第55話 片思いの相手
やはり矢島の勘は当たっていた。
「桑田先生、無理。もうできない」
那帆はすすめられて、編み物の作業療法を桑田から教わっていた。桑田はただの時間潰し、気分転換にという軽い感じで那帆にすすめた。他の患者が熱心に作業療法に打ち込んでいるので、那帆もお喋り以外の事もしたほうがいいなとは感じていた。
ただ編み物というのを那帆は、自分にはハードルが高いように思えた。
編み物をして十五分もしないうちに、那帆の頭は澱み、そして痛くなる。
「休憩室を使いますか?」
那帆は明らかに具合を悪くした。
「大丈夫です。ここのほうが落ち着きますから」
午前中の作業療法の時間は、里穂が来ていたので、ミーティングルームにいたかった。那帆はミーティングルームでお茶を飲んで休む。
「ピアノだけじゃなかったんだ。頭がついてこないの」
那帆はぽつりと呟いたのを、桑田は聞き逃さなかった。
「ピアノ、少しずつ長くなるといいですね。編み物は無理にやらなくても大丈夫ですよ」
桑田の優しさに那帆は頷く。
その日も那帆は診察だが、外来に呼ばれるまでひどく待たされた。
春乃は朝から戦場にいた。朝七時頃に死を選ぼうとした患者が運ばれてきた。大量の薬を飲んで、救急車で運ばれてきた患者の処置に追われた。なんとか一命は取りとめた。
その患者は別の病院に通っていたため、勝矢が担当する事になった。
運ばれてきた患者の処置のために、春乃の外来が始まる時間が遅れる。それだけならまだ良かったが、アウローラ病院の精神科に、新しい患者が二人も予約なしでやってきた。新しい患者の診察は時間がかかる。精神科の外来はどたばただった。
病院食の昼食を食べ、那帆はデイケア棟に置かれた週刊誌に目を通していた。本当は明盛にからみたかったが、明盛はなんだか真剣な目つきでパソコンに向かっている。那帆にはまるでわからない、記号や英語をパソコンに打ち込んでいる。
里穂は午前中で帰った。デイケアの午後のプログラムが始まると、那帆は林と林の子供の話をしていた。
結婚はあまり意識しない那帆だが、子供は絶対にほしかった。両親や藤田が那帆を愛したように、那帆も子供を愛してみたかった。
午後二時に那帆はやっと、とりあえず外来に呼ばれた。いつもなら閑散とする時間なのに、外来にはまだ何人もの患者がいた。
「もうすぐ呼ばれると思うんですが、まだ時間かかるかもしれないんです。でも診察の時間になったら、すぐ診察室に入れるようにしてほしいんです」
看護婦の頼みに那帆は素直に従う。外来とデイケア棟を何度も往復したくない。
外来の待合にあるソファーに那帆は座る。スマホをいじる気分ではなくて、那帆は自然と指を動かす。パッヘルベルの音楽に合わせて指を動かす。とにかく指を動かせれば良かった。エアーでの練習はそんなに疲れを感じる事はなかった。
那帆の横に二人の年配の女性が座る。一人は五十近く見え、もう一人は老婆だった。赤い毛糸の帽子を被った五十近い女性が、老婆にしきりと声をかける。
那帆のすぐ横が五十近い女性だ。
「今日は長くて困るわ。もう三十分も待っているのに」
そう言って五十近い女性はぼやいた。
那帆はその女性の横で構わず指を動かす。特に不審には思われないだろうと思った。
だが那帆の指はしっかりと見られていた。
「パッヘルベル?」
女性がいきなり那帆に問いかけてきた。那帆は頷くが、女性が誰かわからない。指の動きだけでパッヘルベルを当てるのは音楽関係者に決まっている。
那帆は頭を巡らせるが、女性が誰かわからない。見覚えがないわけではなかった。
「えーと、すみません」
那帆は困る。女性の名前が出てこない。
「もしかして潘さん? 藤田の教え子の」
女性のほうから那帆の名前を言い当ててきた。しかも藤田の名前を出して、しかも藤田と呼び捨てだった。
「すみません、どこでお会いしたでしょうか?」
那帆は恐縮しながら、そう聞いた。那帆が絶対に知っている人物のはずだった。
「ああ、ごめんね。渡部薫と言います」
那帆ははっとして女性の顔をまたじっと見る。帽子を被って、化粧が薄くてわからなかったが、確かに作曲家の渡部薫だった。
「あの渡部薫さん。作曲家の!」
体まで動かさなかったが、那帆は飛び上がるほど驚いた。女性は頷いた。
「どうして私なんかの名前を?」
那帆がそう聞く。接点がまるでわからない。
「私、藤田と同じ大学の同じピアノ科だったのよ。知らなかった?」
那帆は首をふる。そこまで渡部の経歴を知らなかったし、藤田は何も言わなかった。
「仲が良かったんですか? 藤田先生と」
「良かったのかなぁ。なるべく普通に接していたけど、お互いに嫉妬ばかりだったかも。藤田のピアノの腕は確かだったし、でも作曲で私は負けていなかったし」
渡部はそう言って笑う。
「昔から藤田は誰かにピアノを教えるのがうまかった。的確だし、色んな言葉で表現できたから、講師には最適だった。ただ時々言葉がきつくなる癖があったけど」
時々じゃないと那帆は思う。わざときつく言う時すらあったとも思う。
「最近はあんまり藤田先生に連絡してないみたいですね」
「お互い、忙しいから。藤田は教室の仕事があるだろうし、私は仕事と介護でね」
介護というと渡部は隣の老婆を見た。老婆はおとなしく診察を待っている。
「義理のお母さんが認知症なのよ」
渡部は那帆にそう耳打ちした。
「色々あって、私が一年だけ介護をしているの。仕事はとりあえず全部キャンセルしてね」
なんでもないように渡部は笑う。
「なんで私の名前まで知っていたんですか?」
笑っていた渡部の顔が曇る。
「国際コンクール、ドタキャンしたでしょ。あれで結構有名なのよ」
ピアノの世界であの国際コンクールに出ないなど、ちょっと考えられなかった。那帆は大学だけではなく、ピアノの世界でちょっと噂になった。
「それで北海道出身だって聞いたから、なんか気になって、久しぶりに藤田に電話をしてみたの。藤田が知らないわけがないと思ったから。まさか藤田の教え子とは思わなかった」
まさか自分が渡部に気にかけられていたとは那帆は思いもよらなかった。
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