錠剤

あぷちろ

とある日常

 ごん、と鈍い音が頭に響く。程なくして鈍い痛みが頭を駆け巡る。

「……ぐぁ」

 せっかく夢見心地でソファーにもたれていたのに、落下の痛みで完全に目が覚めた。

「痛っー」

 私は床に倒れた体を起こす。外では未だに私を脅かした原因である、ぱらららという破裂音が続いている。

 私は鈍痛がする頭をさすりながら、音の発生元を見つける為に玄関へ向かった。

 玄関を開けると、連続した破裂音が辺りに響いている。日は完全に落ちており、アパートの2階から見える景色はどこか寂しい。

 私は手すりから身を乗り出して階下を見下す。そこでは、暗闇の中でもわかるくらい鮮やかな緑色の髪をした女性が爆竹に点火していた。

「……なにやってんの」

 私の声に反応したのか、緩慢な動作で見上げる。

「ういーす、さよー」

 呂律の回らない口で私のものらしき名前を呼ぶ。というか、さよって誰よ、私の名前は沙夜だ。

「また、クスリ、ヤってるの?」

 私は緑髪の女性、亜矢子に問いかけた。

「えー、何もしてないよー?」

 嘘だ。目が虚ろだし、フラフラだし、言動がおかしいし……あ、彼女がおかしいのは元からか。

「嘘つけ。とりあえず、爆竹を鳴らすのやめなさい。五月蝿いから」

「へー? 五月蝿い? 花火より綺麗じゃなーい」

 亜矢子は突然、背中から地面に倒れた。たぶんバランスを崩して脚をもつれさせたのだろう。

「あー、しょうがないな」

 私はカンカンカン、と赤錆の酷い階段を降りた。

「わー、さよがめっさちかいー」

 へらへらと亜矢子は顔を歪める。

「肩かしてあげるから部屋に戻るよ。ほら、立って」

 私は亜矢子を無理やり立たせて、彼女の部屋に向かう。亜矢子の部屋が1階でよかったと、こいうときに感謝する。

「んっ、しょ」

 片手で器用に扉を開けて、亜矢子を担ぎ込んだ。

 バタン、ドアがけたたましい音を立てて閉じた。私は手探りで電灯のスイッチを探す。

 軽いクリック音をたてて、真っ暗だった部屋に電気が灯る。

「ゔぐぅ」

 隣から蛙を潰したような声が聞こえた。あー、光に過敏になってるのか……。

 若干、彼女の様子に気を配りながら1LDKの部屋を奥まで進む。隣からは「うぁー」だとか「まぶひー」とかよくわからない言語が聴こえるが気にしない。

 私はやっとのことでベッドの近くまで行くと、その上に亜矢子を転がした。

「えへー、ありがとう」

 亜矢子は幸せそうな顔で感謝を述べる。

「いいかげんやめなよ」

 無駄だと分かっていても注意をしてしまう。

「ん? 何をー」

 あくまでとぼける亜矢子。私は部屋の中を見渡す。

 綺麗に整頓されている。本棚には英語やらドイツ語やら、よくわからない言葉で書かれた本が背表紙の色ごとに、一分の歪みもなく並べられている。その本棚の横にはパソコンラックがある。ラックに乗っかっているのは新品同様に綺麗に掃除されている彼女の仕事道具らしきパソコン。

 部屋の中心にはガラスのおしゃれな机がある。

 机の上に、錠剤の入った透明な袋と半分まで水の入ったコップが置いてある。私は眉を顰めた。

「怖い顔。べつにただのビタミン剤ぃ」

 嘘だ。ただのビタミン剤でこんなことになるわけがない。

「亜矢子、お願いだから……」

 私は小さく呟いた。亜矢子は少しだけ悲しそうに笑った。




 亜矢子は翻訳家だ。彼女は私に仕事の事はあまり話さないが、それでも彼女の活躍は知っている。専門書からファンタジーまで、あらゆるジャンルの本やあらゆる言語の書籍を正確に、原作に忠実に翻訳すると、世間では天才翻訳家だとかもてはやされている。

 しかしその実態は、薬物依存のダメ人間であった。仕事が無いときは毎日のように薬物(本人はただのアロマと言い切る)を摂取していて、親友の私がいくら注意、忠告しても一向に止める気配がない。そろそろ真剣に病院にお世話になる事を考えなければ。




「おきろー!!」

 キーン。快活な大声が頭を揺さぶる。見上げると、亜矢子が可愛く頬を膨らまして仁王立ちしている。

「う、耳がきんきんする……」

「起きろー、お腹すいた!朝ごはんつくって」

「それくらい自分で作れるでしょうが」

 私は目をこすりながら周りの状況を把握する。昨日、亜矢子をベッドに運んだあと、話し相手になってそのまま寝ちゃったんだっけか。

「やだ、面倒くさいし。それに私は沙夜の作ったご飯が食べたいの」

 頬を膨らましてまま微笑む。なんて器用なことをするんだ。

「しょうがないなぁ」

 このままでは押し問答になってしまいそうなので、仕方なく朝食を作ることにした。幸い、大学の講義は午後からだ。

「ふふっ、ありがとう」

 亜矢子は優しく微笑んだ。


 そんな日常を繰り返していたある冬のこと、私は一瞬にして絶望の淵に落とされた。

 ——いや、そう感じたのは私だけなのかもしれないし、むしろ相手を絶望の淵に落としたと言った方が正しいかもしれない。

 簡単に言うと、付き合っていた彼氏を振ったのだ。こういう暗い感情になるのは筋違いだと思うのだが、それでも、やっぱり落ち込んでしまう。

 何もしたくない。ベッドにもたれて、何も考えず、白い天井を見つめる。

 なぜ別れたのか分からない。理由なんてないのかもしれないけど、大切な人を失った事に変わりはない。

 がちゃりと玄関のドアが前触れもなく開く。

 顔を動かさずに眼だけを音のする方へ動かす。部屋に侵入して来たのは一度見たら忘れるはずのない鮮やかな緑色。彼女は私を見て開口一番、

「来ちゃった」

 と、顔を歪めた。

「……うん」

 それ以上の言葉が見つからずに口を閉じる。

 亜矢子はずけずけとこちらに歩いて来て、机の上にワインボトルを置いた。

「グラス借りるよー」

 勝手知る他人の家、亜矢子は流れる様な動作でグラスを2つ、ボトルの隣に並べた。

 グラスの中に薄黄色の透き通った液体が注がれる。しゅわしゅわとした泡が液体の表面で弾ける。

「はい、どうぞ」

 渡されたグラスを私は眺める。香りから察するにシャンパンだろう。亜矢子は私の横に密着するように座った。

「乾杯」

 私のグラスと亜矢子のグラスが触れる。

「美味しい」

 亜矢子は独り言のように呟いた。私は一切口をつけずにグラスを眺めている。

「沙夜は飲まないの?」

 私は無言で頷く。

「そか」

 特になにも語る気にならずにグラスを机に置いた。

 瞬間、唇になにか柔らかいものが押し付けられた。それが亜矢子の唇であると気づくまでそんなに時間はいらなかった。私が突然の事に唖然としている間に、口の中へとシャンパンと何かが流し込まれる。

 亜矢子はゆっくりと唇を離した。

「なに……を」

 キスをしたという事実とアルコールの所為で顔が熱くなる。

「うん。前に私が飲んでたお薬をね」

 くらり、途端に世界が揺れ歪みだす。悪酔いしたときのような、世界が反転するような気持ち悪さ。

「大丈夫、怖くないから」

 私は亜矢子の腕の中で頭を泣きじゃくる子供をあやすように撫でられる。何時の間にか涙が溢れている。

 高い場所からゆっくりと落ちるような浮遊感。

 しだいに揺りかごの中にいるみたいで心が落ち着いてくる。

「ほら、大丈夫だったでしょ?」

「あやちゃん……」

 なりふり構わずに亜矢子の服に顔をなすりつける。これじゃあ子供のようだ。

「よしよし、甘えてもいいんだよ」

 そう言った亜矢子の表情は輝いて見えて、とてもキレイで愛おしい。

「私ね、あやちゃんが好きなの。好きで好きで好きなの」

「私もさよちゃんが好きよ」

「あの人と付き合ってても、いつもあやちゃんの事を考えちゃって」

 感情が止めどなく溢れ出る。留めようとしても、堰を切ったように今まで伝えられずにいた感情が流れ出る。

「いつもいつも、あやちゃんに会えるのが楽しみで、ここに引っ越してきたのもあやちゃんがいたからだし、ずっと隣に居たいし居て欲しい。でも、」

「でも?」

「前みたいにへろへろになるまで薬やるとか、やめてね。怖いから……あやちゃんが心配でしんぱ……」

 唾液だとか空気だとかが喉につまり、盛大に咳き込む。私はまだ口をつけてないグラスを一気に煽る。

「げほっ、んっ」

 はぁ、と溜まったアルコールが混じった息を吐く。

「あやちゃんが心配でしょうがないの!ずっと一緒にいれる訳じゃないし」

 風景が涙で滲む。亜矢子は押し黙ったままだ。

「でも……私は、亜矢子と一緒にいたいのぉっ」

 それは心の底からの悲痛な叫び。

 亜矢子は優しく私の肩を抱いた。

「うん。一緒に居ようね、ずっと、ずっと、」

 亜矢子は愛おしく、私の唇に口づけをした。




「そういやさ」

「ん、なに?」

「沙夜に飲ましたあの錠剤、ほんとにビタミン剤だったんだよね」

「へー……えっ!」



おわり(?)

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錠剤 あぷちろ @aputiro

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