第58話 導きのてのひら

 午前十一時を過ぎた頃、藤田と那帆は台所で料理を始める。那帆はデイケアで少し料理をやっているものの、始めたばかりで何もかも不器用だ。でも道具の使い方はわかるから、藤田は那帆にとりあえず何でもやらせてみる。

 ハムを包丁で切るように藤田は頼む。那帆は慎重に手を切らないように集中する。

 藤田はキャベツの千切りも挑戦させてみたかったが、さすがにそれはやめた。

「料理はどう? 楽しい?」

「難しいです。覚えることが多いし、注意が必要だし」

「それでいいのよ、那帆」

 藤田は嬉しそうに那帆に言う。那帆は藤田が何を伝えたいのかわからない。料理を一緒に作るために呼んだのは確かだが、料理に何があるのだろうと思う。

「那帆のお母さんから電話で色々聞いていたら、今の那帆が一番悪いところがわかったの」

 デイケアでも特に何も言われないのに、どこだろうと那帆は思った。

「今の那帆は色んな事を考えすぎている。自分の世界に入りすぎている。もちろん病気のせいかもしれないし、病気になれば誰でも考え込む。でもそれだと那帆は疲れちゃう」

 そこまで言われても那帆はよくわからない。

「頭を休める時間が必要だと思うのよ。そのためにどうすればいいと思う?」

 那帆は答えられない。

「生活を大事にする事よ。朝は起きたらきちんと洗顔して、服を着替える。部屋をきちんと掃除する。きれいに見えても掃除をする。料理を作って、食べる。食べた後は何か買わなきゃいけない物はないか探す。歯を磨く。洗濯をする。一日一回は出かける。何でもいいから用事を済ませる。そうするとね、余計な事を考える時間がぐっと減るの」

 渡部がアドバイスしてきた事を、藤田も指摘してきた。

 やっと生活の大切に気づき、那帆は渡部にも言われたと藤田に話す。

「だって大学の先生に毎日言われた事だもの。人間だったらおしゃれを大事にしなさいって。家にいる時もきちんと顔を洗って、お化粧するならうまくなりなさい。どんな服を着れば自分が一番良く見せられるか考えなさいって。ピアノを弾く前にそれが大事って。毎日生活の大切さを教わったの」

「毎日?」

「毎日。ピアノはよく褒めてくれたけど、生活には厳しかった」

 藤田は笑って言う。

「私も大学生の頃はうるさく思ったけど、ピアノの講師になってから、どれだけ大事な事なのか痛感したわ。教室が素敵じゃなかったら、子供なんてやる気をなくし、私が汚い姿をしてたら、何もかも台無しだから」

 藤田の家は掃除がなによりもきれいに行われていた。ピアノ教室の部屋はそれだけでなく、子供が喜びそうなアニメのポスターや、クラシックの世界を味わうためにヨーロッパの風景画もあった。ストーブだけでなくエアコンがあって、加湿器があって、部屋の空気はいつもきれいだった。絨毯がいつもふかふかだった。

 それからも藤田は食事をしながら、色々な生活のアドバイスをした。

「先生、ピアノの事は聞かないの?」

 食後に日本茶を味わいながら、那帆はそう漏らした。

「那帆が話したいなら、聞くよ。でもね…」

 藤田は少し考える。時間を置く。

「那帆のピアノはもう自分で自分がわかるぐらいにはなっている気がするし、那帆の病気がピアノを弾くとどうなるのかもわからないのに、余計な事も言いたくないし…」

 藤田はまた時間を置く。

「一人で歩ける事なら、まずは一人で歩いてみなさいよ」

 藤田は突き放したわけではなく、もう自分のピアノの指導からは巣立つ時だと思った。

「その代わり、生活に関する事を教えてあげるから」

 笑って藤田は言う。那帆は今日の優しい藤田が、そのうち厳しくなるのを一瞬で悟って、一瞬逃げたくなった。

 それから那帆と藤田は千夏の事を心配した。那帆はスマホで千夏から、藤田がクリスマスあたりから優しくなったと聞いていた。藤田は言う。那帆は負けん気が強かったから最後の最後まで厳しくしたが、千夏はきちんとモチベーションを管理しないとダメだとやっと気づいたと漏らした。

「私も馬鹿だから。去年まで気づけなかった」

 藤田は渋い顔で言う。ピアノ教育は反省の毎日だと。

 そのうち那帆は古田に抱かれた事を藤田に見抜かれ、色々と探られた。

「どうして付き合ってもいないのに、そんな気分になったの?」

 女の同士の大事な話だった。

「病気になった自分でも認められるのを確認したかったのかもしれません。自分で自分を認められなかったので」

 藤田はきちんとした理由に安心する。

「那帆、たぶんそれは愛があった時間だよ。那帆はちゃんと愛されたんだよ」

 古田が優しく髪を撫でてくれた事を那帆を思い出す。

 午後三時になる頃だった。その日も午後四時からピアノ教育がある藤田は、その準備を始める。那帆もそれを手伝う。藤田はピアノがある部屋を、きれいなのに掃除したり、部屋を暖めていく。

「那帆さぁ、今度、教室を手伝ってよ」

 藤田は何気なく言う。那帆はきょとんとする。ピアノがまだまだな状態で手伝える事などないと思った。

「ピアノは私が弾くから。那帆はこれで頑張って」

 そう言うと藤田が那帆に渡したのは、タンバリンだった。

「今度の体験学習でデビューしようよ」

 体験学習は幼児教育も受けていない、まだほとんど音楽を知らない子供が集まってくる。いつかの那帆もそこにいた。

「体験学習のコツは、音楽の楽しさと美しさを教えてあげればいいから」

 簡単そうに藤田は言う。那帆はそれがどれだけ大事かを知り尽くしている。

「笑顔の練習をしておいてね」

 さりげなく藤田は言うが、藤田の課題が絶対なのを那帆は覚えている。

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