第57話 再会

 那帆は勇気を出せないまま、新年を迎えてしまった。

 新年のウィーンフィルコンサートとオペラコンサートをテレビで満喫した那帆だったが、重厚な音楽に触れて、胸に去来したのは藤田の事ばかりだった。毎日藤田を思うのに、勇気が出ない。

 正月も休む事なく、那帆はピアノに触れた。小学生の頃まではピアノをサボりたい気持ちも時々あった。練習に疲れてしまったのがその理由だった。しかし中学生ぐらいからいつの間にか、那帆からピアノをサボるという気持ちが消えていた。

 産まれてからその時も、ずっと那帆の人生を豊かにしてきたのはピアノだ。

 今は毎日ピアノに触れないと、精神が安定しない。

 新しい年の最初の日曜だった。病院のデイケアは一昨日の金曜から始まっていた。月曜からのデイケアを思うと那帆は憂鬱だった。里穂は家庭の事情でしばらく休み、堀川と明盛はブログの収益が落ちたと騒ぎ、二人で対策を会議するらしい。

 那帆は早く皆と同じように、思う存分人生を生きたいと思う。

 デイケアのスタッフと話すのは楽しいが、スタッフは他の患者の相談にのる場合や、細々した雑務があるために、そんなに独占もできない。

 渡部からの言葉を聞いて、今の那帆がやりたい事は藤田に会う事だった。もちろん渡部とやり取りがしたいという不純な動機ではない。

 那帆はそわそわする。自分はいつまで意気地なしでいるのだろうと。

 日曜も午後五時になる。冬はもう外が真っ暗だ。高校生まで那帆の午後五時といえば、藤田のレッスンが始まる時間だ。

 気がつくと那帆は藤田の自宅に電話をしていた。藤田の教室は自宅の一部がピアノ教室になっていた。那帆は男に告白などした事はないが、そんな時みたいに高揚してしまう。

 十桁の電話番号だけでスマホから藤田に繋がる。

「もしもし、どちら様でしょうか?」

 電話は無事に藤田の家に繋がった。藤田の家の電話は固定で、番号など出ないタイプだ。

 那帆は軽いパニックになる。何を言っていいか、どうしていいかが出てこない。藤田の声が聞こえたのに、すぐに応答できない。

「どちら様でしょうか?」

「あの…」

 まずは謝るべきか、それとも新年の挨拶からだろうかと那帆は考える。

「那帆かい? 那帆なの?」

 少し語気を強くして、藤田は那帆を呼んだ。怒ったような、心配したような声だ。


 この冬の帯広は雪が少ないシーズンになった。藤田の家は帯広にある公園前の、青い屋根の家だ。那帆は幼い頃から、週に一回、母の運転する車でその家に通った。公園には特別なものは何もないが、夏は芝生が青く、冬は雪が広がる。それを見るだけで心が落ち着く。

 公園も藤田の家も何も変わってなかった。デイケアのない水曜日、午前十時前に那帆は母に送られて藤田の家にやってきた。朝に藤田の教室を訪れるのは、今までにない事だった。色々な意味で那帆は落ち着かない。

 真っ白な雪が公園に広がるのを那帆は少し眺めた。

 藤田の家までは那帆の母が車の運転で導いた。

「一人で会えるよね?」

 母はそう言い、来た道を車で引き返していった。

 緊張したが那帆はインターホンを押せた。藤田はすぐに笑顔で出てきた。薄いピンクのセーターにジーンズのシンプルな格好だ。那帆が高校生だった五年前と変わらない姿だ。

「寒いから早く入りなさい」

 藤田は春のような笑顔で那帆を出迎えた。

 那帆はピアノのある部屋には入らなかった。藤田が案内したのはキッチンだった。高校生の頃までは入らなかった、藤田のプライベートな空間だった。

「おかえりなさい、那帆。座って。寒かったでしょ」

「車だったので大丈夫です」

 那帆は言葉が丁寧になってしまう。高校生の頃はそんなふうではなかったのに。

「母はすぐ帰りましたが、後で迎えにきてくれます」

「そっか、そっか。忙しいんだね」

 藤田は陽気な感じでやかんを火にかけていく。

「ちょっと待ってね。おいしいコーヒーを飲もうよ」

 鬼の形相で音楽を指導する姿とはまったく別人のような柔らかな藤田だ。クラシックを聴いているような豊かな顔を藤田はする。那帆はそんな藤田を知っている。まだ那帆が小学校に入る前、藤田はそんな顔でいつも那帆にピアノの喜びを教えていた。

 那帆は食事をするテーブルの椅子に促される。お湯が沸くと藤田はコーヒーメーカーでコーヒーを作っていく。

 部屋は暖かで、静かだ。音楽やテレビの音はない。

「おいしいです。ありがとうございます」

 藤田は那帆の言葉遣いが丁寧だったり、姿勢を意識しているところが気になる。高校生の頃でも那帆は少し子供だった。乱れた言葉遣いを藤田はいつも心配していた。大人になったとはいえ、那帆は色々と恐縮しすぎていた。

 でも藤田はわざわざ指摘しない。自然に時間が解決するのを待つ。

「病院はどうなの? 編み物したり、いい女友達ができたみたいだけど」

「そこまで母は喋っているんですか?」

「担当医が女の人とか、煙草ばかり吸っているとか」

 那帆は驚いて、帰りたくなる。春乃の事はともかく、煙草は隠しておきたかった。

 藤田は灰皿を出す。

「吸いなさいよ。私にも一本ちょうだい」

 那帆が煙草を渡すと、藤田は煙草に火をつける。

「先生、煙草を吸えたんですね」

「めったに吸わないけどね。自分では買わないけど」

 煙草を手に藤田は楽しそうに笑う。那帆はまだ藤田の前で煙草を吸うか迷う。

「吸いなさいよ。遠慮なんかしないで」

 藤田はちょっと悪い友達のように囁く。那帆は素直になる。那帆も煙草に火をつける。

「編み物はどうなの? うまくなったの?」

「一回やっただけなんです。続けるかどうかは考えています」

「女友達の人とは?」

「仲はいいんですが、結婚しているので忙しいみたいです。早く子供がほしいみたいで、色々あるみたいです」

 いい関係なんだなと藤田は察知する。

「女医さんは? 先生は優しいの?」

「すごく優しくて、親身です。なんというか格好いいんです。いかにも仕事ができる女性で、熱心に話を聞いてくれるんです。ちょっとした事も聞いてくれます。あんなふうになりたいなと思うんですが、私には難しいなって」

 那帆に記憶された春乃は、ちょっと格好良すぎた。

 だんだんと那帆の口数が多くなってきた。昔の那帆はひどいおしゃべりだった。

「もっと聞かせて。病院の看護師さんとかはどうなの?」

 まだ質問しないと喋りそうにない那帆のために、藤田は質問をしていく。

 一時間ほど藤田はじっくりと那帆から近況を聞き出す。

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