第51話 積み上げたもの、崩れたもの

 堀川と明盛と遊んだらと、那帆は里穂にすすめられた。明盛とはデイケアでよく会うから良かったが、そんなに関係が深くない堀川に甘えていいのかと那帆は思った。

「聞いてくれる人だよ。堀川さんは」

 里穂が太鼓判を押したので、那帆は今日の遊びに甘えてみた。

「いいんです。私の話とか。それより堀川さんの文章がうまいのが気になるなぁ」

 ブログに書く、面白いネタ探すのは堀川より明盛のほうがうまかった。堀川の考えはいつも少し固かった。明盛はなにより気づきがうまい。けれどもそれを文章で表現する技術で、明盛は堀川に勝てそうにない。

「よくある話だよ。昔、小説家を目指していたから。今もたまに応募しているけど」

「小説家!」

 身近に同じ表現の世界の人間がいたのに那帆は驚く。

「結構、すごいんだよ。堀川さんは小学生の頃から書いていて、帯広の文芸誌に載ったりしたんだって」

「でも中央の文芸賞には、一次選考すら通らないでいる」

「もう三十年も続けているのがすごい」

 明盛がそうやって堀川を褒める。

「辛かったり、苦しかったりしますか?」

 那帆はやはりそれが気になる。

「もちろんあったよ。何回ももう辞めようと思った。病気のせいか、うまく書けない時期があったから。パソコンで文章を書こうとすると、脳が嫌がる時期が一番辛かった。中央の文壇では自分より若い奴がどんどん活躍して、自分の才能に嫌気を覚えたりさぁ」

 堀川の話は、声色と具体的なもので、真実味があった。

「なんで辞めなかったんですか」

「小説を書く事を、あんまり否定されないからなぁ」

「否定されない?」

 否定という単語は、那帆の頭にあまりなかったものだ。

「面白くないとか、そんな馬鹿げた夢なんか見るなとか、不思議と言われないんだよね。下手だけど、筋はあるのかもしれない。もちろんわかる人にはここが良くないとか言われるけど」

 否定されない安心というのは、那帆によく伝わった。

「それに…」

「それに?」

「書きたくなる物語が沸くんだよね。それをとにかく形にしたくなる。お金になるとか、ならないとかじゃなくてさ。後は…」

「後は?」

「応援されるからかな。中学の教師も、文芸誌に載った時に知り合った人も、なんかよく応援された。札幌で占った時も、考えすぎないで直感で書いたほうがいいと言われて、それから書くのがすごく楽になった。考えたり、思いつめるとダメなんだよね」

 その話はすごくスムーズに那帆に伝わる。那帆にもそういう存在がいる。

「褒められるとかじゃなく、応援ですか?」

「褒められるじゃなく、応援」

 堀川は言い切る。応援と聞いて、那帆の頭に浮かぶ顔がいくつもあった。

「なんだかついていけない話。自分にはない世界だ」

 やっと明盛は口を挟めた。

「明盛にはプログラミングがあるだろ。一緒だよ。仕事も表現の一つだし」

 呑気に煙草ばかり吸ったり、堀川のキャバクラ好きの噂を那帆は聞いている。仕事にもあまり熱中しようとしない。そんな堀川のギャップに那帆は衝撃を受ける。

「堀川さんの仕事嫌いには理由があるんですか?」

「病気を一番悪化させるのが仕事だからだよ。若い頃、それで痛い目にあった」

 何があったかは那帆も明盛も聞けない。堀川の顔が一瞬、明らかに不機嫌になったからだ。

 お酒がすすんでいくうちに、堀川の話に熱がこもる。

「しかし潘さんは俺の甥っ子とは違うな。あいつは話にならん」

 堀川には甥っ子がいて、今は高校生だ。中学生の頃にギターに目覚めたと言い、その時は熱中していた。高校生になるとバンドを組み、プロを目指すと言い出した。

「でも今は彼女に夢中で、バンドの練習がうざいとか言ってやがる」

 その話を聞いて、那帆は笑った。

「大勢いますよ。そういう人は」

 那帆は言う。那帆が通っていたピアノ教室でも、練習をしてこない生徒がいると先生が愚痴を零していた。その点で那帆は優秀で、小さい時から風邪以外でピアノの練習を欠かした事などなかった。むしろ風邪の時は休みなさいと、那帆は先生から注意を受けた。

 いつも厳しかった、何度も泣かされた、ピアノ教室の先生、藤田を那帆は思い出す。

「夢を叶えろとか、才能がどうとかなんて俺は言わないけど、与えられた環境を大事にできないのに苛つくんだよねぇ。高校生でバンドができるって、結構な幸せなのに。そのくせ格好いい台詞だけは一人前に言う。ありゃ、駄目だわ」

 その考えに那帆は同調できる。大学時代、遊びにのめり込んで、沈んでいった才能を那帆はいくつか見ていた。

「まだ若いからわからないんですよ。自分が最高の環境にいるのを」

 那帆もさらりとそんな事を言える年齢になっていた。

 実はすごく優しいのに、いつも怒っていた藤田の顔を那帆はまた思い出す。

「無くなってからわかるんですよね。恵まれた環境って」

 那帆がぼやく。まだ国際コンクールの前に帯広で休暇を過ごした時以来、那帆は藤田に会えていない。大学を休学し、帰郷してからは会っていなかった。

 そのぼやきの重さを堀川は見過ごさなかった。

 それから那帆は、お花を摘みに行くと席を外す。男二人が残される。

「ちょっと刺激の強い話になったかなぁ」

「そうですね。もっと楽しい時間にするつもりだったのに」

 堀川は話をすると熱中しすぎて、加減ができなくなる場合がある。

「それでも潘さんには向き合わないといけない問題かもしれない。平気な顔をしているけど、あんなに心が重くなっているとは思わなかった」

 堀川はそんな言い訳をする。しみじみとぼやいた那帆の表情が、男二人の胸に突き刺さっていた。いつかの自分を男二人は那帆に見ていた。

 居酒屋のトイレまでの僅かの間、那帆に自分のこれまでが溢れてきていた。

 キラキラ星を間違えないで弾けた時。初めての演奏発表会。小学生の頃から全国のコンクールに出るようになった事。中学生でコンクールの最高の賞に選ばれた時。大学入試に受かった瞬間。那帆に丁寧に音楽の本当の楽しさを説いた大学講師の顔。

 そして十勝の一軒家で、いつも待っていた藤田の顔。

 洋服を整え、那帆は洗面台で化粧を直そうとするが、なんだかそうならなかった。

 那帆は手を見てみる。手は動く。那帆は自分の顔を見る。正体不明の自分の病に、自分の表情から引き締まったものを消してしまったと感じる。

 なにより鏡を見て、笑えない自分に気づく。高校生の頃のように那帆は笑えない。今夜は楽しいと笑えない。

 酒の弱い那帆が飲みすぎていた。レモン酎ハイを一杯だけなら良かったのに、勢いでカクテルも半分ほど飲んでしまった。

「失いたくなかった…」

 那帆は呟く。それは突然出てきた。しっかりと心の奥底に凍結させていたピアノを失いたくなかった気持ちが、溶けて一気に那帆の心に溢れ、あらゆる感情に紛れ込む。

 那帆の心が決壊する。涙と悔しさが溢れて、理性でコントールできなくなる。

「失いたくなかった」

 自分をどうしていいか、那帆はわからなくなる。ハンカチを掴む手に力が入る。

 那帆の足から力が抜ける。トイレの床に那帆はしゃがんでしまう。ここは居酒屋だと言い聞かせても、涙は溢れ、ハンカチで口を塞いでも、那帆はダメだった。

 嗚咽を那帆は上げてしまう。それは古田の前で流せなかった涙であり、帯広に帰郷する時に羽田空港で叫べなかった絶叫だった。

 那帆の心のあるダムには、ずっと涙という雨が続いていた。もう決壊してもおかしくなかったダムがついに決壊してしまった。

 すぐに居酒屋の女性店員が駆けつけてきた。明盛と堀川はその声に気づき、トイレに急ぐ。

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