばほとんどの有機物は土に帰る。無機物だとしても、それが震災のものなのか、それとも風にのって波にのって運ばれてきたのか、誰にもわからない。
諒子はもういない。せめてあの指輪だけでも見つけたかったのに、もう手立てがなくなった。
そもそもあの指輪にはどんな柄がついていただろう。ハートか、星、三日月だったかもしれない。色は何だったろう。もしも今、落とし物があったとして呼び出されて取り調べられたら、僕は正解を答えられるだろうか。
僕は今まで何を追いかけていたのだろう。彼女がいないことはわかっていたし、指輪が見つかったところで何にもならないこともわかっていた。本当に探していたのだろうか。僕は何をしたかったのだろうか。
ボランティアの詰め所のテレビには除幕式が映し出されていた。復興した港町に電車が開通したのは数年前だったはずだ。何の記念なのかと見ていたら、どうやらラッピング車が走るとわかった。東北の山並みと海岸線が車体に浮かんでいる。その山の土砂崩れは大勢の人を押し潰し、その海の波に大勢の人がバラバラに引き裂かれたことを、ふと思い出した。口には出さない。そんなことをわざわざしても仕方がないと自分に言い聞かせる。これは僕の本心? 本心なのかな。本心なのだろう。わかったところでうれしくも何ともない。もう十年経った。電車は今日から走る。街は外の街と否応無しに接続し、電車は毎日乗客をどこかへと運ぶ。悩む必要もない。過去を思い出したくなければ目を閉じればいいし、心配しなくても街は綺麗だ。もう何も考えたくはない。何を考えてもムダだ。どうせ彼女はいないのだから。
それでも僕は生きている。前を向いて生きていける。彼女がいないこれからの世界へ。もう後ろを振り返る必要はない。線路は前へと伸びている。
*
港町にいた。夜の霧に紛れて海が揺れていた。
夜と霧。昔読んだ本を思い出す。なんの変哲もない人が、過酷な環境で精神をすり減らしていく。生きることに絶望した人々の様子が克明に描かれたその本を、当時大学生だったぼくはまじめに読み、彼女に感想をメールで送った。そうだ。彼女は本が好きだったんだ。どんな本が好きだったのか。どうして思い出せないのか。ぼくは、彼女が好きだったのではなかったのか。
「リョウコ」
久しぶりに彼女の名前を呼んだ。言える相手がいなかった。大学時代の友人とは疎遠になっていたし、会ったとしてもたった一年しか見かけなかった彼女のことは忘れているだろう。彼女の家族はどうしているのだろう。何故か今まで気にしたことはなかった。全て流されたのだ。僕では彼女の住民票すら得られない。
海を見ている。波の音がする。ジャズの音が街から聞こえてきていた。東北の人たちはなぜかジャズが好きだ。町の中をひっそりと流れるそのメロディは、苛立ちを掻き消すくらい優しかった。
空には月が浮かび、光の帯が海を割いていた。人の手が感じられない光。綺麗だ。心置きなく綺麗だと言える。真新しいスーパーの白壁も、ラッピング車の銀の車体よりも、輝いる。自然の光は平等に、僕と他者に降り注いでいる。
砂浜に足を踏み入れた。三月の夜の砂浜は冷えていたけれど、大地の熱をかすかに感じた。
「リョウコ」
もう一度、彼女の名前を呼んだ。
ボランティアは今回で最後だと言い渡されていた。みんなが終わりを認めた。不満が出ないのだから大団円だろう。今回を以て僕と被災地の縁は切れる。僕はもう、ここにいなくていい人になる。
「いやだ」
声に出していた。次々と拒否を発していた。言ってはいけないこと、言っても意味なのないことだと、十年を隔てて三十代になった僕の脳の大部分が制止をかけているのに、おかしなくらい口が回る。止まってくれない。止まらせない。ここでとまったら本当におしまいだ。僕は死ぬ。生きたまま。
「置いていきたくないんだ」
あれだけ優しかった星々を僕は睨み付けていた。光は絶えない。僕の手が届けば引き裂けるのに、そんな願いは僕には叶えられない。
僕は街並みをふりかえった。街の灯火はとても小さく儚い。暗い山に囲まれている。それが現状だ。あそこで安心している人々がいる。彼女の捜索を打ち切った人たちが酒を酌み交わして赤ら顔で歌い合っている。願いは叶ったんだと、口を揃えて喜んでいる。
「僕の願いも聞いてくれよ」
僕は声を張り上げた。あわよくば、全てが元に戻って欲しかった。
大声で叫んだ後は、思い切り泣いていた。膝に力が入らなくなり、砂浜に顔を突っ伏した。砂は鼻まで不躾に入り込んでくる。息ができない。息なんてしたくない。いっそ殺して欲しかったのに、身体が勝手に咳き込んで気道を確保する。どうして死なせてくれないのだろう。僕だけがどうして生き延びているんだろう。
問答は混濁して、まともな思考ができなかった。僕は疲れていた。元の自分が戻ってくる。三十代の僕が年甲斐のない僕を諌めに来る。二十代の僕はもういなかった。波の向こうに吸い込まれた。そういうことにしたかった。
誰かの呼び声がした。ライトが見える。警官が僕を見ていた。不審者とでも思われているのだろう。警官の向こう側には沿岸の街並みが見える。それらが僕を見下ろしている。僕の唇が釣り上がった。僕は苦笑いをしていた。
どう言い訳しよう。言い訳があふれてくる。むしゃくしゃしたことがあった。悲しみたいことがあった。人が泣くことについて、理由がたくさん思い浮かぶ。彼女のことを話して聞かせようか。十年前に死んだあの子のことが忘れられないのだ。警官はきっと黙って聞いてくれる。そうであれと僕が願ったとおりの優しさで。
うまく立てなかった。
おかしいと思った時にはすでに、次の揺れが足元を襲っていた。警官もふらついている。街の方から悲鳴も聞こえた。僕自身もさけんでいる。幼い子どものようなわめき声で喉を震わせた。
揺れは長々と、揺れていることを僕らに知らしめるかのように続いた。
*
東北地方は震源から遠く、被害は少なかったのだと、後に知った。
僕は揺れが収まってから、おとなしく警官の職質を受けた。彼女のことは言わなかった。用がないなら早く帰れと、諭してくれたその声は思いのほか厳しくて、僕は素直に宿へ帰った。
宿では他のボランティアたちがリビングに集まっていた。椅子もあるのに、全員が立っていた。視線はテレビに釘付けになっていた。普段とは違う。しかし覚えがある。この緊張感を僕は十年前にも経験した。
リビングのテレビ画面が映す景色を見ながら、頭の片隅に問いが湧く。
僕はいったい、何を願ってしまったのだろう。
*
二○二一年三月十一日。その偶然の一致にコメントすることは不謹慎だと誹られた。
静岡県から宮崎県までを襲ったその空前の大地震は、5G回線を通じた克明な映像とともに、瞬く間に世界中へと拡散されていった。
――了
神様のいない場所 泉宮糾一 @yunomiss
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます