第52話 恩師ともう一人の那帆
明盛と堀川は那帆に何かしなかったかと問い詰められ、事情を説明していく。那帆は錯乱していたわけではないので、なんとか嗚咽を抑えたが、それでも悲しみをどうする事もできなかった。
堀川と明盛、それに居酒屋の女性店員に介抱され、那帆はなんとか個室に戻る。
気持ちと涙。それを鎮めるのに、かなりの時間が必要になった。長くなった居酒屋から、次に移ろうと堀川は考えるが、那帆をどうしていいかわからない。タクシーに押し込んで、自宅まで送っていいものかと考える。そうかといって、今の那帆にふさわしい場所を堀川はなかなか思いつかない。とにかく那帆が落ち着くのを待つ。
やがて三人は寒い晩秋の夜空の下に出る。居酒屋の女性店員は那帆を心配して、外まで見送っていた。繁華街の隅のほうの居酒屋は、表の照明をいくつも輝かせていた。居酒屋の正面玄関は楽しい場所を表現している。しかし居酒屋の中で交わされる心は、決して楽しいばかりではない。
堀川はなおもどこに行くべきかを考え続ける。
「ピアノの音が聞きたいなぁ」
明るい光の下でそう那帆は言うと、堀川をじっと見つめた。
「今は刺激が強いと思うよ。ピアノ」
「でも行きたい。行ってみたい」
堀川は那帆の直感に賭けてみることにした。
堀川が選んだのは一軒のスナックだった。そこにはピアノが置かれ、たまに若いピアニストが演奏をしていた。
那帆を本当に刺激していいのかと堀川と明盛は思う。
スナックに入り、ピアノがあるのを確認すると、那帆はなぜか落ち着いた。全てが悲しかったのに、全ての歓びはピアノが教えてくれたからだ。
ボックス席に三人は座る。ホステスがそこにつく。ピアニストはいなかったが、どこかに行っていたらしく、すぐに戻ってきた。若い女性だった。
ピアノの演奏が始まる。ホステスが水割りを作る。もうお酒が駄目な那帆は、ウーロン茶をリクエストする。四人で乾杯をしてから、那帆はピアノの音に耳をすませる。すると那帆はその演奏にあった、小さな癖に気づく。その癖を那帆は知っている気がした。その演奏の香りも那帆はよく知っている気がした。
なによりその演奏は今一歩足りないものはあるものの、かなり高いレベルの演奏だった。都会の料金が高いピアノバーでも通用しそうなものだった。
那帆は立ち上がり、ピアニストの側に寄る。那帆の視線をピアニストは感じる。ピアニストは演奏を終えると、那帆に振り返った。那帆は後ろ姿で、誰かわかった。
「千夏(ちなつ)? 小山千夏(こやまちなつ)だよね?」
那帆がピアニストの名前を当てる。ピアニストの千夏は、那帆の顔を凝視する。
「藩先輩! 藩先輩ですか!」
お互いに名前を当てて、二人は一気に盛り上がる。お互いに化粧をしていたために、一瞬で気づく事ができなかった。
ピアニストの千夏は、那帆が通ったピアノ教室の後輩だった。那帆が通った国立音楽大学を目指していたが、浪人二年目を過ごしている。そのスナックには息抜きとお小遣い稼ぎを目的にアルバイトで働いていた。
那帆はスナックのママに頼み、自分の席についてもらう。
「まさかここに藩先輩が来るとは思わなかった」
席についた千夏も水割りを作ったり、堀川に煙草の火をつけたりする。その動きはまるで悪く、たどたどしい。先輩ホステスの指導を受ける。
「千夏ちゃん、ピアノはすごいのに、ここの仕事はあんまりなのよ。でもね、千夏ちゃんが来てから、お客さん増えたのよ。年末までの約束なのが残念」
先輩ホステスはそんなふうに褒める。
千夏は、堀川と明盛の顔をよく見てみる。二人とももう若くはない。
「どこで知り合ったんですか? どっちかは彼氏とか?」
千夏はぶしつけな質問までしてしまう。
「どっちも違うよ。病院で知り合ったの」
那帆は否定する。いい大人の男二人はなんとも思わない。
「私みたいな子供は相手にならない。ちゃんとした大人だから」
那帆はそんなフォローができた。那帆もそれなりに大人になっている。本心では二人とも那帆の恋心をくすぐっていない。
「ところで潘さんと千夏さんはどんな関係なの?」
明盛が聞く。那帆はそれを説明するのを忘れていた。
「同じピアノ教室だったんです。一番難しいクラスに二人ともいて、先生にみっちりしごかれたんです。ああ、でも、千夏が同じクラスになれたの、中学になってからだったかな?」
「そうです。だから一緒に指導を受けたのは二年くらいですね。それまで藩先輩が一人でしごかれていたんです。大学受験前なんて、藤田先生は鬼になって藩先輩はかわいそうだった」
「そんなに厳しい人なの?」
堀川が聞く。
「挨拶の時のお辞儀の角度まで説教されたんです。でも藤田先生は必要な事しか言わないから良かった。お辞儀の角度も、大学じゃあ教えてくれないし」
那帆はそう言って笑うが、いつも藤田の指導に悔し泣きをしたのを思い出した。
それから那帆と千夏だけの話になる。
「藤田先生、怒っている? それとも私なんかには幻滅している?」
那帆は恐る恐る、それを聞いてみる。国際コンクール前の夏休み以来、那帆は藤田に会っていない。どんな顔をして会っていいかわからないからだ。
「怒ってもいませんよ。幻滅もしていません」
「どうしてそこまでわかるの?」
「一度、潘さんの具合を私が聞いたんです。そしたら、先生は泣きそうになったから」
「藤田先生が?」
那帆は信じられなかった。ピアノを弾かない自分など、相手にされないと那帆は勝手に思っていた。
「潘さんの具合が今もだいぶん悪いのを先生は知っていましたよ」
「えっ。一度もスマホに連絡こないよ」
「潘さんの自宅に電話して、潘さんのお母さんから色々と聞いているみたいでしたよ」
那帆が自宅の電話に出る事はほぼない。
那帆の母と藤田は、那帆へ一緒に成長を促してきた強い関係があった。電話で二人は、今の那帆にどう向き合えばいいか今も話し合っている。
「それで藤田先生はどうして泣きそうになったの? やっぱり私に幻滅してない?」
「悔しい、って漏らしていました」
「悔しい?」
三歳から十五年間、成長を促してきた才能が一気に潰れた事を藤田は思っていた。いや才能というより、努力の結晶が壊れたのを藤田は悲嘆している。那帆がめげずに続けた努力が、どうなるのかわからなくなったのを藤田は思っていた。
「今の私は那帆に何もしてあげられないから、その話はやめてほしいと言われました」
千夏は藤田が狼狽したのを、その時見てしまった。
「本当に悔しいんだと思います。那帆が音楽を諦めるわけがない、一番悔しくて、一番苦しんでいるのは那帆なのに、私は無力だと言っていました。どうしたらピアノを取り戻せるか、戦っている那帆にかける言葉が見つからないって」
那帆の目から涙が一滴落ちた。でも苦しみや悲しみがまた溢れてきたわけではなく、那帆は居酒屋のトイレのようにはならなかった。
今度は皆が優しくて、那帆から涙がこぼれた。
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