第2話 出発と別れ
病棟で働いている看護師はすっかり様変わりしていた。
僕が世話になった先輩も相談できる同期もいない。いつの間にか入ってきたばかりで右も左もわからず全然動けなかった僕がリーダーなんてやっている。僕はこの状況に思わずため息が出そうになった。僕はいまだって自信がないし、逃げ出したくなることばかりだ。それなのに年齢と共に責任ある仕事をしないといけなくなっている。今まで自分がどれほど甘い環境で仕事をしていたのか痛感させられた。
今度は僕がやるしかない。
それはわかっている。
けれどもう少し、この寂しさを味わってからでもいいじゃないか。
冬はただでさえ忙しいのにコロナウイルスの影響もあって東京セントラル病院は対応におわれていた。他の病院がコロナウイルスを受け入れる代わりに東京セントラル病院は患者さんを退院させ受け入れるために病室を開ける。それでもいつものように患者はバンバン入ってくるし、職員の退職も多く人が少ない中でいつもより忙しい病棟をさばいていかないといけなかった。僕はいつの間にかリーダー業務をするようになって毎日慌ただしく看護師として働いている。東京セントラル病院にきて二年。マンネリと毎日緊張の連続で少しだけ精神的に疲れながらもなんとか頑張っていた。朝の申し送りを終えるとさっそくリーダーピッチが鳴った。
「はい。五階リーダー有野です」
救急外来の看護師より入院の要請だった。患者さんは当院かかりつけの水島さん。今回は倦怠感と不明熱で入院。インフルエンザは陰性。僕はわかりましたと告げて電話を切る。水島さんは二ヶ月に一片入院してくる常連患者だ。主治医は外科医の中田先生。入院的もありある程度の情報もあるので僕が水島さんの入院を取ることにした。東京セントラル病院はペアナース方式を導入している。簡単に言えば二人一組で患者を受け持ち業務を進めていく方式だ。今日のペアは横浜さん。横浜さんは最近入職したばかりであまり話したことがないから緊張する。横浜さんは背が小さく厚化粧で少し気の強そうな顔をしている。入院が来ることを伝えると無愛想に「わかりました」と返答しただけだった。慌ただしい朝だ。横浜さんの反応にいちいち反応している場合ではない。僕と横浜さんは患者さんの元へと挨拶に向かった。
日勤が始まって二時間も経たないうちに僕はお家に帰ってアマゾンプライムで今流行りの鬼滅の刃を見てのんびりと現実逃避をしたかった。理由は簡単。今日はリーダーだからである。リーダーとは何か説明するとその日の日勤で病棟全体の患者さんの情報を把握し必要時に先生とやりとりする担当である。先生に点滴や内服のオーダーを依頼し、回診で処置についたり、退院に向けてどうするかとか他職種と連携したりとりあえず多重業務を正確に遂行していく必要がある。また患者さんが急変した時の対応や看取りの対応をしたりと最前線で戦う能力が求められる。また病院によっても少しやり方は違うのでとりあえず東京セントラル病院はそん感じだ。そして僕は今日リーダーなのであるがさっそく患者さんの状態が悪い。ナカムラさん。大腸癌、化学療法後で今回は看取りで入院。すでに全身に水が溜まっており主治医の中田先生からはいつ状態が急変してもおかしくない状態であると説明されていた。そして血圧が下がり酸素飽和度も八十台後半であると新人の国沢さんが大急ぎで僕に報告してきた。国沢さんはもうすぐ一年になる新人看護師だ。小さくて華奢な女性だがいつも患者さんに優しくて患者さんからはもちろんスタッフからは人気があった。いつも患者さんのことをよく見ている彼女なのですぐに異変に気がついたのだろう。僕は国沢さんから報告を受けるとすぐにナカムラさんの元へと向かった。いきなり緊張する場面にほっぽりだされて逃げ出したくなったし僕のポンコツぶりは自分が一番よく知っているから「お前が行って何ができるの?」と心の中の自分が冷静にツッコミを入れている。そんな僕に僕が「うるせぇ」と一喝を入れてとにかくナカムラさんのもとへと行き、意識レベルを確認した。意識レベル二の三十。左腕に巻かれている自動血圧計のボタンを押して再度血圧を測る。酸素を三リットル開始とした。どこかで騒ぎをかけつけた忍びみたいな素早さでやってきた。
僕は打つ手を頭で考えるのと同時に逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
血圧は八十台。千葉さんが医師の指示を確認してくれて血圧八十以下は急性循環不全改善剤の投与適応となっている。カルテには中田医師が長女へ説明しDNRであることが記載されている。
「とりあえず今すぐって感じではなさそうね」
千葉さんがポツリと言った。
「そうですね。血圧はもともと低いですし」
とりあえず国沢さんに午前中に投与予定であった利尿剤の投与を待ってもらい、中田先生が回診に来るのを待つことにした。
横浜さんと午前中にケアに入り、点滴を投与したり血糖を測定したりした。また経管栄養も投与する。今日は手術が多かったので入室や退室の電話に追われた。おまけも隊員も多い。僕は休憩時間の間に少し予想を立てた。患者さんの病状、これからくるであろう入院はどこに振るか。考えすぎて頭がパンク思想だった。とにかく家に帰りたい。ゆっくりとした時間を過ごしたい。
気合を入れて病棟へと向かう。
午後もあっという間に時間は過ぎていく。
外科のカンファレンスに、追加の検査対応。
忙しく病棟で業務をしているとふらりと中田先生がやってきた。
小さな顔に通った鼻筋。少々小柄ではあるが筋肉質の体は威圧感がある。一見白衣を来ていなければ医者には見えないだろう。
中田先生が来たのでナカムラさんのことを報告した。利尿剤は中止の指示を受ける。また急変時にDOAと酸素は家族が来るまで投与することを確認した。
ナカムラさんはそろそろ厳しいかもしれない、中田先生はそう言って死亡診断書を書いた。
ようやくリーダー業務を終えて検温に回っている横浜さんのところへ合流。ちょうど水島さんの検温をしているところであった。この病院の常連である水島さんに僕は「こんにちは」と挨拶をする。水島さんはか細い声で「元気そうだね」と言った。水島さんのベッド周りは私物が沢山ありすでに水島部屋と化している。水島さんは話すことが好きなので少し会話をする。水島さんは最後に奇妙なことを言った。
「黒い人が来ているから。誰かなくなるかもね」
横浜さんが困った表情をする隣で僕は「変なことを言わないでくださいよ」と返答した。
水島さんの検温を終えて次の患者さんの元へと向かった。
全ての業務を終えて病院を出るとすでに夜の八時を過ぎていた。
冬真っ盛りで寒すぎて体がきつい。ご飯を食べる気力もわかないままよたよたと寮に向かって歩いた。今日の振り返りを頭の中ですると苦い思い出ばかりだった。あれでよかったのか疑問ばかりが体を埋め尽くし寮に着いた頃には考えるのも面倒になる床に座ってぼうっとする。スマホが鳴って誰からか確認すると萩原だった。
「ご飯食べた?」
「さっき病棟から出たばっかりだよ」
僕は笑った。萩原はまだ病院にいるのだろうか。
「明日休みでしょ? 飲み行こうよ」
僕は家でぐるぐると考えると病気になってしまいそうなので萩原の提案を二つ返事で返した。
萩原と寮の前で待ち合わせて駅前の居酒屋に向かって歩く。僕は萩原と並んで歩きながら思わず「あー疲れた。もうやめたい」と漏らした。秘密を守ってくれる萩原なら多少の本音は言っても大丈夫であろう。
「へこたれてんじゃないよ」
萩原は笑いながら言った。へこたれるのはへこたれる。
「いいよなずっと救急でやってきた人間は手際がよくて」
「そんなことはないよ」
萩原も千葉さんとはまたスタイルが違うが仕事ができる。時間は少しかかるけれど千葉さんより仕事の精度は高い。時々やらかすことはあるが。
居酒屋に着いて生ビールを二つ頼む。
「ほんとに最近辛いんだけど」
僕はビールが来る前から喋り出した。
「リーダー始まってからでしょう?」
「ほんとうにキツイんだよ。横からあれこれ指示はあるし時間でさばかないといけないことは増えるし」
生ビールが運ばれてきて乾杯する。
「そんなのすぐに慣れるよ。私だってリーダー始まったばかりの頃は辛くて仕方なかったけど」
「それどういう風に乗り越えたの?」
「忘れた。気が付いたらいつの間にか楽になってた感じ」
「なんだよそれ」
「リーダー業務なんてそんなものよ」
改めてリーダーをしている人たちの凄さを感じる。患者さんの状態が変化した時、僕はいつもリーダーに頼りっぱなしであったことをことごとく痛感した。
「千葉さんには相談した?」
「多少は」
多少と言っても業務的なことを聞いただけである。もう一年も前に千葉さんは僕のプリセプターを終了している。僕もずっと千葉さんにおんぶりだっこなのもおかしいような気がするので極力千葉さんの力は借りないようと思っていた。
頼んだ唐揚げやサラダ、もつ鍋などが運ばれてくる。美味しいものを食べると不思議と元気が出た。やっぱり家でだらだらしているよりはよかった、と心の底から思う。
「大金さんどう?」
「どうって通常運行だよ」
年配の看護師である大金さんは僕と萩原の悩みの種だった。主任や師長がいないと仕事をサボるので困っている。おまけに自分はそんなに仕事ができもしないくせにあれこれ指摘してくるものだから面倒なのである。
「あのおばさんはどうしようもないよ。あの年齢であの感じなんだから」
大金さんは四十代前半くらいだ。看護師歴は僕らより短い。そしてどう多く見積もったって僕らより仕事ができているとは思えない。裏で人の悪口や噂話ばかりをしている典型的な嫌な人間だ。
「いや。私は黙っていられないよ。山口主任に相談しようと思う。このままじゃあ美味しい思いをするのは悪いことしている大金さんだし」
萩原は山口主任と仲がいい。正月には二人で初詣に言ったそうだ。僕には怖すぎて山口主任と二人で初詣なんて行けない。
「まぁ山口主任ならなんとかしてくれそうだな」
山口主任が大金さんに喝を入れてくれるといいけれど、あの曲がりに曲がった性格をしている大金さんが山口主任の言うことを素直に聞いてくれるとは思えなかった。曲がりに曲がった心には真実は届かないような気がする。
人間とは難しい。
私は生ビールを飲み干した。すかさず萩原が僕の分の生ビールを注文してくれる。
なんだか楽しくなってきた。僕がリーダーできないことも大金さんが面倒なのもなんだか解決できるような気がした。
「三月には随分と人が減るみたいだからリーダーなんてやるしかないんだよ」
萩原がポツリと言った。
その言葉で少し目が覚める。今の五階病棟は三月で随分と入れ替わる。僕がこれまで仲のよかったメンバーが辞めたり、産休に入られる先輩がいたり病棟の看護師が三割ほど減る。それに加え介護士さんも辞められるので四月からは全く違った病棟になる。それが楽しみであるのと同時に少し恐怖すら感じる。男性看護師としてやっていくのは看護師としての知識と技術はもちろん必要であるがそれと同時に職場の女性看護師とうまくコミュニケーションをとっていく力も求められるのである。でも僕は千葉さんや萩原さんが入ればなんとかなるだろうと思っていた。
「新しいメンバーが変な人だったら怖いんだけど」
「怖い怖いって来てからじゃないとわからないよ」
「萩原はボス的な存在だからいいんだよ。肩身の狭い男性看護師の気持ちなんてわかりはしないのさ」
「またひねくれて! 有野はすぐにひねくれるんだから。大金さんのひねくれといい勝負しているよ」
「大金さんと比べてくれるな」
生ビールを飲み干した僕を見た萩原が「またビール?」と聞いてきた。
「いや。今度はハイボールが飲みたい」
なんだかんだ言って世話を焼いてくれるのは同期だ。萩原はハイボールを注文してくれた。
「持つべきものは同期だな」
僕がぼそりと言うと「なんか言った?」と言ったので「なにも言っていない」と返す。萩原が注文したハイボールはすぐにやってきた。
「この大変な病棟に」
「乾杯」
グラスに入っているハイボールを半分ほどまで飲み干すとぐらりと視界が揺れた。
「萩原の方こそ最近どうなんだよ」
「どうって。何も変わんないわよ」
「新しく入った人たちとはうまくやってんの?」
「やってないよ。うまくする気もない」
「萩原よ。ほんとそれはダメだぞ」
「いいのよ。人見知りだから」
「いや。人見知りという言葉で片付けられることではない」
萩原は極度の人見知りだ。極度というかたちの悪い人見知りである。僕も最初に萩原と会った時、近づいてはいけないオーラがすごくて中々話しかけることができなかったし話しかけても会話が続かなかったのを覚えている。今ではそれが笑話しではあるが。
「いいか。看護師はチームでやるものだ。例えるならサッカーに似ている。フォワードがいたりボランチがいたり、サイドミッドフィルダーがいたり。ディフェンダーがいたり」
「説教はいいのよ。私はただ有野の悩みを肴にして美味しい酒を飲みたいだけ」
「人の悩みを勝手に酒の肴にするなよ。趣味が悪いぞ」
「有野は考えすぎなんだよ。あれこれぐるぐると考えてずっと悩んでいる。いつも。はたから見ていると大変だねぇと思うよ。私みたいに豪快に生きた方が楽だよ。」
「それができんから苦労しているのだ」
飲みすぎたのか少し景色がぐらりと揺れた。ただこの時間が充実しているのは間違いない。それだけは確かだった。
萩原と飲んだ次の日は夜勤であった。例のごとくたっぷりと寝て体力満タンな私は出勤して忙しく走り回っていた。珍しいことに入院がなく落ち着いている夜勤であった。萩原も三国くんもいつもより余裕がある様子である。僕の患者もバイタルサインに変動がある患者さんはいなかった。ナカムラさんも落ち着いている。午後二十三時を周りナースステーションで記録をしていると水島さんが点滴棒を引いてナースステーションにやってきた。
「お兄さんよ」
「はい。どうされました?」
水島さんの手にはカップラーメンがある。水島さんの持ち込みは許可されている。
「お湯が欲しいけれどもらえないかい」
本来ならやけどのリスクがあるためお湯は患者には渡してはいない。けれど一年の半分くらいはこの病院で過ごしている水島さんは密かにお湯をあげている。入退院歴が多い水島さんは新人看護師よりこの病棟の抜け穴を知っている。
「いいですよ」
僕は水島さんからカップラーメンを受け取り休憩室に行った。そこにあるポッドでお湯を入れて水島さんへと渡す。
「ありがとう」
水島さんは満足げな様子だった。
「お礼に一ついいこと教えてあげる」
「はい?」
「今日も黒い人がうろついているから気をつけた方がいいかも」
水島さんはニヤリと笑って戻って行った。
「なんなんですかね。」
後ろで聞いていた三国くんが言った。
「水島さんが言うことは当たるから頭の片隅に置いといた方がいいわよ」
千葉さんがそう言うと三国くんは「まじっすか」と驚いた。そうなのである。水島さんが言うことは当たる確率が高い。嫌な予感を感じているとナースコールが鳴ったので僕はナースコールを取って患者の元へと向かった。
続く
看る人-ある男性看護師の物語- @ganahayoutarou
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