最終話 春の声

 春乃は四月から産休に入る事になった。出産予定日は夏になっている。

 三月の週末の夕方だ。春乃は一日の仕事を終えていた。夕飯のメニューは何にしようかと、スマホで色々と調べる。家にある食材を思い出し、買わなきゃいけない食材を考える。

 春乃の仕事はすでにかなり減り、生活にあてられる時間が増えている。自宅に仕事を持ち込んだりせずに、義博と映画やネット動画を楽しめていた。

 けれどもやはり春乃は患者が気がかりになる事がある。生活の中のふとした瞬間に患者の事を思い返す春乃がいる。

 今週の診察で明盛の心配事は、会社の利益が下がり、解決方法がまだ見つからない事だ。那帆の心配事は体験学習が間近で、子供への接し方に不安がある事だ。

 二人の病状は特に下がってきていない。波はあるが、前よりは落ち着いた精神のほうへ上がってきていた。春乃は二人の薬を調整しなかったし、余計なアドバイスはしなかった。

 明盛はやはり収入の悩みが解決した事が大きかった。那帆はよく藤田の家に呼ばれている様子で、那帆の世界がどんどん広がっていく気配があった。

 春乃は夕飯の料理にユリ根の卵とじを作る事を決める。

「体調は大丈夫? 買い物があるなら、俺がやるよ」

 義博からスマホに連絡がくる。春乃はちょっと考え、義博に任せる事にする。

 産休中に春乃の代わりに働く医師が決まっていた。帯広アウローラ病院を四年前に退職し、帯広で老後生活を楽しんでいる野沢という女性医師だ。春乃が今担当している患者に野沢を知る者も多い。帯広アウローラ病院での信頼が厚い女性医師だった。

 勝矢がその野沢しかいないと深く頭を下げて頼み込んだ。

「私はこういう時のために、早く隠居したのよ」

 野沢は二つ返事で勝矢に答えた。

 戦々恐々としているのは土方だ。土方は野沢から精神科医としてのイロハを教わった。がんの内科医の意識で仕事をしていた土方を、一度叩き潰している。

 論文など、色々な仕事の引継ぎが始まり、いくつかはもう春乃の仕事でなくなっていた。

 帯広アウローラ病院の医局の、どの医師も春乃に協力的だ。春乃に専業主婦になる考えは微塵もないからだ。ただでさえ忙しい医師達は、春乃が戻ってこない事を恐怖に感じている。

 なにより春乃がいるだけで、医局の空気が和むからだ。

「あー、疲れちゃった」

 週明けの月曜日の夕方、いつものように土方が医局に戻ってくると、まだ春乃がそこにいた。

「少し疲れてないか? 大丈夫か?」

「少しだけです。もう帰ります。事務仕事が残っていただけです」

「すぐ無理をしようとする。無理はやめなよ」

 土方はそう言うと春乃の脈を測り、目と耳を観察する。春乃が妊娠してから土方は暇があればそうしてしまう。土方も医師として思う事は山ほどあった。

「しかしずいぶん急いで結婚したな。理由はあったのか?」

 春乃は答えを見つけるが、うまく言えるかわからない。

「人生に希望というか、潤いと言うか、休みがほしくなったんです」

「休み? 変なの。子供が産まれたら、休める時間なんてなくなるのに」

「そうなんですけど…」

 春乃は義博に抱かれるようになって、そこで頭と心がやけに休めるのに気づいた。義博の前は大学時代の彼氏で、ひどく興奮するばかりだった。それが義博と体を密着させ、義博の腕に抱かれると、その時だけは休まる自分の一部分に気づいた。

 春乃は頭をフル回転させて生きる毎日に疲弊しきっていた。

 とにかく春乃は子供を思う時間がほしくなった。子供を思う時間は、その時だけ仕事から頭を離せると思ったからだ。希望を思う時間を春乃は求めていた。

「なんとなくわかる、かな?」

 土方はそう言うと、何度か頷く。

 その日は三月で、北海道はまだ寒さが辛いままの季節だ。けれども四月になれば暖かくなり、春は必ずくる。春乃は温かい医局と、さっきまでは外が明るかったのに気づいた。

「もうすぐ春だね」

 なんとなく土方が言う。

「春ですね。やっと」

 もう春だ。春乃の季節がやってこようとしていた。

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その白い声を聴かせて 吉澤文彦 @F_Yoshizawa

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