第46話 二十代の苦しみ

 そこで堀川はなぜ自分は那帆に仕事を語っているのだろうと、我に返る。那帆が自分に好意という展開はありえないから、途端に横に那帆がいるのを不思議に思う。

「ところで何しに来たの? こんな話がしたかったわけでないでしょう?」

 目尻のしわが深くなってきた堀川は、そう言って笑った。

「あー、そうだった」

 那帆は堀川に悪戯をするつもりだった。

「里穂さん、残念でしたね。結婚しちゃって」

「その話かよ」

 堀川は馬鹿馬鹿しくて、大笑いした。そして那帆も恋の話が好きな、普通の女性なんだなと思った。

「いいんだよ。幸せそうだから」

 笑顔で堀川は言い切る。

「大事な人の事は、もういいんですか?」

「その話まで聞いているんだ。もう何もわからない、ただの過去の事だよ」

 堀川から笑顔が少し減ったが、それでも何かに動揺した様子もなかった。

「どんな恋だったんですか?」

「若かったから、たどたどしかったよ。俺はガキで、向こうもまだ少し子供だった。不器用で何もわかんなくて、壊れるまで傷つけ合っただけさ」

「壊れるまで?」

「壊れるまで。元に戻せないくらい。だから過去の事」

 それだけ聞いて、那帆はそれ以上聞くのが怖くなった。

「だけどね、本当は、最初から別れる運命だったかも。付き合った瞬間から」

「どうしてですか?」

「今は元気に見えるけど、俺もずいぶん病気が苦しかった。長く付き合えば付き合うほど、相手をもっと傷つけた。なにもかもどうしようもない事だったんだよ」

 堀川は自分を納得させるように話した。那帆はそこまで思える恋を、そんなふうに納得していいのかと思う。堀川の中にも納得したくない部分はまだあるはずだと。

「それより次なんだよ。今は次の世界を大事にしないと」

 今の堀川は未来という未知の世界をとにかく生きようとしている。

 次と聞いて那帆は息を吞む。

 那帆は二度と国際コンクールに出られない。年齢制限があるし、なによりあの頃まで自分の力量を戻せそうにない。那帆はその運命を何も変えられない。

 その日、その時でも、那帆は国際コンクールの舞台を、煙草の煙が充満した部屋で見つめてしまう。まだ堀川のように未来を見つめられない。動けない今に戻される。

 喫煙は慢性的な自殺願望でもあるという。那帆は考えた事はないが、生きる事がどうも肯定できなくなった。那帆はこの世界と自分に疲れきっている。

 そんな話をしたせいだろうか、那帆は急に具合が悪くなった。頭が澱みだす。那帆は病院食の昼食を食べ終えると、休憩室で横になった。休憩室は扉に窓があるが、カーテンがつけられていて、寝顔を見られずに一人で横になれた。扉は鍵をかける事もできる。

 那帆は病気の症状に苦しみながら、一時間ほど険しい顔で眠る。

 一時間後、扉がノックされた。那帆は熟睡の中にいて、起きられない。扉の鍵が外から開けられる。

「藩さん、入りますね。診察に呼ばれました」

 施錠した扉をカギで開けたのは、作業療法士の桑田だ。座布団を枕にして、毛布を一枚かけて眠っていた那帆を、優しく揺り起こす。

「大丈夫ですか?」

 起きた那帆だが、すっきりなどしない。むしろ統合失調症の陰性症状が影響して、表情はすぐに沈んでしまう。

「お水でも飲みますか?」

 那帆を心配して桑田は見つめる。那帆をゆっくりと起こした桑田は、少しふらつく那帆をミーティングルームの向かいにある、料理室まで連れて行く。料理室のキッチン台の上には、いつも冷水とお茶が用意されている。

「お昼の薬は飲みましたか?」

「はい、飲んでいます」

 午前中にはかろうじてあった那帆の生気がどこかへ行ってしまっていた。

 那帆は冷水を飲むが、それで何が変わるわけでもない。

「外来まで付き添いますね。潘さん、転んだりしたら大変だから」

 薬のせいか、陰性症状のせいか、那帆はどうもたまにふらつく。

 闘病のピアニストと、人生の大半を精神障がい者のために生きる事を選んだ、まだ若者の二人が病院の廊下を歩いていく。

「先生はいつ、精神科の作業療法士になろうって決めたんですか? 整形外科とか、色々ありましたよね?」

 那帆は少し、作業療法士という職業を、ネットで調べていた。

「専門学校の実習が終った後ですね」

「決め手はあったんですか?」

「決め手? うーん、患者さんの表情かな? 作業療法をやっていくうちに、だんだんと効果が出てくるのがわかって、それが嬉しくって。まぁ、薬の効果かもしれないけど。後は実習先の病院で、患者さんが良くしてくれて。まさか患者さんに気を使ってもらえるとは、学生の頃は思っていなかったから」

「怖かったですか? 精神科」

「若い頃はね。自分は整形外科の作業療法士がいいなんて勝手に思っていた。どっちも怖いし、とっても大切で、どっちも暖かいのに」

 整形外科の作業療法士になっても責任は重い。人生を左右する行為はなにより怖い。

「私、まだ精神科が怖いです。精神科にいる自分が怖いです」

 そんな話を二人はしながら、廊下を歩いていく。那帆の恐怖は精神科で時間が過ぎる事だ。仮に長い時間をかけて病気を完治させても、そこからピアニストとしてどう生きていけばいいかわからない。

 那帆を外来のホールまで送った桑田は、事務に顔を出してから、デイケア棟へと戻る。

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