第5話 学校①

「まあ、それとは別に一つ。兄さんに伝えておきたいことがあるんだ」

なんとも言えない沈黙を翔は喉を鳴らして破った。ナイフとフォークを置き、こちらを見る。


「兄さんってさ、学籍が微妙なんだよね」


「そうだな……、えっ?いや、定期テストとかは学年平均点以上は取っているはずだけど」

特に化学は上位勢なはずだ。だが漢文、お前だけは許さねえ。


「あー、そういう成績のことではなくてね、兄さんどこの高校出身だっけ?」


「国立為縛なしば高校」


「そう、為縛だ。為縛っていう地名は既に無いものとされている。GHQによって為縛を含んだ研究区画はそれらがあったという情報だけを公表してその位置や残酷な研究内容は消されている。だから、為縛は日本の中、いや世界では今ではなくなってしまった有名な地名として残っている。だからそんな地名を持つ高校から来たと言っても」


「それは嘘だと断定されるし、逆に本当でも騒ぎになる、ということか」

為縛はいわば幻かつ不吉な名となっている。それをそのまま使っては騒ぎになるし、第一におそらく僕の学校での情報は全て消えているのだろう。今の僕は現代日本の社会で言えば学校に通ったことのない子供となっている。


「まあ、小学校や中学校は司馬さんたちがどうにか戸籍を作ってくれたときに組み込んでくれたから問題ないけど、高校はどうにもならないからね」

翔は手を組んで真剣な表情で喋る。


「だからっ」

組んでいた手を即座に解き、パンッという音を立てて掌を合わせる。


「兄さんには高校に通ってもらおうと思っているんんだ」

にこりと微笑んでそう言う。


「高校、え、けど、大丈夫なの?」


「まあ違和感は十分にあるよ。こんな時期に転校だからね。だけど、それならば転校にしなければいいってことだよ」


「転校に、しない?」

どう言うことだよ。


「言葉の通り、転校にしなければいい。元々その学校に所属しているけれど、何か事情があって今まで通えてなかった、みたいなね」

何かとはなんだよ、一番重要な内容が抜けているじゃねえか。


「そんなこと、できるのか?」


「もちろん、普通の公立高校なら難しいだろう。だけど私立の高校の理事長に一人知人が居てね、コネを使おう、とまあ僕は考えたんだよ」

なるほど、それなら可能なのかもしれない。学校側にとっては大迷惑だろうが。


「だから、君をその高校に入れることになったけど、いいかい」


「ええ、まあいいけど」

ここで我儘なんて言ってはいけないのは当たり前だ。ただの居候だから拒否権なぞあるはずがない。


……ちょっと待て。


「それって、いつからなんだ?」

翔は笑みを崩さずずっとこちらを見ている。


「もちろん−

翔の顔の表情は動かず口だけが動いている。

       –今からだよ」


急に翔は立ち上がると部屋にいた使用人たちが一斉に動きを早める。


「さっ、これに着替えて」

目の前に出されたのは包装された、おそらく制服だ。

「いや、サイズは?」


「もちろんそこに抜かりはない。兄さんの意識を無くした際にサイズも測ったから。急成長さえしていなければおそらく大丈夫だよ」

大丈夫なのだろうが、他が何も安心できない。


「えっ、本当に?本当に今から」


「もちろんだとも。さあ兄さん、行ってらっしゃい」

翔は足早に出て行く。そして、それを待っていたかのように使用人たちがまるで襲いかかるようにこちらへ突進してきた。


「えっ、ちょっと、翔?翔ーっ!」

使用人たちは素早く僕の手から制服を取り後ろに控えた他の使用人に渡すといきなりズボンに手をかけて下にずらそうとする。あまりにも、急なことすぎて彼らの行動を妨げてしまう。


「いや、自分で着替えるから」


「これも当主様の命令故なので失礼します」


「いや、だから自分でっ」

いきなり体に衝撃が走り目の前がだんだんと暗闇とかす。デジャヴを感じてしまうのは本当に不本意だ。



________________________


「…くださいっ」

記憶が、混濁と、している。何をしていたのだろうか、僕は、何も、思い出せない。


「お……さいっ」

だが、そんなことよりも今までにない心地よさを頭に感じる。あの、高級ベッドとはまた違った、優しさのある心地。


「……」

こんな気分の良い睡眠は本当にいつぶりかだ。あの街で行われた定期試験の終わりに感じるあの安心の眠りが一番この感動と似ていた。張り詰めてしまった僕の生という名の絡まった、乱雑とした糸がいともたやすくほどけるような、そのような感触的感動。

ふと思ってしまうもう一度の、あの日に戻れるのなら僕はどれだけの対価をも払って率先して手に入れてしまうのだろう。そう思ってしまっても、そう強欲さが出てしまっても、そう傲慢さが出てしまっても、起こり得ないことなのだから。今だけは僕の怠慢を許してくれる、そう思えてしまう。



「だーかーらっ!起きてくださいって‼︎」


「ぐふっ!」

ついさっきまでの安心というか感動というそれら全てが吹っ飛んだかのように唐突に腹部に衝撃が走る。途端に視界が明るくなり、目の前が暗闇からぼやけた景色に急変する。


「こ、ここは」

横になっていた体を上半身だけ持ち上げる。背伸びをするために手を上に伸ばすも何かに阻まれ全開に伸ばすことが不可能であった。


「車、のなか」


「そうですよ。やっと目覚めましたね灼梨様、おはようございます」


「お、おはようございます。えっと貴方は、」


「申し遅れました。笠山由梨かさやまゆりと申します。壱無家でメイドをやっております」

ぺこりとすこし目の前のメイドは頭を下げる。


「えっと、月見里……壱無、灼梨です」

まさか自分の姓名で悩む日が来るとは思わなかった。


「月見里で構いません。貴方様の個人情報等は月見里という姓で登録していますから」


「はあ。えっと質問いいですか?」


「ええ、どうぞ」


「今向かっているところは何処なんですか」

車は僕たちの会話を気にせずにただ前進しているだけであった。


「貴方様がこれから通う学校『私立央楠高等学校』でございます。入学、いえ転入手続きは既にこちらで終わらしていますので、そのまま職員室に向かってくださって結構です。あと、先ほども申し上げましたが、姓名は『月見里灼梨』で登録させていただきました。これは、『壱無』の名で厄介ごとが灼梨様に降りかからないようにするためです」

自分が思っていた以上に「壱無」はビッグネームだったようだ。


「後の説明は全て学校側の方が説明してくれると思います、それでは。」

またもや唐突に車が停止して、思わず、車の中で体勢を崩してしまう。

すると、自分が向いていた方の車のドアが自動で開かれる。さきほどの人工的な灯りと比べて日差しが眩しい。


「いってらっしゃいませ」

メイドは体勢を崩したままの僕にこんどは深々とお辞儀をする。それはどこか先ほどよりも頭の位置は低いのに冷徹で簡素に思えて、まるで自分と他人の縁を切るような押し返すのではなく、人との関係を立ち去るような。そんな礼であった。


ふらふらとなりながらも外に片足を踏み出してバランスを崩しそうになるもの踏ん張って立つ。

目の前には先ほどはよく見えなかった大きな煉瓦貼りの建物がそびえていた。

茶色というか赤茶色を主な色とした堅実さを思わせる建物。だが、それはやはり日光のせいではないのに僕にとっては眩かった。

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