実験小説
薮坂
トンカツと愚痴
あぁ、クソッ! もう無理だぁーッ!
三月の夜とは思えない程、暖かな夜。時刻は十一時を少し過ぎたころ。僕は額に汗をかきながら一心不乱にその作業を行なっていた。
思えば、全てが上手く行っていなかった。三月に入ってからと言うもの、僕に良いことなんてひとつも訪れていない。いやこれは微妙にウソだ、三月に入ってからじゃなく、そもそも今年に入ってから良いことなんてひとつもなかったのだ。
例を挙げればキリがないが、とにかく何も、何ひとつ上手く行っていない。良いことが無い。いやいや、ひとつくらいあるんじゃないの? と思うかも知れないけど、そう思いたいのは他でもない僕である。
その代わりと言っては完全に難があるけれど、良いことが無い代わりに、愚痴だけは売れそうなくらいにあるのだった。最近思ったけど、どうやら「良いこと」と「愚痴」は反比例の関係にあるらしい。
こうなったら、その愚痴をひとつずつ挙げていこうと思う。そうしなければ精神の均衡を保てない自信がある。
これは、要するにただの愚痴だ。他人の愚痴になんて何の価値も無いことは、皆も知っての通りだと思う。しかし、この愚痴は人間の精神を平穏に保つのに持ってこいなのだ。聴く側には本当、1円の価値もないが、言う側には値千金の価値がある。と、僕は真剣に思う。
そもそも愚痴がこの世から無くならないのは、生きる上で必要なことに違いないのだ。だから。
──よし始めるぞ。時間もない事だしな。
まずは仕事、仕事の愚痴からだ。
「仕事が楽しいなら人生は楽園に、仕事が苦痛なら人生は牢獄になる──」とは誰の言葉だったか。憶えてないけどこれは真なりだろう。
はっきり言って今の自分の仕事は好きじゃない。いやこれもウソだ、そもそも仕事を好きだなんて思ったことは一度もない。
そんな僕は、年明けから立ち上がったあるプロジェクトのメンバに入れられ、普段の業務とは全然違う業務に従事していた。これがまた酷い。
まず仕事内容が酷い。普段の業務も酷いのだが、今のプロジェクトの業務は輪をかけて酷い。
喩えるなら、普段の業務は「パソコンで文字を打ち込んでいく仕事」なのに、今やっている仕事は「トンカツをカラリと揚げる仕事」、これである。
え? 何言ってるかわからない?
大丈夫、僕にだってわからない。
「あぁ、なるほど。どちらもサクサクが身上ってことね──」なんて言ってくれる人がいたらその人は神か天使に違いない。ありがとう、僕はあなたのお陰で生きています。
完全にしょうもないことを言ってしまったけれど、とにかく今やっている仕事は普段の仕事とはかけ離れている。それが言いたいってことだ。
そもそもこのプロジェクトはもちろん、僕が望んで参加している訳ではない。自分の部署でリアル窓際にいて(夕陽がキレイ)、さらにそこで末席の僕がそのプロジェクトに参加するのは必定だった。早い話、厄介払いってこと。いやそれよりは生贄に近いか。
プロジェクトチームに各課要員を一名ずつ差し出せ、となった際、僕が真っ先に出荷されるのは確実であった。
どれくらい確実かというと、トンカツ定食にはキャベツの千切りが付いてくるくらいに確実。ほぼ十割。僕は今まで、キャベツの千切りなしのトンカツ定食に出会った事はないのである。
またトンカツの話かよ! とは言わないで欲しい。今日の僕の頭の中はトンカツまみれなのだ。
そんな訳で僕は、毎日毎日神経を擦り減らして、そのプロジェクトチームでトンカツをカラリと揚げている。
え? トンカツを美味しく揚げるコツ? そんなもん知るか、あったら僕に教えてくれ。もちろん
……すいません、ほんとすいません。はい次。
ええと、どこまで愚痴を言ったっけ。そうだ、次は上司の愚痴。これはプロジェクトチームの上司ではなく、現在籍を置く僕の部署の上司の愚痴。
僕の上司はいい加減だ。良い湯加減、とかの加減ではなく、ダメな方のいい加減。あるいは下限。
よくそんなんでその職級になったな、と思えるくらいにいい加減。だから万年窓際族なんだよ、とは言えない。僕もその部署だから。
まぁ仕事をしないのは百歩譲ってよしとしても、上司は僕に仕事の大半を押し付けて、友達が居ないから僕を昼飯に誘う。これが許せない。こっちはあんたのおかげで忙しいのに、僕をよく昼飯に誘えるな! と思う。断れば良いのだけど、僕も組織人だ。それにお人好し。だから僕は、上司を立てて昼飯に付き合う。
この上司が僕を昼飯に誘う時、食べるのはそう、決まってトンカツだ。だから、さっきから僕はトンカツトンカツ言ってるワケだ。
サクサクしたトンカツを食べながら、僕は上司の愚痴を聞く。やれ最近の若いのは、とか。いや知らないよ、若いのに言えよ。僕はもう若くない。あんたが食べてるイベリ子豚のトンカツより確実に歳食ってるよ。
──あぁ、本当にすいません。すいません。
よし次。次は家庭の愚痴。これはもう愚痴っていうより、叫びだな。
僕は最近、この「トンカツを揚げる仕事」で帰りが結構遅い。酷い時は帰りが午前になることさえある。僕には幸か不幸か妻がいるのだけど、この妻がまた酷い。いや、酷いなんて言ったら後で本当に酷い目に遭うからやめて置きたいけど、これは愚痴だ。愚痴を言う機会だ。前述のとおり、それを言わなきゃ精神の均衡を保てない。僕は言うぞ、臆することなく言ってやるぞッ!
僕の妻は専業主婦だ。ちなみに妻は、望んで専業主婦でいる。なかなか出来なかった子供が出来た際、妻が「私、この子が三歳になるまでは付きっきりで育てようと思うの。だからお仕事、一人で粉骨砕身頑張ってね!」とハートマーク付きで言ってくれるくらいに、僕のことを愛してくれる良妻なのだ。
ちなみに僕の生命保険は子供が生まれた時を境に掛け金が上がっている。まさに無駄のない、先を見据えた資産運用。子供の未来のために頑張る母親。素晴らしい良妻賢母だろう! お金のことについてもちゃんと考えてくれている、素晴らしい妻なのさ。
今日も仕事が遅くなって家に帰ってきたら、妻はちゃんと僕の晩飯を用意してくれているのだ。疲れた時に、僕の好物を用意してくれる妻。本当に出来た妻だよな。
晩飯のメニューは何かって? もう聞かなくてもわかるだろ? そんなのもちろんトンカツさ。昼飯と夜飯、どっちもトンカツだぜ。トンカツのダブルヘッダー。カロリーオーバー待ったなし! 動脈硬化のリスクも相まって、生命保険の価格を上げた甲斐があるってものさ。
──あぁ、妻の愚痴を言うつもりが褒めるだけになってしまった。僕も甘いなぁ。
さて。最後は趣味の愚痴といこうか。
趣味に愚痴? と思うかも知れない。趣味ってのは基本、自分が楽しむためにやるものだ。僕の趣味は、不思議なことに大っぴらにしにくい事なんだけど、小説を書く事だ。
僕が普段入り浸っているサイトは、この三月でめでたく4周年を迎えたらしい。
そこで「お祭り」と称して、同じテーマでいろんな人から小説を広く募集している。
それの最後のお題が「どんでん返し」。最後の最後で一番難しいヤツが来た。しかもこれ、十日間で五つのお題を三十六時間で消化していく──って狂気のお祭りだぜ。
このお祭りを考えた運営さんは凄いよなぁ。
で、話は戻るけど。
最後のお題はどんでん返し。
この僕の愚痴が、締め切りまで一時間を切ってから急ぎに急いで書き始めたこの愚痴が、実は「最後のお題を消化する小説になっていた──」って言ったら、誰か一人でも納得してくれるだろうか?
どんでん返しってのは、凄い! って思うものだけじゃない。
これは酷い! って言うのも、それはそれでどんでん返し。
さぁ、みんなもこれを読んで言ってみよう。
「これは酷い!」
【完】
実験小説 薮坂 @yabusaka
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