第47話 ささやかでも希望

 外来にあるソファーに腰かけて、那帆は名前を呼ばれるのを待つ。頭は澱んでいる。いつもならそこで指を動かせ、エアーでピアノを弾いていた。春乃はピアノを弾くのをまだ禁止していたが、那帆は指を動かしたくなる。弾くのはショパンのノクターン、第二十番だ。

 退院後に一度、那帆は我慢できずにピアノを弾いてみた。でもうまくはいかなかった。それ以来、那帆は演奏をしていない。

 その日は頭が澱んでいて、エアーでピアノを弾く事さえなかった。

 去年の春、春乃はそれまでの那帆の担当医から治療を春乃は受け継いだ。その時も入院していた那帆の症状はまだ重く、種類も数多くあった。しかし前の担当医はそんな事より気にしていた事があった。

 那帆が人生への希望を持てなくなっている事だった。

「希望か…」

 どんな小さくてもいいから、心から望むものが那帆には必要だった。

 この一年半、春乃は色々と那帆の心をくすぐってみた。恋愛、友人との時間、青春、仕事。何でもいいから生きる原動力を見つけてほしかった。

 だがどうしても、どんな希望も熱中ピアノガールには力にならなかった。那帆の人生にとってはピアノが全てだった。

 なんとなく生きている。生きる理由が見つけられない。それが今の那帆だ。

 春乃に夏目の顔が浮かんでは消える。

 今日の那帆に何を聞いたらいいか、春乃は電子カルテを見ながら、短い時間で自分の考えを整理していく。春乃の左手には結婚指輪が光っていた。春乃は一昨日、義博から指輪を買ってもらい、昨日の午前中に入籍していた。

 患者を刺激しないように指輪を外そうかと考えたが、春乃は毎日つけたり外したりを欠かさずできるタイプではない。

 春乃は診察室の扉を開けた。那帆は目の前にいた。具合がまだ悪いのがわかる。

「潘さん。藩那帆さん」

 診察室のドアを開けて、できるだけ柔らかな口調で春乃は那帆を呼ぶ。患者のためでもあるし、那帆にかけるうまい言葉を見つけられない不安を悟られないためでもある。

 一週間ぶりの診察がお互いのお辞儀で始まる。

 那帆は春乃の手に指輪がつけられているのにすぐ気づいた。だが那帆は何も言わない。医師と患者が馴れ馴れしくプライベートを会話できないのを那帆も知っている。最近の病院は、同じデイケアメンバーなのに、スタッフが患者に、他の患者の名前を教えられない。名前も個人情報だからだ。

「具合が悪そうですけど、どうしましたか?」

 那帆は春乃に頭が澱む事を伝える。

「それはいつ頃からでしょうか?」

 午前中は比較的に悪くなかったが、堀川と会話をしたぐらいから落ちてきたのを那帆は伝える。堀川の話が悪かったとか、負担だったわけでもなかった。負担だったとしても、その負担で調子を崩すのが問題だった。

 特別な理由もないのに、気分が変動するのが精神科の病気の特徴だ。

 春乃はずっと前から、那帆に薬を追加すべきか悩んでいた。ただ薬の追加は患者の動揺につながる事もあるし、なにより副作用が心配になる。

「八月から薬が変わっていませんが、全体的に調子はどうだったか、覚えていますか?」

「あんまり良かったとは言えません。秋になるとやっぱり駄目です」

 自分の病状をきちんと話せるほど、那帆は精神科に慣れていた。

 秋になると那帆が調子を崩すのは、春乃ももう把握しきっていた。国際コンクールに行けなかった、帯広に帰郷した、あの年の秋が那帆の秋だった。

 春乃は薬を追加するのを決めた。それはなにより那帆に安定した生活を送ってもらうためだ。

 春乃がどんなに考えても、那帆の一番の希望はまだピアノだった。でもそれはどうする事もできない。大事なのは次に那帆が何を大事にしているかだ。

 那帆はもっと人間関係を増やしたほうがいいのではと春乃は思っている。それをストレートに那帆に尋ねた事があった。

「今は親とデイケアぐらいしかないんですよね。友達はだんだん結婚とか仕事で、忙しい人ばかりになったので。前に予定が合ったのに、自分の体調のせいでダメになったりしてから、どんどん会わなくなっています」

 スマホで連絡はとるが、あまり会えないのが正直なところだった。

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