第54話 希望が見える時
月日が流れるのは早い。もう十二月で世間はクリスマスや正月の準備になる。病院でもインフルエンザが流行しだして、病院の職員も忙しい年末を過ごす。
帯広アウローラ病院、デイケア棟で作業療法士の矢島と桑田が、雑談という会議を行っていた。矢島の三歳になる息子と妻に、どんなクリスマスプレゼントがいいかの相談だ。
息子へのプレゼントはほぼ妻が決めていたが、矢島も父親としての意見が必要だ。それより矢島は妻へのプレゼントが悩ましい。交際期間から色々なプレゼントを送ってきたからだ。
桑田は結婚に憧れを抱きながらも、まだフリーなので、学生時代の友人と札幌と遊びたいなという気持ちになっていた。まだ若く、それほど結婚に焦りもない。
時間は午後四時を過ぎている。患者はもういない。矢島も桑田もパソコンで色々な雑務をこなしていた。
クリスマスプレゼントと言えば、那帆も桑田に両親へのプレゼントを相談していた。那帆には国から障害年金が出ている。生活は助かっているが、それだけ病状は重く、あまり手放しで喜べる話でもない。
那帆がピアノの弾ける時間は伸びていた。春乃が決めた限度であるニ十分までピアノが弾けるようになっていた。頭もあまり澱まなくなった。ただニ十分の演奏で那帆はひどく疲れる。
「潘さん、飲み会から良くなったね。ピアノ教室の後輩に再会できたとか」
「スマホでのやり取りが楽しそうなんですよね」
千夏は那帆に頻繁に連絡をしていた。主に受験への不安を訴えていた。藤田の厳しさに辟易した話もあったが、それはスルーする那帆だった。
なぜ春乃が那帆にピアノを弾くのを許可したかを、矢島と桑田も聞いている。春乃としてはもしピアノさえ弾かなければ、頭痛の副作用を気にせずに、薬の効果に期待したかった。ただそれより春乃は那帆には本物の希望が必要だった。それにはやはりピアノしかないと春乃は感じた。
薬ではなく、作業療法の力に春乃は賭けていた。だからこそ矢島と桑田の責任は大きい。
「藩さんが長く活動できないのは、ピアノだけなのかなあ」
矢島がふとそんな事を言う。
特に決まってはいないが、那帆の担当は主に桑田だ。毎日、家でのピアノの成果を桑田は那帆から聞いて、パソコンのワードソフトに打ち込んでいる。
「どういう事ですか?」
桑田が聞く。桑田はまだまだ教わる立場だ。
「いやさぁ、誰でも集中して何かをすれば、疲れるよ。人の集中力って、短いし。だから他の難しい作業でも、潘さんは疲れると思うんだ」
「わかります」
「それをね、潘さんはちゃんと理解しているのかって、疑問に思う時があるんだ」
矢島は作業療法士として八年の経験を積んだ。いよいよ中堅になろうしている。
「だから陶芸とか、編み物に本気で取り組んでもらったら、どうなのかなって。それで体調が悪くなれば、ピアノが悪いわけじゃないと自覚できるから」
桑田は矢島の話を理解できた。
「その逆の可能性もあるけど」
やはりピアノが那帆の脳に最も負担になる場合もある。その場合のケアも必要だ。二人は悩む。
「とにかく星先生に相談してみたら?」
二人の話に関が一言だけ入った。笑顔だ。
作業療法士には何かを教える力と、きちんと聞き出す力、それに笑顔があるといい。笑顔に人は心を開く。
ベテランの関は一言言っただけで、後は笑顔だ。それで二人の背中を押す。
もう五時になろうとしていた。そろそろデイケアスタッフは帰宅する時間になっていた。そこに春乃が現れる。明盛や那帆ではない患者で、気になる患者がいた。
その患者の様子を関が春乃に伝える。その後に桑田はさっきの話を春乃にしてみた。
春乃は少し考え、桑田に質問をする。
「藩さんはデイケアでお喋りをするか、スマホでゲームをするくらいなんですよね? ピアノはデイケアでは弾かないんですよね?」
デイケアにもピアノはあるが、那帆は家で演奏するほうがリラックスできる。
「だいたいそうです。たまに料理に参加するくらいです」
「本格的に作業療法をやっていないなら、それを口実にできると思います。色々な作業療法をミックスするほうが、リハビリの効果も高いと言えば大丈夫だと思いますよ」
そう言うと春乃も笑顔を見せる。笑顔の使い方、タイミングは春乃も進化させている。
用件は済んだと春乃は医局に戻ろうとした。その時に林が春乃に声をかけた。
「星先生、血圧を測っておきましょうよ」
そう言って、林は春乃を椅子に座らせ、測定器の準備をする。
林以外の他のスタッフは首を傾げる。春乃は何か病気なのだろうかと。桑田がそれを聞く。
「六週目なんです。先週わかって、廊下で会った林さんにしか伝えてなかった」
春乃は妊娠していた。結婚から妊娠までを超特急を走っていた。
「でもちょっと血圧が低いんです。産婦人科の先生に気をつけてと言われてしまって」
「それは心配ですね」
林は血圧を測っていく。その時はなんとか正常値だった。
「お大事にしてください。おめでとうございます」
桑田が言う。デイケアで唯一の独身の桑田は、憧れの眼差しで春乃を見る。
「でも結婚式とか、どうするんですか?」
「旦那と考えたんですけど、出産して、落ち着いてからにします。まだほとんど何も決めていなかったので」
「星先生、忙しいですもんね」
「いえいえ。大丈夫です」
春乃は忙しいのを何かの言い訳にしたくはないが、そうも言えなくなった。医局では早速、春乃が産休に入った時の対応を北海道帝王大学と話し合っていた。帯広アウローラ病院の医局長の勝矢の動きは早い。育児休暇も必要だから、それに合わせてくれる医師を確保しようとしていた。
育児休暇は必要だが、春乃に医師を辞める考えは浮かばなかった。
少しの時間、デイケアスタッフに祝福されてから春乃は医局に戻る。
午後六時を過ぎて、春乃がその日のうちにやらなければならない仕事は終った。しかし春乃は論文を仕上げようとした。
「星先生、何やっているの? 働きすぎだよ。もう帰りなよ」
土方がそう注意した。土方は産婦人科の医師から春乃を頼まれていた。
「論文はもう、こっちが引き継ぐよ。勝矢先生と打ち合わせしておくから」
他の医師も頷く。春乃はまだ妊娠の安定期にも入っていない。
素直に春乃は帰宅する。妊娠は病気ではないが、常に注意が必要な難しいものだ。その事は医師なら理解しているので、医局の誰もが春乃を気づかった。産休に三カ月、育児休暇に一年と数えると、それだけ長い治療が必要な病気はかなり大変な病気である。
恵まれた環境だが、春乃はそれを少し考える。どこまで甘えていいかとか、他の病気に例えたら何なのかとか。
根本的にこの国の社会が、ハンデがある者にまずは遠慮をさせるとか。
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