第50話 声を聴いてくれる誰か
次に那帆がピアノを弾いてみたのは、次の日曜日だった。
結果は火曜日の出来事と、さほど変わらなかった。頭痛は起きなかったが、那帆の体はまだピアノを嫌がった。
那帆は気楽にピアノを弾こうと心がけるが、それすら無理な話だった。鍵盤に触れれば、体に染みついた技術が疼く。そして少しでも熱中すれば、頭は澱み、くらくらしてしまう。
母に止められる前に、那帆はピアノを止めた。結果はまた十三分ぐらいの時間。頭痛が薬のせいでなかった事に落胆した。でもピアノを再開した日よりはいくらかは痛みがましだった。
けれども次の週、春乃はもう薬を変更しなかった。そしてピアノを作業療法として、続けてみるように促した。那帆は落ち込んでいたが、那帆の気になる症状がいくつか軽くなっていたからだ。
十一月が始めると、十勝では雪が舞う。九月の初めが暑かったのが嘘のように。
里穂がデイケアの廊下で、堀川を見つけていた。最近、堀川はよくデイケアに来ていた。明盛の状態が良く、仕事の打ち合わせが多かった。堀川は十勝のポータルサイトを作ろうとしていたが、明盛に任せず、自らが作ろうと意気込んでいた。
堀川は明盛にうまくいかないプログラミング技術を教わりに来ていた。やはりプログラミング技術は、明盛のほうが覚えるのが早く、もう堀川に助言できていた。
「潘さんを助けてほしいの。気持ちを解放させてあげて」
里穂は堀川にそんな頼み事をする。
ピアノが長く弾けない事に、那帆は気落ちしていた。ピアノを再開してからピアノを弾かない時間は、比較的に病状が良かった。もちろんなんだか気だるいのは毎日だったが、那帆は日常生活を過ごしやすく感じていた。
しかしピアノをいざ弾くと、那帆の体や脳が嫌がる。
那帆はピアノに集中する時、最も頭が澱んだ。那帆にとっては「まさか」の事だった。
ピアノを弾ける時間は伸びなかった。春乃が指定したニ十分も弾けない。
堀川がちょっと困った顔になっていた。
「俺が何をすればいいの?」
堀川が里穂の頼みを断れるわけがない。
「ちょっと日高さんと飲みにでも連れて行ってくれれば、いいかなぁ」
「ふむ…」
自分より明盛がもてるのを、堀川はよく理解している。そこに少し嫉妬はあるが、確かに那帆を励ますなら、明盛もいたほうがいいと思った。
「いいよ。それくらいなら」
堀川は快諾する。
堀川が唯一付き合えた女性と知り合ったのは、堀川もその女性も二十四歳の時だ。
里穂は堀川がその女性とどんな恋愛をしたか、ほとんど全てを聞いていた。
「里穂さんは悩みとかないの?」
「あるけど、私はもう大丈夫。旦那がいるから」
「ふむ…。そうだな。いいな、パートナーは」
「堀川さんにはいる?」
「キャバクラの女でいいなら、聞いてもらってるよ」
「そうなんだ。良かった」
里穂は別にそういう店に偏見はなかった。
形は違うが堀川には明盛というパートナーができた。未来はどうなるかわからないが、堀川は明盛といると妙に自分が軽くなるのに気づいた。
那帆にそんな存在がいるのか、堀川はそれが気になる。
寒さが厳しくなる一方の帯広の繁華街にある、いつもの居酒屋に堀川は那帆を誘った。
待ち合わせの場所は繁華街の中心にある、コンビニだった。コンビニの前にはスナックや居酒屋が入ったビルが建っている。ビルの看板が光り、ネオンになっている。
那帆は行き交う女性が、きれいに着飾り、颯爽としているのに目を惹かれる。
そしてぐっと寒くなった気温が、三年前に帰郷した時と同じだとひしひしと感じる。
コンビニを目指して那帆は歩き、すぐに寂しい気分になる自分に気づく。
「潘さん、お疲れさま」
堀川と明盛はもうコンビニに着いていた。
「いつもよりおしゃれだね。いつもおしゃれだけど」
明盛はそんな事をさらりと言える。そして明盛に下手な下心はない。
「今日は楽しんで。俺はただの財布だから」
堀川はそんな事を言って、那帆を笑わせようとする。
二人とも紳士だ。だが堀川のお腹が中年なのは悩ましい。
明盛が初めて三輪と飲んだ居酒屋の、個室で三人は飲み始める。お腹が大きな堀川と明盛が片方の席に座り、もう片方の席に那帆が座る。
「三輪さん、来なかったの?」
「今日は嫁さんと用事があるんだって」
三輪には嫁がいた。長く連れ添って、ようやく結婚できていた。
那帆は三輪がどんな人物かを聞く。二人は面白い事はなんでも好きな人間だと答える。
「潘さん、嫌いなものあるかな?」
「結構あるんです。偏食なんですよね」
それを聞いて、堀川は那帆が食べられるものを聞いていく。
「煙草、吸いなよ。遠慮しないで」
明盛が灰皿を差し出す。堀川もまだ吸おうとしていない。
「まだ我慢できるから、大丈夫。ここ個室だし」
「そんなに我慢しなくていいよ。堀川さんも吸うし」
男二人に那帆は丁寧に扱われる。
堀川は話題を探す。明盛も探す。でも三人の話題にふさわしいものがあまり見つからない。つい仕事の話を堀川は持ち出してしまう。それがつい長くなる。
堀川と明盛は仕事の意見をぶつけ合う。堀川の考えに、明盛は違う意見を言えるようになっている。二人はもうそういう関係になっている。
熱中する二人の話を、那帆はじっと耳を傾ける。
「ああ、ごめん。潘さん。今日の主役なのに」
那帆を置いてしまった事を堀川は謝る。
「ああ、いいんです。それに主役とか恥ずかしい」
「里穂さんに頼まれたからさ」
那帆は苦しいのを、親にあまり言えない。言わなくても親が感じているからだ。でも誰かに吐き出さないと、那帆の中に辛いものが溜まってしまう。
里穂は聞いてくれるが、それにも時間の限界がある。
二十四歳ぐらいの苦しさを、堀川はよく知っている。その年齢で夢を失う事を。
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