第48話 とっておきの話
念のために春乃はその日、那帆の人間関係も聞いていく。
「今朝は思いました。彼氏でも作ろうかなって。でも今はもう面倒かなぁ。デートをしないといけないし。デートとか、面倒に思うんです」
ピアノに熱中はしても、那帆は恋にそんなに興味を持たない。そんなものは高校時代まではピアノの邪魔だと那帆は思っていたし、友達の失恋話を聞いて、そもそも恋に幻滅している。
春乃は無理に恋などしてほしくない。ただ今の那帆の世界は狭すぎた。恋がしてほしいのではない。春乃は那帆に人間関係を豊かにしてほしいのだ。
「それに理想がおかしいんです」
「おかしい?」
那帆のほうからすすんで話をしてきた。那帆にも少しの女心はある。
高いではないのかと、春乃は思う。
「性格とか容姿に拘りはないんです。ただやっぱり音楽をやっている人がいいんです。それもショパンとバッヘルベンがちゃんと好きな人がいいんです」
やはり那帆はピアノしかないんだと春乃は思う。
「嫌いな人なんているんですか? 偉大な音楽家ですよね?」
「いっぱいいますよ。ショパンが弾けなくてコンクールに落ちたとか、難しくて音楽が好きでなくなったとか。ショパンが悪いわけでないのに」
那帆はさらりとそんな事を言ってしまう。
「潘さんはショパンが好きなんだ」
「ショパンと恋がしたいぐらいです」
アイドル好きの春乃は、そういう情熱がわかる。憧れの対象をもっと好きになりたいという感覚だ。
「ピアノの練習が嫌になるとかはありませんでした?」
「なかったです。いつも楽しかった」
「練習ではどんな事を言われるの?」
「まぁ、技術的な事や、感じ方の大切さとかですね。あっ、でも、私だけ大学の先生からおかしな指導をされました。藩はとにかく楽しみながらピアノを弾きなさいって。ピアノを嫌いになるくらいなら、練習なんかやめてもいいって」
その指導は確実に実を結んで、那帆は病気さえなければ今でも熱中ピアノガールだ。
「でもまだダメですよね。ピアノ」
春乃は那帆にこの前の退院からピアノはひかないでほしいと言っていた。ピアノの演奏は病気に負担になると。
もう退院が決まった頃、那帆はピアノをいつ弾いていいかと春乃に聞いてきた。ちょっとだけなら春乃はいいと思った。春乃は三十分も弾けば満足だろうと考えた。しかしそれはとんでもなく甘い考えだった。
軽く、どれくらい弾きたいかと春乃が聞くと、那帆は五時間と答えた。ウォーミングアップに一時間、本気で弾いて三時間、気軽に弾いて一時間と那帆はあっけらかんと答えた。
ストレスというのはある程度はあったほうがいい。いくら病人でも、軽い負荷がないと良くない場合もある。しかし那帆がピアノを五時間弾いた場合のストレスは、那帆にどれくらいの負担になるか、春乃は判断ができなかった。春乃の憶測ではかなりの負担になると思えたが、それは憶測でしかない。だが普通の人間であれば、五時間も何かをすればぐったり疲れる。
「禁止したけど、破ると思っていたの」
申し訳なさそうに春乃は那帆に言った。
「えっ…」
「まさか全く弾かなくなると思わなかったの。家にもピアノがあるって聞いたから、つい弾くんだろうなって思っていました」
春乃の考えは完全に外れていた。
那帆は急に難しい顔になった。
「先生、私はピアノのせいで病気になったんじゃないんですか? ピアノを弾くと、病気が悪化するんじゃないんですか?」
那帆は全くの勘違いをしていた。
「ごめんね。私の説明が悪かった。ピアノは病気の原因でも、病気を悪化させるものでもないの。ただね、潘さんはピアノを長く弾いて、疲れちゃうから禁止していたの。ストレスとかじゃなく、ただ体が疲れるだけでも、今の潘さんにはまだすごい負担になるんです」
それから春乃は那帆に、ストレスと病気の関係を丁寧に説明していく。
説明不足だった春乃を、那帆は責めなかった。
「私、ピアノを弾いてもいいんですね」
説明を聞いた後、那帆は心底安心した顔になった。春乃は那帆の顔が実に晴れやかになるのを見た。
それから春乃はこの一週間でさらにどんな症状が、どれくらいあったかを聞いていく。病気の自覚が強い患者の中には、すらすら自分から話ができる患者もいる。しかし那帆は質問形式でないと病状をうまく伝えられない。まだころころと病状が変わる不安定な時期で、那帆はどれを伝えていいのかもわからない。
那帆はこの一週間もやはり病気や、病気によるストレスに苦しんでいた。
二カ月ほど春乃は那帆が飲む薬の内容をほとんど変えてこなかった。薬の効果がどう出ているのか、慎重に見極めていた。効果はうまくでていた。副作用に那帆が悩まされている話もなかった。
その日、春乃は那帆に薬を追加する決断をした。春乃の狙いが正しければ、薬の効果で生活が過ごしやすくなるはずだった。ただ副作用で頭痛が出る場合がある。
薬の追加を悩んではいたが、春乃は真剣な目つきで、心を乱さずに診察ができた。春乃はもうそれだけの医師だった。
診察を終えてデイケア棟に戻ると、那帆は桑田を見つける。
「診察はどうでしたか? 大丈夫でしたか?」
「うん、薬が増えたみたいだけど。あのね、星先生、結婚指輪をしていました」
那帆は桑田に大学の同期と話すように話す。
「本当に?」
桑田はその話に驚き、笑顔になる。
「すごい羨ましい」
二十四歳の二人にはとっておきの話だ。
「桑田先生は? いないの? まだ?」
「それは聞かないでよ」
「なんだ。私と一緒なんだ」
「一緒、一緒」
デイケア棟の廊下で、二人はひそひそと盛り上がる。その時だけは患者と作業療法士ではなく、ただの若者だった。人生でどれくらいあるかわからない、楽しい時間だった。
もう一人の男性作業療法士の矢島が、二人が話すのを見て、まるで高校生か、大学生に戻ってようだなと感じていた。
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