小狐の赤い財布
葵月詞菜
第1話 小狐の赤い財布
今日は朝からすこぶるツイていない日だった。
いつもかけている目覚まし時計は鳴らず、母親に起こされたのがいつもより一時間遅い時間。信じられない気持ちで時計を見ると、針は深夜の二時十八分を指して止まっていた。寝る前まで問題なく時を刻んでいたというのに。
朝練があっても十分遅刻だが、マッハで朝食をかきこみ、何とかいつもよりも十五分遅いくらいに家を出た。計算では、自転車を飛ばして十分前に学校へ、始業五分前には教室に到着できるはずだった。
だが、さあ自転車に乗ってペダルを踏み出した途端、タイヤがへこんだ感じがした。まさかと思って確認すると――パンクしている。昨日夜に帰った時まで普通に乗れていたのに。
「……」
その瞬間、
とはいえ仕方がないので、公共交通機関を使って――最寄駅から電車で二駅、徒歩十五分のルートに切り替えた。
しかし、駅の改札を抜けて電車を待つも、電車は一向にやってこなかった。周りにいる人々がざわざわとし始めたその時、ホームにアナウンスが流れた。
『みなさまにお知らせ致します。先程、〇〇駅にて電車の中に不審な荷物を発見したため、現在確認作業を行っております。お急ぎのところご迷惑をおかけしますが……』
急ぎの用事があるのだろう人々が早くも移動を開始する中、初音はあいたベンチに腰を下ろした。今さらもうバスに乗り換える気力もなかった。
(私、一体何時に学校に着けるんだろう?)
それから三十分程経った頃、ようやく電車が到着した。遅れた分、車両はどこも満員で、初音は狭い隙間の中で押し潰されるように立っていた。
二つ先の駅で降りた時には、たった五分の間のことなのに汗びっしょりで体はぐったりと疲弊していた。
駅には他に同じ制服の生徒の姿はなく、初音はのんびりと改札を抜けて歩き出した。
その時にはすでに一時間目が始まって三十分は経過していた。
学校近くの大通りに出て、もう校門も見えて来たという頃、道の先に何やら赤い物を見つけてしまった。
「?」
近寄ってみると、それが革の財布であることが分かった。まだ新しいのか色が鮮やかだ。
そっと中身を確認すると、まあまあな金額が入っている。
初音は来た道を振り返った。大通りを学校とは反対側に少し行くと交番がある。
「……」
少し考えて、今さらかと思い直して交番へと足を向けた。
結局、教室に着いたのは二時間目が始まって少ししたくらいだった。授業が始まっていたせいで、英語科目担当の先生に注意をされてしまった。
「初音ちゃん、大丈夫?」
休み時間に入って友人が声をかけて来た時には、机の上に突っ伏して見事に消沈していた。
「……何か、疲れた」
お昼休みまですこぶる長く感じた。なにせ、学校に到着するまでが色々ありすぎて疲れ果てていた。
「ほら、お昼休みだよ。一緒にご飯食べよう!」
「うん……」
そうだ、お昼だ。お弁当だ。現金なお腹が空腹を訴えるのを聞きながら、初音は通学鞄にしているスポーツバッグを開いた。いつもなら、端にピンク色の包みが見えるはずだった。
「……あれ」
まさか……まさか!
「初音ちゃん?」
「お弁当……忘れたっぽい……」
そうだ、今朝は遅刻したせいで、朝食をかきこむなり家を飛び出したのだった。そういえば後ろで母親が何か言っていた気もするが、もしかしてお弁当のことだったのだろうか。
いや、今日にいたってはもう何があってもおかしくない。
初音は鞄の中の内ポケットにしまっている、いざという時のための隠し財産を出した。まさかこんな所で日の目を見ることになろうとは。
「ちょっと購買行ってきまーす……」
もちろん購買にはすでに大勢の生徒たちが群れていて、出遅れた初音は残り物をかき集めてお昼ご飯を調達するしかなかったのだった。
それからも地味にツイていないことは続いた。
先生の手伝いをしたらついでとばかりに雑用を頼まれ、部活に遅刻するはめになった。さらには部活の試合形式の稽古で惜しいミスを連発して負け、最後の掃除では床拭きの最中に信じられないくらい盛大にすっころんで恥をかいた。
本当、今日は何の厄日なんだろう。
初音は溜め息を吐きつつも、慎重に校門を出た。今日はもう寝るまで何が起こるか分からない。とりあえず家に帰るまでは無事でいたいものだ。
足元に注意しながら――もう二度はこけたくない――ゆっくりと歩道を歩いていく。
今朝、赤い財布を見付けた辺りまで来て、持ち主は見つかっただろうかとぼんやりと考えた。
「おう、初音やないか!」
「えっ」
いきなり声をかけられて驚き、危うく足を引っかけそうになった。
「大丈夫か?」
足元から聞こえてくる声に下を見ると、そこには小さな獣がいる。小狐だ。――ただし、二足歩行で立ち、コートのような衣服に身を包み、毛糸で編んだ小さな鞄を斜め掛けにしていた。
「また君か……」
初音は喋る小狐に驚くよりも安堵を覚えた。これまでにも何度か顔を合わせており、すっかり慣れてしまっていた。
「何やえらい疲れた顔してんなあ。学校そんなに大変やったんか?」
小狐が関西弁のイントネーションで、心配そうに見上げてくる。
「ちょっと今日は朝から色々あってね……」
初音は大きなため息を吐いて、また歩みを再開した。小狐が傍らをトコトコとついて来る。ぽつりぽつりと今日の出来事をダイジェストで聞かせると、小狐は眉を八の字にした。
「それは大変やったなあ」
小狐に憐れまれてしまった。初音は小さく苦笑する。
「でもそうか、わいは初音に助けられたんやなあ」
「ん? 何の話?」
初音が小首を傾げると、小狐が斜め掛けにした鞄から赤い革の財布を取り出した。
「あ! それ! 私が拾ったやつ!」
「そうや。これ落としたんわいやってん。交番に届けてもろて助かったわ」
小狐は嬉しそうに赤い財布を胸に抱く。だが初音はさらに首を傾げた。
「え、きつねさん、交番に行ったの?」
「行ったで。落とし物した時と拾った時は交番やろ」
それはそうなのだが。小狐も不思議そうに首を傾げている。
「いや、そうなんだけど、そうじゃなくて。その姿で行ったんじゃないよね?」
ちょっと、いやだいぶ変な小狐だ。果たしてお巡りさんが対応してくれるのかどうかも怪しい。すると小狐は小さく笑った。
「ああ、大丈夫や。届けるくらいならわいが人間に化けることもあるんやけど、今回は――」
「オレが代わりに行ってやった」
「! キリちゃん!?」
気配なくぬっと現れたのは昔馴染みの青年だった。この小狐の友人でもある。
「そうそう、今回はキリに頼んだんや。人間の方がスムーズやし楽やねん」
「オレは面倒くさい確認やらをしたんだけどな」
「だからお礼にジュース奢ったったやんか」
「百五十円の缶ジュース一本な」
「そうや、これは初音に」
小狐がどこから取り出したのか、缶ジュースを二本取り出して初音に渡す。
「あ、ありがとう……」
財布を拾ったお礼は缶ジュース二つに化けた。正直、少し安すぎると思わなくもない。
「じゃあまた遊びにくるなあ」
小狐はそう言って手を振ると、次の瞬間には目の前から消え去っていた。まるで幻を見ていたかのような錯覚に陥る。
「何だったの……」
「何だったんだろうな」
呆然とした初音に、八霧はどうでもよさそうに返す。彼にとっては慣れた調子だった。
「それよりお前、ずいぶんずたぼろなオーラだけど」
改めて八霧が初音の全身を見て言う。ついにオーラにまで疲労が滲み出ていたか。
「ああ、うん、色々あってさ」
初音はまた溜め息を吐き、先程小狐にも語ったダイジェストを聞かせた。
「あっははは。すげーな!」
聞き終わった八霧は失礼にも笑い出す。初音は頬を膨らませて青年を睨み上げた。
「ホントに散々だったんだからね!」
「いやあ、もうそこまでいったらホントツイてない日だったんだなあ」
暫く笑い続けた彼は、やがて目元を拭って――どうやら涙まで出ていたらしい――初音の頭にポンと手を乗せた。
「まあ良かったじゃねーか。最後に缶ジュースが二本も手に入って!」
「安すぎるでしょ!」
「まあそれは同感だけど」
八霧がまた笑い出す。初音はむくれたまま、彼とともに駅まで歩き続けた。家は同じ地域にあるので帰る方向は一緒だ。
「でもキリちゃん、まさか本当にきつねさんの財布のためだけにここに来たの?」
「いや、家に帰ってたところを偶然呼び出されたってだけ」
彼は県外の西の地方の大学に進学しており、滅多に帰省しない。だからここにいることが少し不思議な感じがした。
(でもあのきつねさんがいるとキリちゃんも現れる率が高いよね)
ここ最近、彼と顔を合わせる時はたいがいあの小狐がいたような気がする。
今日だってそうだ。
「キリちゃん、今日はとことんツイてなかったから、帰りにコンビニで何か奢ってよ」
電車を待ちながら何となく言ってみると、八霧は小さく笑った。
「しゃーねーな。じゃあ一個だけだぞ」
「やった。じゃあ一番高いのにしよ」
朝とは違い、電車は時間通りにホームに滑り込んできた。
初音は隣に立つ、背の高い青年をこっそり見上げる。
(キリちゃんと一緒なら、電車だって待ってられるのにな)
あのどうしようもなく焦りと諦めの混じった複雑な気持ちで電車を待つ時間は、途方もなく長く感じた。
「ほら、行くぞ」
「うん」
今日は朝から散々なツイてない日だったけれど、最後はそうでもないようだった。
赤い財布を拾ってきつねさんと出会って、八霧にも出会えた。
帰るまではきっと幸せな時間だろうと初音は思った。
小狐の赤い財布 葵月詞菜 @kotosa3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます