第49話 生きる場所

 翌日、デイケアが終ると、那帆は家でしっかりと休んだ、夜の六時頃だった。一眠りしてみると、那帆の状態はまずまずだった。

 春乃との約束で、那帆は三十分だけピアノが弾けた。那帆は手をしっかり温め、動かしていく。

 ピアノに向かおうとする娘の目が、光り出すのを那帆の母は見ていた。

 那帆がピアノの鍵盤の蓋を開ける。那帆がピアノの椅子に座る。それだけで部屋の空気は変わる。

「楽しく、楽しく」

 那帆は遠足に行く小学生のような気分を心がける。

 那帆の指が鍵盤に触れる。那帆はまず、子供の頃に習ったウォーミングアップをやろうとする。きれいにドレミファソラシドを何度か弾く。

 次に那帆はゆっくりとキラキラ星を弾いていく。

 那帆の指は案外、動いた。高校生の頃よりは下手になったが、それでも那帆が想像していた以上に指は動いた。エアーピアノを忘れなかった成果だった。

 キラキラ星を弾き終えた那帆は、少し難しい曲に挑戦する。微妙な音程まで合わせられないが、楽譜通りに那帆はピアノを弾けた。那帆は楽譜を間違えない。そして徐々に心が目覚めだす感覚を覚えた。

 那帆に喜びがこみ上げた。その後だった。

 二曲目の後半に入ろうとする頃に那帆の頭が澱んできた。澱みは消えない。消えないどころか、次にはくらくらした感覚になる。脳がピアノを弾くのを嫌がる。

 二曲目を那帆は最後まで弾けなかった。澱んだ頭が痛くなっていた。

 母が那帆の手を止めていた。那帆がピアノを弾けたのは十三分程度だった。ピアノの椅子から降りた那帆は、ズキズキとした頭痛が治まるのを待つ。だが痛みはなかなか治まらない。ついに那帆は鎮痛薬に頼るしかなかった。

 那帆は春乃の説明を覚えていた。新しい薬の副作用で、頭痛が起こると。

 それが火曜日の出来事だった。

 翌日、那帆は予約をしていなかったが、春乃に診察を頼んだ。那帆としては頭痛があるような薬は飲みたくなかった。春乃も那帆の考えに賛同だった。

「でも頭痛が起きるのは、ピアノの時だけかもしれないんだよね」

 精神安定剤は、副作用との戦いでもある。どんなに効果がある薬でも、患者が副作用で飲めないという話は枚挙にいとまがない。飲める薬はあるようで少ない。春乃としては薬の選択肢を簡単に減らしたくない。

 春乃の診察では、那帆の陰性症状はまだ強かった。病気になり、なかなか良くならない事にひどいショックを受けている。なによりピアノを失った事に絶望感を感じている。他の幸せを幸せと感じられなくなっている。診察ではいつもピアノへの未練を口にする。

 春乃は那帆の前で少し考えこみ、他の薬の選択肢も考えて、分厚い薬の本を読む。

「じゃあ…」

 春乃は一か八か、薬以外の選択に賭けようとした。

「一昨日出した薬は飲まないでください」

 春乃の出した結論に那帆は安堵したが、ピアノを弾いていいのかという不安が次には沸き起こってきた。

「ピアノは弾いてもいいです。ただしピアノを弾いて、症状がどうなるかを今度の診察から教えてほしいんです」

「弾いていい時間はどれくらいですか?」

「十分と言いたいけど、ニ十分かなぁ」

 短くなった時間に那帆は愕然とする。

 春乃はそんな那帆に骨折の治療の話をした。

「骨折するとね、まずは骨がくっつくまで絶対に動かさないようにするんです。そうするとね、二週間ぐらいじっとしただけで、筋肉ってなくなって、動かなくなるんです。足の肉が一気になくなるの。だからリハビリをするのはわかりますか?」

 那帆は頷くが、なぜ骨折の話になるのかがわからない。

「脳も同じなの。いきなり難しい事を考えると疲れますよね。それと同じで、潘さんがピアノを弾くと、どうしても意識が高くなりすぎて、脳がついてこなくなるのかもしれません。潘さんのピアノは自分ではプロと言えないかもしれないけど、でもただ子供のように遊ぶ気分で弾く感じでもないですよね?」

 少しわかりにくい春乃の話だが、自分が遊びでピアノを弾けないのは理解できた。二十四歳の那帆はもう初めてピアノに触れた子供の頃のようにはいかなかった。

「つまりね、潘さんはつい頑張っちゃうから、頑張らないでほしいの。できれば作業療法みたいに、治療の一環として弾いてほしいの」

 その話は那帆が簡単に理解できるものだった。

 けれども音程や楽譜の意味を、ピアノを弾けば那帆はもう無意識に意識してしまう。簡単に作業療法だとは思えない。

 那帆の表情はその日の診察の間、ずっと険しかった。もうピアノを弾けないと思いながら、どこかで回復すれば、元の場所に戻れる日を期待していた。だがピアノを取り戻すのは、簡単な事ではないという実感が急に沸いてきた。

「これからが踏ん張りどころだね、潘さん。これからしっかり頑張ろう」

 春乃の口から「頑張ろう」という言葉が出るとは那帆は思っていなかった。

 そしてそれが意外と那帆の心に響いた。

「潘さんの人生で、ピアノだけは失くしちゃいけないものだから」

「でも到底、プロにはなれません」

 それを聞いて、那帆は少し考えてから、口を開いた。

「プロってなんだろうね? お金がもらえないとダメかな? それともプロと同じレベルの腕じゃないと、ピアノって価値がないのかな? 子供のコンクールのピアノも、私には立派な音楽に聞こえるけど」

 春乃の言いたい事を、那帆は理解できる。洗練された音楽ばかりが音楽ではない。まだ上手に弾けない子供の音楽にも、味わいがある。

「先生はどう思いますか?」

 聞き返した那帆に、春乃は少し考え、答える。

「場所かなぁ」

「場所?」

「プロにはプロの場所があると思うんです。でもプロじゃなくても場所はちゃんとあるとも思うんです。人はどこで生きるかが大事だと思うな。私も、元気で健康な人が集まる場所では、ただの人間でしかなくなるから。病院じゃなければ、私はただの人間だと思います」

 健康な人間が多そうな人気バンドのコンサート会場や、踊りを楽しむクラブなどに春乃がいても、あまり意味がないという事だ。そこでも春乃が活躍できる場合もあるだろう。しかし病院という場所だからこそ、春乃は本来の活動できていた。

「きっと潘さんにピアノを弾いてもらいたい場所はたくさんあると思うんです。コンクールとか、コンサートの舞台じゃなくても」

 そんなやり取りがあったのは水曜日だ。

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