第53話 心のつながり

 そっと千夏が、那帆の涙をハンカチで拭う。

「潘さんに涙は似合わないですよ。あんなに陽気な美人だったのに」

「美人なんかじゃない」

「またまた。知っているんですよ。高校時代、男子と歩いていたのを」

「あれがストーカー。勝手についてきただけ」

「ストーカーなのに、一緒に歩いていたんですか!」

「男なんてどうでもいいのよ、私は」

「そこはまだ変わってないんですね」

 高校時代、クリスマスもバレンタインも、那帆は藤田の家でレッスンを受けた。

 再会した時から、那帆の目が赤いのに千夏は気づいていた。でも千夏からは言えない。それを那帆から切り出した。

「さっきまで泣いていたんだ、私。居酒屋で急にピアノを失った事が溢れてきて」

 那帆はウーロン茶で我慢をする。酔って、自分の感情を全て出してしまいたかったが、その先がどうなるものでないと那帆は知っている。

「この前からね、ピアノは弾いているの。でも十分間も弾くと、体調が悪くなる」

「十分間…」

 十分間の短さは千夏にもわかる。

「病院の先生からね、スポーツ選手の怪我みたいなものだと教わったの。私は病気で体の色んな機能が落ちたから、それも取り戻していかないといけない。私もリハビリしているの」

「どんなリハビリですか?」

「とにかく毎日自分の体調に注意してピアノを弾くだけだけど、どんなに注意してもまだ十五分間まで届かない。それ以上弾くと、頭が重くなっちゃうの」

 千夏にリハビリの過酷さが伝わる。そんな感情と向き合うだけでも日々は辛い。

「悔しいよ。でも私は戦う。ピアノだけは取り返すの」

 那帆はしっかりと言いきる。それを聞いて、千夏は那帆の手を優しく握る。

 それからも二人は盛り上がった。那帆が古田に抱かれた事を話すと、千夏はハイテンションになる。音楽大学の生活を話すと、千夏は憧れをいっそう強くした。

 閉店の時間が近づく。二人はスマホでお互いの連絡先を教える。

「なんで千夏の連絡先、登録してなかたんだろ?」

「中学の時はスマホを買ってもらえなかったので」

「あっ、そっか」

 藤田の家の一室で、互いに意地を張るように千夏とピアノを練習した日があった。

 ふとそれが自分にとって、なによりの時間だったような気分に那帆はなる。

「いい話ばっかりしていたね」

 スナックを出ると明盛がそんなふうに言う。那帆は頷く。笑えるようで、それがまだまだ難しい時期の那帆だった。

 その日の支払いは、全て堀川が出した。帰りのタクシー代くらいは那帆が払う。ずいぶん甘えてしまった事に那帆は恐縮する。

「いい投資だったよ。これからもたまに投資させてよ」

 そんなふうに堀川は言う。堀川の行きつけのキャバクラも閉店の時間だった。堀川もおとなしく帰ると言う。

「リターンとかあるんですか?」

「それは潘さんの笑顔で十分。俺は別に金のために生きてないから」

 堀川はそう言って笑う。堀川はさっきまでキャバクラが終ったのに、少し愚痴を吐いていた。

「でもキャバクラなんかで、何をしているんですか? 仕事の自慢とかですか? それともいかがわしい目的ですか?」

「人生相談だよ」

 堀川は言う。

「もう三年も指名している子がいるんだけど、その子は俺のほとんどを知っている。過去の夢とか、恋とか、失敗してきた事も。三年かけて全部伝えて、これからを相談している」

 デイケアでも戸板や関など、堀川の相談相手になれる人物はいた。でも圧倒的に時間は少ないし、そういう女性だから言えるアドバイスもあった。

「気持ちって、癒えないんですか?」

「いや、癒えるよ。癒えるけど、幸せも苦しみも、人生は次々やってくるからさ」

「ちゃんと彼女を作ればいいのに」

「恋人にも話せない事もあるんだよ。恋人だから言えない事も」

 堀川も明盛も那帆より年上というより、長く生きていた。長く生きてきた分の感傷を貯めこんで生きている。那帆はそんなふうに思った。

 週末のその日、那帆の父は、初めて遅く帰ってくる娘を待っていた。テレビで映画を見ていたが、もう終ってしまった。那帆の父はぼんやりとテレビの次の番組を見ていたが、長く続かなかった。那帆の母は疲れを感じ、もう就寝していた。

 那帆の父はタブレットを眺めるようになっていた。

 産まれてから今日までの那帆の写真が、タブレットには入っていた。幼稚園の運動会に、小学校での学習発表会。中学や高校の入学式。なんでも入っていたが、泣いた那帆の顔は本当に小さい頃しかない。泣き顔を撮ると那帆がひどく怒るようになったからだ。

 なによりピアノを弾く那帆は笑ってばかりいた。

 那帆が病気になってからは、正月に親戚が集まった席での写真しかない。

「幸せすぎたかな?」

 那帆の父はそんな事を呟いた。那帆が病気になるまで、家庭は安らぎの場だった。

 三年前、十月の羽田空港で、涙を我慢していた那帆を、那帆の父はよく思い出す。よく晴れた日で、飛行機は遅れる事なく、帯広まで飛んだ。

 六年前、はしゃぐように帯広空港から東京に向かった那帆も覚えている。那帆を見送った時に、親の役目がほとんど終った気になった。東京で活躍し、男を連れてくるも遠くないだろうと、そんな甘い考えでいた。

 今も那帆と暮らす事になるとは、三年前までちょっと考えられなかった。

 大人になった娘が家にいてくれる事が、幸せな事なのかどうか、那帆の父はわからない。いや幸せなのだが、同時に憂鬱でもある。

 深夜の一時半になって、玄関の鍵が開く音がした。那帆の父は娘を出迎える。家の中に入ってきた那帆は、父の顔を見て、怖くなった。

「ごめんなさい」

 那帆は即座に謝った。

「なんで謝るんだ? おかえりなさい」

「ただいま。遅くなったから。こんな時間だし」

「高校生の頃に、門限は十時にしていたな」

 高校生の那帆は門限を破らなかった。そもそもピアノ教室以外で、那帆が出かけたい場所もなかった。

「今、母さんと門限は何時にしているんだ?」

「んー、特に決めてなかった。だいたいこんな事、初めてだったし」

 那帆はマフラーを外して、コートを脱ぐ。

「じゃあ、今日はいいよ」

「これからは? たまにこういう事があるかも」

「いい出会いでもあったのか?」

「千夏がね、スナックでバイトしていたの。ピアニストとしてね。小山千夏ちゃん。お父さんも覚えているでしょ。だからまたたまに会いに行こうかなって」

 千夏の事は父も覚えていた。ピアノ教室の親だけの懇親会で、千夏の父と男同士で話し込んだ事さえあった。

 男と出会いがあったわけではなかったのに、父は少し複雑になる。出会いがないのは残念だが、まだ娘に家にいてもらえる安心も生まれる。それでも那帆の年齢で、恋愛というか、コミュニケーションをする相手が那帆には少なく感じている。

 千夏の事を語りだした那帆を止めて、父は那帆に化粧を落とし、着替えをするように言う。

 那帆が家で過ごす準備をする間に、父は少し部屋を片付ける。父も飲んでいたため、リビングのテーブルが散らかっていた。それを片付け、父は台所で洗い物をする。

 そこに化粧を落とし、パジャマに着替えた那帆が戻ってくる。父が台所に立つなど、那帆にとっては自然な事だ。「お母さんは一度、死んでいたから」と父が那帆に話した事は何度もあった。出産の時の話だ。だから男も家事をするのは、父にはあたりまえでしかない。

 那帆の母は一度、心臓が止まった。奇跡的に今があった。だから那帆のこれからの人生は、良くも悪くもどうなるかわからない。

 父と娘はリビングのソファーで向かい合い、少しお喋りをする。

 那帆は今夜の出来事を話していく。さすがに居酒屋で泣いた事は言えない。

「千夏には頑張って、大学に受かってほしい。私と同じ大学なら、色々とアドバイスできそうだし」

 那帆は無邪気に千夏を応援していた。羨ましいとか、そういう不思議と感情は出てこなかった。千草に対する那帆の気持ちは、かわいい後輩に再会したというだけだ。

「藤田先生には会わなくていいのか? そろそろ会ったほうがいいんじゃないか?」

 父はそれを切り出す。那帆は困り、言葉がない。

「毎月一回、藤田先生から電話はきているよ。この前からピアノを弾き出したのも、あまり弾けないのも先生は知っている。先生はいつでも来てほしいと言っているよ」

 柔らかな声色で父は話す。

「どんな顔をしていいか、わからないから。私、泣くかもしれないし、そうしたら、先生は困るだろうし。今の私はピアノの事ばかり考えて、他の希望もないし」

 それを聞いて、父は少し考えてこむ。そしてまた口を開く。

「それなら泣けばいいだろ、そんなの」

 父は本音をそのまま出してみた。

「那帆と藤田先生は、師弟関係だけじゃないと思うな。女同士とか、人間としてもちゃんとつながっていると思うよ。藤田先生も那帆を育ててくれたんだから」

 那帆は考え、思いを巡らせるが、勇気が出てこない。

 もう午前二時になる頃で、父は那帆に眠るよう促し、自分も那帆の母が眠る寝室に行く。

 ベッドに入ると、横のベッドの母が起きていた。

「那帆は無事に帰ってきたよ」

 那帆の目が赤かったのを、父は言わない。

「小山千夏ちゃんと再会したって。那帆と同じ大学に行きたいらしい。明日、那帆から聞くといいよ。那帆は自分の事にように応援したいと言っていたから」

「そう、良かった」

 家にいなかった娘を母は心配もしたが、一安心もしていた。

「那帆にはもっと外の空気を吸ってほしい。外には色んな空気があるから」

 母はそう言うと、もう一度眠ろうとした。那帆を日付が変わるまで待ったのは初めてで、親離れをしてほしいと思いながら、どうしたらいいのか母はわからない。だからあまりいい眠りができなかった。

 父と母は同じ気持ちだった。

 父も眠ろうとするが、那帆が「希望がない」と口にした声が耳に響いていた。

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