十年後の暑い夏

尾八原ジュージ

十年後の暑い夏

「高三のとき、妹の葬儀に来てくれてありがとう。実は、妹のことで話があるの」


 同窓会の夜、二次会を抜け出した宮園真矢は、僕にそう囁いた。




 それから十二時間が経った今、僕は古い家々に囲まれた狭い迷路のような路地を、宮園の運転で彼女の実家に向かっている。


「宮園、運転上手いね」


 そう話しかけると、彼女は笑い声を立てた。


「そんな風に見えない?」

「まぁね」


 ドライブを始めてから三時間半、ようやく僕たちは宮園家の庭先に到着した。車のドアを開けると、途端に夏の太陽が僕たちを焼き始めた。


「廃屋みたい。ひどい有り様ね」


 宮園が呟いた。


「宮園は、実家にあんまり帰ってなかったんだっけ?」

「うん、高校卒業してからずっと帰ってない。七年前に父が亡くなって、母も晩年は入院してたから、この家は空き家も同然だったの」


 猛烈な草の臭いがした。蝉が狂ったように鳴いている。先端の枯れかけた背の高い雑草が繁茂する中に、石畳の小路が続いていた。彼女はそこを踏んで、玄関へと歩いて行く。僕もそれに続いた。


 暑い。スニーカーの底が溶けて、石畳にくっついてしまいそうだ。そういえば記録的な猛暑だった2010年の夏、宮園の妹の葬儀の日も、頭が焦げそうなほど暑かった。




 つい一昨日の同窓会で再会した宮園真矢は、高校時代とまったく変わっていないように見えた。


 元クラスメイトたちは「高校の頃から美人だったけど、ますます綺麗になった」と持ち上げていたけれど、僕にはそんな風に見えないところも昔と同じだった。


 宮園のことはよく覚えていたが、特別親しかったわけではない。それなのに今、彼女の実家である宮園家にこうしてやってきたのは、彼女に折り入って頼まれたからだった。


「薄々思ってたんだ。進藤くんは私のこと、きっと……」


 玄関の鍵を開けるのに苦戦しながら、宮園が呟いた。「あ、やっと開いた」


 白いペンキの剥げかけた木製のドアが、ゆっくりと開いた。閉じ込められていた熱気がむっと押し寄せる。


「暑いね」

「ほんと。エアコン使えるかなぁ」


 日に焼けた玄関マットの側に、古臭いデザインのスリッパがいくつか立て掛けられていた。それを履いて、僕たちは家の中に入っていった。


 宮園はリビングに僕を招き入れた。閉まっていたカーテンを開けると、夏の午後の光が部屋中に差し込み、コントラストの強い影を作った。


 リビングは一昔前の雰囲気がした。頑丈そうな木製のローテーブルに黒っぽい革張りのソファセット。ローテーブルに置かれたガラスの灰皿。壁際には大きな飾り棚があり、写真立てやペン立てなどが陳列されている。ペン立ての中に、なぜか大きな裁ち鋏が立ててあるのが僕の目を引いた。


 ソファに積った埃を払うと、僕はそこに腰かけた。宮園がエアコンのリモコンを探し当てたが、小さく舌打ちをして棚の上に戻した。


「ごめん、電池切れ」

「しょうがないよ。ええと、妹さんの話を聞いてほしいんだっけ?」


 ソファーから声をかけると、宮園は四角いものを持って、ふらふらとこちらに寄ってきた。


 それは写真立てだった。中に色褪せた写真が入っている。


「何が写ってるか見てくれる?」


 僕は言われた通り、その写真を見た。


 それはぱっと見た限りは、幸福そうな家族写真のようだった。中年のがっしりした男性と優しそうな女性。見覚えのある、ほっそりしたきれいな女の子。三人とも笑顔だ。そして彼らに囲まれるようにして、奇妙なものが写っている。


 それは細長い袋のようなものだった。頭陀袋に詰め物をして、あちこちを紐できゅっと絞ったような感じだ。顔は描かれていないが、それでもそれが人間を型どったものだということはわかる。大きさは人間大で、白っぽいブラウスを着せられているようだ。


「袋で作った人形みたいなものが写ってるでしょ?」


 宮園が先回りして言った。僕はうなずいた。


「やっぱり。進藤くんにはそう見えるんだね」


 嬉しそうな、怒っているような、奇妙な言い方だった。




「写真に写っているのは私の妹の怜奈なの。皆、怜奈のことをかわいいかわいいって誉めたけど、私にはなぜか、頭陀袋の人形にしか見えなかった」


 宮園は僕の正面のソファに腰をかけた。


 僕は驚いて尋ねた。「妹さんのことが、そんな風に見えてたの?」


 宮園は深くうなずいた。


「怜奈は体が弱くて、学校にはほとんど行ってなかった。私の記憶の中の怜奈って、いつも自分の部屋のベッドで寝ているの。でも、それも当然だなって思ってた。だって人形だもんね。あちこち動き回る方がおかしいでしょ」


 僕は手元の写真に目線を落とした。頭陀袋の人形と美少女の取り合わせは、異様でちぐはぐな感じがした。


「怜奈のことを可愛いと思ったことなんて、だから一度もなかった。なのに父も母も、仲良くしなさいってうるさいの。将来は、真矢が怜奈の面倒を見るんだよって。そう言われて私、ぞっとした」


 家庭に歪さを抱えながら、宮園は高校生になり、理系の特進クラスで僕に出会った。彼女は「高嶺の花」だったけれど、僕にはちっともそんな気がしなかった。でも、彼女が醸し出す不思議な雰囲気には、なんとなく魅力を感じていた。


「宮園は、そういえば医学部を志望してたっけ」

「そうだよ。怜奈のために医者になれって、両親が言うから。でも厭だった。毎日厭で厭で」

「でも結局、妹さんは亡くなったんだ」

「そう。十年前の今頃。夏休みの直前」

「覚えてるよ。僕はクラス委員だったから、担任と一緒に妹さんの葬儀に参列したんだ」

「びっくりしたでしょ」


 そう、本当にびっくりした。宮園は棺の窓から中を覗くなり、「違う! 怜奈はこんな子じゃない!」と騒ぎ出したのだ。普段落ち着いている彼女の、裏返って取り乱した声は、その後しばらく僕の脳裏に焼き付いていた。


「僕も先生もあのとき、宮園は大事な妹の死を認められなくて半狂乱になったんだ、と思った。でも、そうじゃなかったんだ」

「そう。そうじゃなかった。私が取り乱したのは、棺の中に入っていたのが頭陀袋じゃなくて、人間の女の子だったからなの。私、怜奈が死んでから、あの子のことが急に人間に見えるようになったの」


 そうでなきゃ殺してないよ。


 宮園はそう呟いた。


 僕のこめかみから、ぽたんと汗が垂れた。この部屋は暑い。あの2010年の夏と同じような、容赦ない暑さだ。頭がどうにかなりそうだ。


「十年前の今日、学校から帰ってきた私が怜奈の部屋の前を通りかかると、中から泣き声がしたの。私、その時はなんだか、怜奈のことがすごく気になって、部屋に入ったのね。たぶんすごく暑かったからじゃないかな。頭がぼんやりして、別の人間になったような気分だった」


 怜奈と名前のついた頭陀袋は、ベッドの上に突っ伏していた。泣いているらしかった。宮園がそっと背中に手を置くと、そこから「お姉ちゃん、あたし死にたい」という声が漏れた。


「ああそう、だったら死ねばいいよって思った。だって頭陀袋だもん。私は怜奈の部屋にあった裁縫箱から裁ち鋏を出して、頭の縫い目に刃を入れて、ジョキジョキ大きく切ってあげた」


 頭陀袋は静かになった。中から黄ばんだ綿のようなものが出ていた。パパとママが怒るだろうな、と思いながら、宮園は裁ち鋏を元通りにしまって、部屋を出た。


「一時間くらいしてから、ママがベッドの上で死んでる怜奈を見つけて大騒ぎになった。でも怜奈の死因は、頭を鋏で切られたことじゃなくて、心不全だって聞かされた。死んだ怜奈は人間の姿になってた。今まで頭陀袋が写ってるようにしか見えなかった怜奈の写真も、ちゃんときれいな女の子が見えるようになったの。お葬式のときの棺の中にも、ちゃんと女の子が横たわってた」


 宮園は言葉を切ると、ちらりと飾り棚の方を見た。釣られて僕も飾り棚を見ると、裁ち鋏が目に入った。金属の持ち手がついた、よく切れそうな鋏だ。


「でも、宮園は頭陀袋を切っただけなんだろ? 人間をどうにかしたわけじゃなくて」

 彼女が黙ってしまったので、僕は助け船のつもりでそう尋ねてみた。


「そう、そう思ってた。でも怜奈が死んでから、私の記憶の中の怜奈がどんどん変わっていくの。頭陀袋が人間の姿に差し換わっちゃうの。写真を見ても、人間の女の子しか写ってないし、どんどん頭陀袋の方を忘れていっちゃう。おかしいね。怜奈が死んだら好きに生きるんだって思ってたけど、全然そんな気持ちになれないの。この十年間、私は何を殺したんだろうって、ずっと考えてた」


 同窓会でひさしぶりに会った宮園は、医者になっていた。彼女にその進路を勧めた両親も、動機となった妹も、もうこの世にはいないのに。それなのになぜ、彼女はなりたくもなかったはずの医者になったのだろう。彼女に絡み付いていた呪縛は、家族がいなくなった後も解けなかったのか。


「そんな話をするために、わざわざ僕を宮園んちまで連れてきたの?」


 宮園は少し黙って、飾り棚の方をちらりと見た。


「そうね。あと、妹が写ってる写真を見せたくて」


「これだね。確かに頭陀袋と、きれいな女の子が写ってる。ほんとにきれいな子だよね。僕も覚えてるよ。宮園が騒いだから、すごく印象に残ったんだ。あの葬儀のときの、遺影の顔が」


 僕は宮園に写真を突き付けた。




「宮園のことも鋏で切ったら、こんな美人になる?」




 ソファに寄りかかるように腰かけていた大きな頭陀袋は、愉快そうな笑い声をあげた。


「ははは。やっぱり進藤くんには、私が頭陀袋に見えるんだ。ははは」

「そう。ずっと不思議だったよ。どうして皆は宮園を美人扱いするのかなって」

「ははは。そうだよねぇ。不思議だったでしょ。わかるよ。ほんとよくわかる」


 宮園は笑いながら荒い縫い目のある右手を挙げて、飾り棚の中の裁ち鋏を示した。


「いいよ。試してみても」


 僕の顎先から汗が一滴、膝の上にぽたんと落ちた。頭陀袋がふふっと笑った。


 僕は勢いよく立ち上がった。




 2020年のその日も暑かった。

 頭がおかしくなりそうなほど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

十年後の暑い夏 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説