第56話 未来を信じて

 自分の病気の話になってしまい、那帆から話が進まなくなる。

「今はどうなの? 病気とか、ピアノとか」

「病気は少し良くなったんですが、ピアノはあんまり…」

 自分の事を聞かれたのに、那帆は話を弾ませる事ができない。渡部を前にして、那帆は自分のピアノの話をするのが苦しくなる。

 渡部は左手で那帆の右手を触った。

「少しでも弾けているなら大丈夫。あなたは強い子らしいから」

「私が? 誰がそんな事を言ったんですか?」

「藤田よ。強い子で、私の最高傑作だって言っていたわ」

 藤田がそんな表現で自分を伝えていた事に、那帆は驚く。

「今が辛いなら、まずはずっと先を見てみたら。十年先、二十年先も今と同じなんてなかなかない。あるとしたら、潘さんの情熱くらいかも」

 渡部がどれほど那帆の病気をわかっているかわからないが、その言葉は的確に近かった。

「二十年先だって、潘さんはピアノを弾きたくなると思う。二十年も経てば、いい薬ができるかもしれない。だからピアノは諦めないで」

 同じ音楽の世界に生きてきたからこそ、渡部には言える事があった。その言葉には強さがあった。

「藤田には会っている?」

 那帆はまた首をふる。どんな顔をされるのかと怖くて会えなかった。

「会いにいきなさいよ。潘さんは藤田の子供でもあるのよ。藤田は子供がいないし」

 確かに那帆は藤田に育てられた。ピアノだけでなく、礼儀や生き方を教わった。

「潘さんはまだ子供なのよ。おばあちゃんやおじいちゃん、ご両親がいるうちは子供なのよ。子供として色んな話をしたらいいと思うなぁ。それに藤田に加えてあげて」

 誰もが那帆に遠慮をして、あまりそんな話をしないのに、渡部は違った。音楽の世界で先に生きてきたこそ、言える事があった。

「ねぇ、潘さん、いい演奏、いい作曲をするためには何が大事だと思う?」

 那帆は考える。いくつか浮かぶが、あまり正解に思えない。

「きちんと曲の世界に入り込む事とかですか?」

「それも合っているけど、生活を大事にする事よ」

「生活?」

 渡部の感覚は独特だったが、那帆にはすぐ理解できた。

「朝はちゃんと起きて、太陽を浴びる。おいしい食事を、おいしく食べる。掃除をして、きれいな部屋で暮らす。洗濯をして、アイロンをかけて、おしゃれを楽しむ。毎日ちゃんとお風呂に入って、体を癒す。しっかり眠る。そういう事が大切だと私は思うの」

 ごく当たり前の事だが、那帆にはできていない事もある。

「難しい事なんて考えなくていいから、まずは生活を楽しんでみて」

 憧れていた渡部から、そんな答えが聞けるとは思わなかった。渡部に憧れていたからこそ、その言葉は那帆にすんなり浸透した。

 二人の会話はそこまでだった。診察室から春乃が那帆を呼んだ。

 那帆と渡部が親しく気に話をしていたのを、春乃は何か不思議に思った。診察室に入る前、那帆は名残惜しく渡部に振り返った。

「今の方とお知り合いなんですか?」

「会ったのは初めてなんですが、渡部さんも私を知っていたんです」

 はしゃぐように那帆は言う。春乃は少し那帆にあった出来事を聞いていく。

 すごくいい会話をしたと春乃は思った。毎週の診察でも春乃がなかなか伝えきれない事を、渡部が代弁してくれたように感じる。

 那帆はもっと渡部と話したいらしく、そわそわする。

 春乃も朝から忙しく、そんなに診察に時間をかけていられない。とにかく春乃はこの一週間の様子を那帆に聞いてみる。那帆の話に問題となるような点はなく、薬の調整は必要ないと春乃は判断する。

 ただ春乃は伝えないといけない話があった。

「潘さん、私、来年の春から少しお休みするんです。子供ができたんです」

 ごく普通の連絡のように、なんでもない事のように春乃は話す。

 那帆はもちろん春乃を祝福する。

「先生、超特急で生きていますね。どうしてですか?」

「なんか急に子供に早く会ってみたくなったの。私ももう三十を過ぎたし」

「それができちゃうのがすごいです。きっかけとかあったんですか?」

 那帆は少し騒ぐようにはしゃぐ。

「きっかけはないけど、希望があるのを確かめたいのかもしれないかな?」

 立場上、春乃はあまり深くプライベートを話せない。

「希望」

 那帆の耳は春乃の言葉をしっかりと受け取る。

 春乃の脳裏に夏目の姿が蘇る。春乃は那帆に夏目の話をしてみたいが、それはしてはいけない。しかし那帆には生きてほしいという気持ちは確かだった。

 少なくとも親も友達も、大切な人が生きているうちは那帆に絶対に生きてほしいと春乃は願う。

「元気な赤ちゃん、産んでください。私は待っていますから」

 そう言って那帆は診察室を出ていく。患者が医師を思う時間がある。

 那帆のいなくなった診察室で春乃はお腹に手を当て、夏目への悔しさを思う。命の胎動が聞こえてくる。

 診察室を出ると那帆は渡部を探す。外来に渡部の姿はなかったが、しばらくして勝矢の診察室から渡部は出てきた。渡部の顔つきはなにやら厳しくなっていたが、那帆と目が合うとほころんだ。

「連絡先、交換しようか?」

 渡部の方から那帆にそう言ってくる。

「いいんですか?」

「大丈夫よ。音楽の事でも、女の悩みでも何でも。でもいっこ条件があるけど」

「条件?」

「藤田に会ってあげて。藤田、辛そうにあなたの話をしたから」

 那帆の動きが止まる。那帆も会いたい。でも勇気がない。

「大丈夫、大丈夫よ。あなたと藤田なら。通じ合っているもの」

 渡部はそう言って、また老婆の手をひいて、病院の会計に向かった。

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