左利きは、全然不器用。

倉橋刀心

第1話

 もうさすがに、エッロい生脚も見飽きてきたなと思い始めた。

 前夜からの雨が降り続いていて、9月の最終日にしては少し肌寒い午後、関東近郊の田舎にある古いバッティングセンター。この8ブースもある広めの施設は、さすがに平日の午後、しかも強めの雨とあって、俺とこの生脚の持ち主以外に客はいない。高く貼った

緑のネットが、風を受けて少しうねった音を立てている。

 俺は一瞬くしゃみをした。

 ボールを投げるアームと同じ位置に、ピッチャーの写真とかイラストとかある店もあるけど、ここはそんな小細工はしない。ただ、機械がギギギと音を鳴らして滑らかにボールを投げてくる。タイミングは、慣れればこっちの方がつかみやすい。そんな田舎くさいこのバッティングセンターが俺は好きだ。


 そして目の前に広がる、なぜか野郎の生脚。俺はランニングパンツの下から綺麗に真っ直ぐ伸びた脚に随分前から見惚れていた。すね毛、剃ってんのかと思うくらい薄いな。バットを振り切るたびに、綺麗についた筋肉の筋がねじれて、ピンと張り詰める。

 こんな寒いのに、短パン?血気盛んな男子高校生に変な眼で見られてるって、気付いてないのか。誘惑するにしても隙がありすぎる。いやいや。

 俺は、この店の一つしかない両打ちブースの真後ろでひたすらベンチを温めていた。

 ここにはもうひとつ両打ちブースがあるが、故障中で半年前から使えない。特に直している様子も直し始める前兆も見当たらない。

 

 俺、岡山勘太郎18歳独身現在絶賛恋人募集中が、覚える気もない英単語帳を閉じて目の前の生脚に見入りだしたのも、かれこれ三ゲーム目だ。この生脚は譲る、という言葉を知らない。しかも左利きが使えるブースは今ここだけだ。他は空いているのだから自分はここを独占していいと思っているのだとしたら、さてはバッティングセンターシロウトだな。第一、さっきから全っ然当たってねえし。

 白にブルーのラインが入った木綿のランニングパンツからのぞく生脚は、そして裸足でもあった。青く汚れたスニーカーと脱ぎ散らかした靴下がホームベースの反対側に転がっている。斜めから入るライトで逆光になった長めのショートの髪が光ってシルエットが少し眩しい。ああ。


 俺は、ぼんやりと昔のことを思い出していた。こいつの脚が強引に、俺の記憶にぬるぬると触れてくる。

 俺が、自分は人と違う性癖の持ち主だと意識したのは中学生の頃だった。そう、丁度こいつくらいの年齢の時。

 周りはバカばっかで、俺ももちろん例に漏れずバカで、いつも同じ奴らとつるんでた。学校帰りにゲームして、一緒に宿題して、夏休みにはプール行って。

 小学生の時は、何となく女ってどうして世の中に存在するんだろうと不思議に思っていた。五年生の保健体育の授業で、正式に女が子供を産む性であることを学んで、ますます混乱した。

 女が子供を産むためには、好きにならないといけない。ずっと一緒に居たいと思わなければいけない。まるで、おかんとおとんみたいに。

 でも自分は女の子に全く興味がなかった。偉そうで、物知り顔で、そのくせ喧嘩は弱くて、髪の毛チャラチャラなんかつけてて、いい匂いがして、好きなアイドルの話をずっとしてて、いつも誰かをいじめてて。

 俺は将来大きくなって、そんな奴らから一人の女を選び、好きになってずっと一緒に居たいと思えるのだろうか。

 悶々とした気持ちのままの小6の秋、一緒に遊んでいた友達から、竿のしごき方を教わった。そいつは、森に捨てられていたエロ雑誌を破って俺にくれた。俺はおっぱいには反応しなかったが、やり方はしっかり覚え、雑誌をくれたそいつ自身で精通を体験した。それでも俺は、エロ雑誌のお陰でイケたのだと思っていた。

 中学生始めの夏休み前、同じクラスの中井しげるって奴で夢精した。前の日に体育の授業があって、そいつは暑いからとジャージを脱いで短パンでバスケを始めたのだ。俺は、その綺麗に筋肉のついて無駄毛もなくツルツルの脚にわけもなく見入った。そして、次の日の夢にそいつは出てきて、俺の首に脚を絡めて誘惑し、俺はそいつで夢精した。その時にはっきり自覚したのだ。俺は、男に興奮する体質なのだと。

 戸惑いに気を取られると同時に、俺はその同じクラスの中井に恋をしていることを知った。でも、最後まで思いを告げるどころか、ひたすらに自分の性癖を隠し通した。周りには誰もそんなことを言ってる奴はいなかったし、俺は女が好きになれないなら、誰にもそれを知られてはいけないと思った。中井とはそれきり、高校も別になり中学卒業後は一度も会っていない。

 高校入学後、戸惑いに気を取られている場合ではない状況を作ろうと、中学から始めた野球に没頭した。共学だったが、部活や友達を含め、周りには男しかいない状況を俺は密かに楽しんでいた。

 そして、今。

 俺の高校は、俺が入った年に野球部の顧問の先生が定年前に交通事故に遭い、そのまま引退してしまった。運が悪かった。後釜のコーチも先生も、突然のことで何もわからず、全て前顧問に任せきりにしていたツケを、何も知らない新入生がかぶる事になってしまった。結果。部員の数は激減し、今年の高校野球は最悪で一回戦敗退。しかもいきなり去年県内から甲子園に行った強豪校だった。呆気ないコールドで、俺は涙を流す余裕もなかった。一、二年の時は俺はすごく背が低かったから、それでもレギュラーになれず、三年になって急に背が伸びたかと思ったら…神様の嫌な気まぐれで、あっという間にグラウンドの藻屑となって消えた。

 そして俺ら高校三年生は夏休みの間にあっけなく部活を引退してしまった。あと5ヶ月もすれば受験。予備校の夏期講習は他人の中で集中できて良かったが、学校では勝手が違う。クラスは皆ピリピリして、中間テストに向けた勉強で殺気立っている。今までちょっとは仲良く遊んでいた仲間も、いつの間にか一人、二人と塾や勉強で忙しくなったと言って、付き合ってくれなくなった。

 勉強だけじゃ、体がなまる。病気はしたけど強打者としての役割を期待される三番ファースト…の気分でずっと練習していた。だから急に野球はおろか運動も全くしなくなったら、頭にも下半身にも血がまわらないんじゃないかと本気で思う。だから時々ここに来ては、気晴らし程度にバットを振るのが習慣になっていた。後遺症はない、と思う。ただ、今日だって、二人も声をかけたのに、雨だからと言って“連れ打ち”を断られた。まあ部活の仲間なんて所詮そんなもんだ。俺がどんな目で奴らを見てるかなんて、誰も知らないし。

 …パンツの裾がネットの向こうで少しひるがえった。ちょっと目をそらす。いいえ、見てません。見えてません。中なんて。ってか、ブースは少し高いところにあるんだから、そんなんじゃたとえ見えても不可抗力だろ。保険につまらない言い訳をたくさん考えても、きっとこいつは何も考えちゃいない。

 やけにちっさい男の子だった。でも流石に小学生じゃなさそう。駐車場にシルバーの軽自動車が一台止まってたのが見えたけど、他に客はいない。親は別行動で買い物か何かか?ちらりと見えたしかめっつらの横顔、やけにかわいい。だから中学の時の夢精なんかを思い出す事になるんだ。まあどっちにしろ問題ありだよな、こんな邪な気持ちで見てる血気盛んな高校生が真後ろに鎮座してるなんて。


「あの、ちょっといいかな?」

 その生脚本人が、ブースから出て俺に話しかけて来た。タメ口が想定外だったんでちょっと驚いて、半分背中で座っていたベンチからズリ落ちそうになった。面と向かうと、幼いながらもかなり整った顔だった。少し長めの黒髪に、女の子みたいにめくれた小さくて可愛い唇。こじんまりとした鼻は、それでもすっと鼻筋が通っていて、将来もっと成長したらもっとイケメンになるんだろうなという可能性を覗かせている。やべえ、エロいとか言っちゃって、本当に中学生かよ。

「なに?」

 ちょっと恥ずかしくなって、思わずぶっきらぼうに答えてしまった。

 生脚は、なんだかモジモジして俺の目の前で裸足のまま立っている。

「あのさ…ちょっと打ち方を教えてもらえないかな?さっきから全然当たらないんだ。一回分おごるからさ。一生のお願い」

 知らない中学生から、いきなり両手を合わせて一生のお願いをされたのは初めてだった。そのお願いの仕方、アリなのかよ、と心の中で激しくつっこむ。

 でも、そんなことどうでも良くなった。それはこの子が、少し泣いていたように見えたから。そんなに悔しかったのか。いやまあそうだろうな、とも思う。あれだけボールが投げ込まれたのに、俺が見てる限り一回も当てていない。お小遣いは足りるのだろうか。

「いいよ。初心者?」

 俺は手の中で持て余していた英単語帳をカバンの中にしまった。

「お勉強中のところ、ごめんね」

 ほっとしたような、はにかんだ笑顔を見せる。まあ、ちょっとタメ口が引っかかるけどそれは別にいい。それより、何でその誠意を順番待ちの方に回してくれないのか。

 のろりと立ち上がった俺を前に、生脚はちょっと驚いた顔をした。

「背…高いんだね」

「そう?」

 俺はお気に入りの学ランの上着を脱いでベンチに投げる。珍しい高校の学ラン制服が、さっと湿った空気を切った。白シャツの腕まくりをして、さて、戦闘態勢完了。

「その前に」

カバンから今日体育で使ったジャージを出して生脚にほおり投げた。

「今日昼に着たやつだけど、そのジャージとりあえず履いてくれないかな。見てるこっちが寒いし」

「え。でも…」

「安心して。あとで匂いかぐだけから」

「え?」

「あはは、冗談だよ」

「何それ」

 怒りつつもしっかりジャージを履いて、ぐるぐるとウェストと裾を何重にも巻いている。結構かわいい。男の子は素直なのがいい。

俺は生脚に導かれてブースの中に入り、右側のバッターボックスに立つ。改めて向かい合うと、本当に小さい。186センチの俺の胸ぐらいまでしかなさそうな雰囲気。それでも、俺のジャージを履いて、期待たっぷりの顔で俺を見ている。俺はどうしたらいいのか。

「まず、このバットに変えて。それじゃ絶対打てないから」

 立てかけてあった何本かのうち、一番短い金属バットを渡す。

「そうなの?」

「そうなの」

 自分が小さいって自覚してないのか、生脚。それか本当の初心者。

「バットってのは身長に合わせて選ばないと、重いし振り切れないよ」

「身長…」

 何か言いたそうなのも構わず、俺も適当に自分のバットを手に取ってフォームを見せる。

「握り方はこうだから。良く見て。俺、今右打ちの握り方してるから右手が上だけど、お前は俺と同じ左打ちなんだから、左手が上に来ないとまず打てないよ」

「お前…まあ、いいけどさ。道理でおかしいと思ったわ」

 そんなことも知らないで今まで何ゲームの球無駄に見送ってたんだ、と思いつつ続ける。

「脚はこう」

「あ、じゃあこんな風に脚上げなくてもいいんだ。長嶋さんみたいに」

 そういうとこは知ってるのか、中学生のくせに。心の中でツッコミつつ、さっきまで無防備に生脚を上げてたのを思い出す。

「あと肩も張り過ぎ。ちょっと待って」

 俺は生脚の後ろ側にまわって、腕を伸ばして同じバットを握る。俺の顎の真下に頭がくる。やっぱちっさい。そして、すっぽり腕の中に入っちゃいそうな華奢な感じがちょっと猫っぽい。あんだけバット振っときながら、髪からいい匂いするとは。中学生って怖え。

生脚は、少しびくっとして固まった。

「別に何もしねえから。こうやって振るの。感覚わかる? 最初はこうやってタイミング見てバットを出すだけの感じで。ヒットした時、そんなに振りきらなくても金属バットならある程度飛ぶから、当たった瞬間の衝撃だけ気をつけて。そうすればケガもしない」

俺の胸元に、熱を感じた。外気の冷たさとのコントラストが、その熱を引き立たせるように感じた。

「ね、頭の上に顎乗っけてみてもいい?」

「嫌だ、断る!」

 ちょっと期待して、上からチラリと見下ろしてみた。残念ながらTシャツの中は上から覗いても見ることはできなかった。ただひたすら邪な気持ちで中学生をからかうのも面白いな、と思った。どうせこいつノンケだろうし。

「速度、何キロでやってるの? ここ、65、75、120キロが選べるけど」

 機械を見ると、最後に打った120キロのランプがついている。さらにその上には積み上げられたコイン。こんなところは慣れてんのな。いったいどこのヤンキーやら。

「うーん、さすがに初心者で120キロはキツイよ」

 生脚はキッと怒った顔で俺を見上げた。

「そんなの知らなかったもん、しょうがないでしょ」

 グッサリ的を得てしまったみたいだ。俺は急に面倒くさくなって、ブースから出た。

「あとは、何球か試してれば当たるようになるよ。じゃ終わったら、さっさと交代してね」

「あ…ありがとう」

 さっさと、のところを強めに言うと、生脚は明らかに不満げな感謝で、機械に再びコインを入れた。


 雨足がだいぶ強くなってきた。ボールが濡れて、かなり打ちにくいかもしれない。それでも生脚は汚れた足の裏を気にする風でもなく、力いっぱいバットを振るけど、あいもかわらず全く当たらない。十球くらい空振りした跡、生脚は愚痴を言い始めた。しかも、腕組みをしてベンチに座っている俺に聞こえるように。

「なんでこんな球ばっかり来るの?痛い!脚に当たった!もう、教え方が悪いんじゃないのかなあ!」

 最後のひと言で、俺もムッとした。自分の実力を人のせいにする程嫌なやつはいない。

 俺はため息をついて、学ランとカバンをつかんでゆっくりと無言で立ち上がった。

「え、帰るの?一回分おごるって言ったのに!ジャージどうするの!」

 俺は生脚の声を無視して、歩き始めた。今日はついてない。なんで親切にして、教え方が悪いとか言われるんだ。ジャージなんかここの事務所に預けとけ。そもそも生脚の身長じゃ、あんな高い球、いくら練習したって打てるわけない。あんな…高い球。

 事務所の前にちょうどさしかかった時、中のおっさんと目が合った。このバッティングセンターのオーナーである鈴木のおっさんだ。

「よお、カン。もう帰るの? まだ打ってねえだろ」

 タバコをふかしながら、建て付けの悪いサッシの窓ガラスをガラガラと無理やり開けて話しかけてくる。

「いや、先客がなかなか代わってくれないから、今日はもう帰るよ」

「そうか。じゃあまたな。おやじさんによろしく」

 鈴木のおっさんは、おやじの草野球チームにも入ってる根っからの野球好きだ。そしておやじも。そして、たぶんこの俺も。

 おっさんが窓ガラスを強引に閉めて、また退屈そうにテレビに向き合った。今日はこのままもう終わりの時間まで誰も来ないかもな。

 俺もこの日、少しだけ退屈していた。親切とか全然そういうんじゃなくて、単に暇だったんだ。来週のテスト勉強だってあったし。この土砂降りの雨の中を傘さして自転車漕いで帰るなら、もう少し雨が弱まるまで待ってようかとか思ったんだ。

 三歩歩いてから、そのままの姿勢で再び三歩戻って窓ガラスをコンコンと叩いた。

「おっさんあのさ。8番のアーム、一瞬だけ低めに直してくんないかな?」


こういう時、どういう顔すればいいのかわからない。でもちょっとだけ、情にほだされたっていうか。だって生脚、さっきは本当に涙目だったんだ。面倒臭そうなフリをして、来た道をゆっくり戻り、生脚の後ろで緑色の網に手をかけた。

「今、おっさんがボールの高さを低めに調節してくれるっていうから、ちょっと待ってろ」

 ブースの中で、呆然と立ち尽くしてる生脚に声をかける。驚いたのか、すごい勢いで振り向いてた。

「怒って帰っちゃったのかと思った」

 いや、確かに怒って帰りたかったけどね。

「ここの施設は古いから、個人の好みで低め高めとか配球の調節ができないんだ。今おっさんが…ああ、今ほら裏に入った、あのおっさんが直してくれるから、ちょっと待ってて」

 鈴木のおっさんがマシンのアーム位置を直してくれてる間、また俺はカバンをベンチに置いて学ランをはおった。

 生脚は、ブースからよろりと出てきたかと思うと、相変わらず靴も履かないまま俺の隣に腰掛けた。小声でよいしょっていうのが聞こえる。

「俺、ここ好きなの。何か体なまってるなって時は特に」

沈黙に耐えられなくなった俺は、何か話さなくちゃっていう妙な義務感を感じて独り言のように呟いた。

「その気持ちわかる。まだ当てられないけど、バット振ってるだけでスカッとするよね。これで当たったら、どうなっちゃうんだろってぐらい!」

生脚は、興奮したように話に乗ってきた。さっきまで泣いてたんじゃなかったのか。

「あのさ、名前、聞いてもいい?」

下から覗き込むように突然聞かれて、本当の名前を言うかどうか一瞬言いどもる。意味のない警戒。なぜいつも、自分のことを知られたくないって思ってしまうんだろう。自分の性癖を知られたくない、追及して欲しくないって気持ちの現れだろうか。

「…岡山」

「岡山くん、下の名前は?」

「勘太郎。皆にはカンって呼ばれてる」

「いい名前。その学ラン、近くの高校なのかな?俺は高二の時にこの街に引っ越してきて、そのまま隣町の高校行ったから、地元の高校のこととか全然知らないんだ」

「高校生?!見えねー、中学生だと思ってた」

 俺は思わずそっぽを向いて叫んだ。

「失礼だな!俺は大学生!R大の2年だよ。カンはいいかげん俺に敬語使いなさい」

 1歳年上って、そんなドヤッて顔していい程の年の差だったか。それにR大って、俺の第一希望大学。学部はどこだろう。んでもって、いきなりのあだ名呼び。身長とは関係なく、めちゃコミュニケーション能力高め。でも本当に大学生には見えない。

「さっきお前なんて言ってごめん。そっちこそ、名前なんていうの?」

「すみません。あと、名前お聞きしていいですかでしょ。藤本波喜。なみき、って苗字みたいに発音あげないでね。なみき、だから。なみでいいよ」

「はあ。でも…なみさんは本当に大学生?中学生じゃなくて?」

 キッと睨まれた。笑顔が素敵な男はたくさんいるけど、怒った顔がかわいい男は珍しい。

「大学生って言ってんじゃん!R大の経済学部二年。学生証見せようか?少なくとも2コは年上なのに、ヒドくない?!」

あ、同じ学部だ。まさに俺の第一希望の。

「はは、すみません。今もこっちに住んでるんですか?」

「ううん、今は東京で一人暮らししてる。今日はちょっと、久しぶりにこっちに帰ってきてて、バッティングセンターがあるの思い出して、さ。ジョギングの帰りにちょっと寄ってみたんだ」

だからランニングパンツ姿なのか。俺は、自分で振っておきながら歳のことをこれ以上突っ込まれたくなくて、別の話題を慌てて探した。

「髪綺麗っすね。さっきライトに透けてて眩しかった。さっきいい匂いしたし」

「…ありがとう。カンは野球部?坊主じゃなくていいの?」

「はい、野球部です。今時は、坊主だと野球やる奴いなくなるんで。うちの高校は短髪オッケーです。サッカー部に対抗してるらしい」

「へえ。カンなら坊主でもカッコ良さそうだけど」

「ありがとうございます。でも何にも出ないですよ」

髪を触りながら、目の前のブースを見て他の話題を慌てて探す。沈黙は嫌だ。

「なみさんは昔から左利き?」

「うん。ぜーんぶ左。ボールもペンもお箸もハサミも急須も全部左。すっごく面倒くさいよ」

 なみさんは左手でボールを投げる仕草をして見せた。

「あと考え事してると、改札でうっかり隣のゲート開けちゃう」

 俺は思わず笑った。左利きあるある。

「俺も左利きだけど、ペンと箸、はさみとかは子供の頃に無理やり矯正されたから右なんです。他は全部左。左投げ、左打ち。左消しゴム、左オ…ってのはいいとして。ガキの頃は右手でグローブ使えなくて、左に持ったグローブでボールをキャッチして、毎回グローブ外してボール投げてました」

 なみさんも、俺の話に笑ってくれた。

「なんか、左利き同士って親近感湧かないっすか?」

「うん、すっごく仲間意識感じるよね。俺は特に矯正されなかったから、ただひたむきにひたすらに左利き。伸び伸び育ててもらいました。でも左利きは器用でしかも性格変わってるってよく言われるよね。どこの都市伝説だ、って思うよ」

 変わり者の男子大学生と変わり者の男子高校生が、雨のバッティングセンターで左利き談義。

「今は右利きの奴でも左打ちが結構多いんだ。左打ち用のバッターボックスから走った方が、一塁まで近いっしょ?でも足が速いのはいいけど、そのおかげで投球とかがいまいちなわけ。野球は打つだけじゃないのに。もちろんそういう奴は、器用だし自信家が多いんでバッティングセンターになんか絶対来ないんだ。目先の結果ばっかり追って、地道に練習なんてバカらしいって言ってる」

「それ、愚痴?」

また下から覗くように俺の顔を見る生脚…じゃなくてなみさん。

「あ、悪い、愚痴だな」

 直球で来た。なぜか即座に真っ正面で受け止められた。

「批評家になら誰にでもなれるって分かってる。結果が伴わなくちゃ意味ないし。うちの高校、甲子園は二十年前に行ったきりだしね。怪我もしょっちゅう…俺は病気にも泣かされたし、急に背が伸びたせいで夜とか脚がすっごく痛かった。弱小野球部でもレギュラーにはなれなかったしね。でも俺は野球が好きだから、大学行っても続ける。プロになるのは無理だけど、おやじが入ってる草野球チーム、大学入ってもまたちょくちょくこっち戻って来て参加するつもり。そこでなら、俺四番なんだぜ。まあおっさんばっかりのチームだけどな。あ、あの機械直してるおっさんもチーム入ってる」

俺は膝を少しさすりながら言った。

「そっか。カンみたいに野球上手そうな人でも、レギュラーって難しいんだね。でも、好きな事を早いうちからみつけた人って強いよ。昔は俺、部活なんてってバカにしてて、バイトに明け暮れるバイト部だったけど、今思えば向上心だったりチームワークだったり、練習メニュー考えたり単に気晴らしだったり、モヤモヤを汗で吹き飛ばしたり、まあとにかく大人になってから役に立つことがいっぱいあるよな。うらやましいよ。親と一緒に夢中になれることがあるなんて」

 なみさんは、脚をブラブラさせながら笑顔でそう言った。1歳でも年上って、そんなに人生に経験差が出るものか。

 ネットの遥か向こうに、手を振ってる人影が見える。鈴木のおっさんからのゴーサインが出た。

「…じゃあ、行きますか」 

 俺はバットを拾い上げて、グリップエンドをなみさんの胸元に押し当てた。


 鈴木のおっさんは、やっぱりすごいと思う。どうしてこんなにもいい場所に球を持ってくることができるのか。なみさんのちょうど腰の高さ。体に近い内角も外側の外角もかなり配球はバラバラだけど、それは雨のせいもあると思う。体にあったバット、基本の構え、基本のスウィング。そして背の高さにあった配球。雨だけど。さてさて。

 何回か見逃したあと、五球目にして、初ヒットを記録した。後ろに球が飛んでいったファールボールだったけど。

 さらに、二回に一回くらいの割合で、当たるようになった。結構いい音、出てる。雨での中、金属バッドの高いヒット音が、俺となみさんだけしか聞こえないような錯覚を耳に起こさせる。

「なにこれ!すっごい楽しいんだけど!超気持ちいいんだけど!」

 なみさんはひっきりになしにネットごしに俺を見る。すごくはしゃいでる。まあ気持ちも分かるけど。俺もガキの頃、球が当たった瞬間とかすごく気持ちよかった。だから今日も来てるんだけど。

 

 なみさんがずっとコーフン・フルスロットルで球を打返してる姿も、何か見てて気持ちよかった。…自分じゃ何が原因なのかって、わかんないものなんだな。他人の目から見れば、一目瞭然なのに。わからないことがわかるって充分才能なんだと思う。

 なみさんのバッティングと自分のずっと悩んでる事がだぶって見えた。そうか、そういうことなのかも。

 しばらく上の空でいると、なみさんが息を切らしながら、今度は俺の胸にバットの先を押し当ててきた。

「ほれ、次はカンの番だよ!」

 あくびをする振りで気のない演出をしつつ、無言で頭をかきながらまた事務所に行く。

「鈴木のおっさん。悪い、もう一回アーム位置直してくれない? あれじゃ俺じゃなくても他の人には打てないよ」

 8番ブースに戻ると、なみさんが自販機で飲み物を買っていた。

「身長伸ばしたいなら、コーラよりも牛乳がいいんじゃないんですかね…」

 途中まで言いかけて、また睨まれた。

「あいつと同じこと言わないで!毎日牛乳飲んでるよ!バカ!」

 マジでかわいなあ、この人。もっといじりたい。でも…あいつって誰なんだろう。胸がちくっとした。ああ、彼女か。多分。

 俺は、またマシンの裏側に来た鈴木のおっさんに手振りで挨拶して、ベンチに座る。

「…じゃあコーヒー牛乳にするから、このコーラもらって」

 なみさんが、飲みかけのコーラをくれる。これって…間接何とかでは。

 でもなみさんは自分のした事に気がつかないみたいだった。天然あざっす。まあ、普通は男同士で間接、とか気にしないよな。

「ありがと。なみさんって、ツンデレ?理由作らないと他人に優しくなれないタイプ?」

「ちょ、何言ってんの?黙って飲めよ!」

 ソッコーで返事が帰って来た。んで、二人して笑った。何か、心地いい。

「…俺さ、さっき言ったけど結構デカめの病気したんだ、高三の時。そして留年した」

 どうやら雨が少し小振りになって来たようだ。なみさんはびっくりした顔で俺を見てる。俺はかまわず続けた。

「病気とか、縁がなさそうな顔してんのに」

「はは、言うね。…関節の病気だったんだ。成長期の人に多いんだって。俺、それまですっごく背が低くて悩んでたくらいなのに、急にすごい身長が伸びてさ、膝の骨が出っ張ってすごく痛いんだ。今も膝に、おばちゃんのケツにあるみたいな肉割れの痕があるよ。薬とリハビリで治ったし、まあ大した病気じゃなかったんだけど、抗生物質のせいなのか、違う原因なのかよくわかんねえんだけど、その時に重い肺炎って奴も併発してさ。それで、何かずっと病院で寝てたら出席日数足りなくなった」

「そうなんだ…大変だったんだね」

 なみさん、わざと音立てて飲んでいたコーヒー牛乳、恥ずかしくなったのか両手で握りしめている。

「もうこうなるとね、どんなに頑張ってももう、だめなんだ。夢にまで見た身長を手に入れたはずなのに。肺炎で肺活量がだいぶ落ちたから、どんなに鍛えても運動神経よくても息が持たないの。野球はできるけど、結局レギュラーにも一度もなれなかった。クラスは全員が一個下だし、何か遠慮されてるのか怖いのか、誰も近づかねえし。いつも大体一人で過ごしてるよ。エロで頭いっぱいの高校生は、結構悩み多き高校生でもあるんですよ」

 最後はおちゃらけた。向こうもこんな事話されても困るだろうし。でも何でこの話したんだろう、俺。

 なみさんは何も言わず、急に立ち上がって、俺を横からぎゅっと抱きしめた。片腕を首に回して、俺の頭に顎を乗っけて。今度は俺が驚いた。

「俺が子供の頃さ、つらい事があると母さんにこうやってぎゅってしてもらったんだ。そうすると、よくわかんないけどなんだか凄く気持ちが落ち着いて……人の温かさって、すごくいいよね。あなたのこと思ってますよって気持ちが、伝わってくる。寒いと、心も凍えちゃうのかな」

 俺は…しばらく動けなかった。温かい。なみさんの手は確かに冷たかったけど、とても温かく感じた。小さい体も、すごく大きく感じる。包み込まれてる感じで……俺は思わず、なみさんのまわした腕にそっと触れた。

「俺も、結構人には言えない苦労してる。俺小さいから普通に虐められたしね。だからと言って身長は他人のせいじゃないし、結構もんもんとしてたっけ。吹っ切れたのは、大学受かったからかな。頑張って勉強すれば、知識への努力は裏切らないって事に気がついて。勉強は身長とか健康とかとは関係ないから、安心してよ。でも…カンが病気をしたことで、こんなにも人に優しくなれてるのなら、不謹慎かもしれないけど俺は嬉しい。ごめん」

 何だろう、この安らぎは。息が白くなってもおかしくないくらいの寒さなのに。俺は目を閉じた。欲しかった言葉をもらえた安心感。ああ、最後にこんなに穏やかな気持ちになったのって、いつだったっけ。

「…彼女さんにこんなところ見られたら、ホモ扱いされて大変だよ」

俺は、思い切り離れがたい気持ちと裏腹に、なみさんの腕を握って抱きしめられた体をゆっくり離した。なみさんは何も言わなかった。まずはそれより、穏やかな気持ちと裏腹の下半身をなんとかしなくてはいけない。


 いきなり、キャッチャー代わりのクッションがボスッと低くて鋭い音をたてた。ハッと気づく。やべえ、鈴木のおっさん居たんだった。おっさんが一発球をアームから送ってよこしたらしい。調節完了の合図、兼“おまえら俺のテリトリーでいちゃついてんじゃねえぞ”の合図だ、たぶん。

 鈴木のおっさんや親父には、まだ自分の性癖のことを話したことはない。ただ、なんとなくバレてるのかもしれないという自覚はある。いつか、他人に話ができる時がくるのだろうか。

 俺は無言で立ち上がって、カバンから頭だけ飛び出してる裸のバットを取り出した。奥の方にねじ込んであった黒のバッティンググローブをなんとか見つけて両手にはめると、焦りつつも自動的に気持ちも上がる。

 お言葉に甘えて、機械の上に積み上げていたコインをそのままもらう。

「ありがとう、なみさん。実は来年受験する大学、なみさんとこのR大なんだ。しかも同じ経済学部。今はまだB判定だけど何とかがんばって合格するんで、キャンパスで会えたらいいですね。それじゃゲームとコーラ、ごちそうさまです」

 コインを入れる直前に、目を合わせずに挨拶をした。身体も、なるべく元気になっちゃったところが見えないようにして。緩めのボンタン服でよかったとこの時ほど思ったことはない。

「あ…うん。カン…あの…」

なみさんは、何か言いたげだった。一球目が飛んできた。それでも、俺はなみさんが困った顔で俯いているのを見て、もう少し、なみさんの言葉を待っていたかった。

「うん、今日は本当に色々ありがとう。受験、頑張って」

これは、“もう帰る”の意味だ。俺は、内心ショックを受けたのを顔に出さないように笑顔でお辞儀をした。なみさんには多分彼女がいる。なみさんよりちっこい、きっと可愛い女の子が。そして俺のことは恋愛対象としてなんてこれっぽっちも見てないんだろう。ただの口の悪い、年下の野球バカとしか見てないんだ。

 俺は、ぐっとバットを握り締めた。さあ、束の間の夢は終わり。ハグしてもらって、もう充分じゃないか。今からは集中して打とう。とりあえず下半身が冷えるまで。さっさと打ってスカッとして落ち着いて、それでもっと雨が酷くなる前にさっさと家に帰ろう。

 遠くで微かに足音を聞いた時はもう、三球目を打ち始めてた。低めの内角。ジャストミートはしなかったが、レフト前ヒット。球が当たった瞬間、カキン!といい打撃音。バイバイ、生まれたばっかの淡い恋心。来年大学受かっても普通の顔して挨拶できるかな。

 四球目、これまた内角。焦らずバットを戻してしっかり構えれば、体の向き次第で同じ球でショートにも飛ばせる。行った。うん、久しぶりだけどやっぱりいいな。

 五球目、またまた内角、でも今度は高め。高めの方が俺は断然打ちやすい。これは球がちょっと上に上がって、あんまり気持ちのいい当たりじゃなかった。

 六球目、ちょい力入れて引き気味でバットを振ってみる。ヘッドキャップ側に当たると球はすぐに左にピュンと飛んで行く。

 ちょっと弾んだ息を整える。まだまだ、音はいい音してる。腕まくりしたシャツが邪魔にならないようにあげてもう一度。

 …やっぱ俺、万年野球小僧だな。

 何が悲しいかな、つい笑ってしまう。ニヤニヤしながら、機械が投げたボールを打ち返してるだけなのに楽しくてたまらない。そしてやっぱり気持ちいい。

 …多分一目惚れなんて、絶対かなわない。しかも彼女がいるらしいノンケの中学生なんて。俺にはなから勝ち目はない。試合の前にもう負けている。不戦敗ってやつだ。

 もう一度腰をしっかり落として、バットを構える。今度は外角。しかもまた高め。スイングに余裕が出てくる。ちょっと上から下ろし気味に打って、ゴロ狙い。結構いい線言ってる。

 あと何球?いや、まだまだ来る。鈴木のおっさんに調節してもらった後だから、おいしい球がどんどん出てくる。

 俺は夢中になりたかった。すっかり集中モードに入って、左脳で打撃シュミレーションと解析をしながら数をこなしたかった。汗もすぐ出て来たけど、雨のおかげでそんなに暑くならずに済んでいる。息もまだそんなに上がってない、大丈夫。

 でも…俺は正直、今までにこれほどまで、出会ったばかりの人に心を惑わされることなんてなかった。礼儀正しい挨拶をして、さっさと美しくシメたはずなのに。いつまでもずるずると未練がましい気持ちをボールに当てていた。でも、引き止めちゃいけない。なみさんに少しでもその気があるなら、彼女の存在を否定して俺に隙を見せてくれるはず。でも、しなかった。結果は明白なんだ。


「わーすごい!かっこいい!」

 突然後ろで叫んだ声に肩がびくっとなるほど驚いた。

「なみさん、何でまだいるんですか」

 三ゲームを終えた後に汗をまくったシャツで拭いながらネットから首だけ出してみたが、なみさんはベンチにはいなかった。少し離れたところで、立ちながら携帯で話をしているようだった。まだ裸足のままだ。なんだ。帰ってはいなかったけど、俺のバッティングを見ていたわけでもなかった。

 でも声が聞こえて来た瞬間、驚きと同時に妙に変な期待が俺の胸の奥で生まれた。女と話してる?彼女?中学生に本当に彼女とかいるの?俺のバッティング、ちゃんと見てないくせに。女がいるくせに…なんで、今電話なんだ。俺に期待させておいて。

 なみさんは、俺に背を向けながらしきりに話をしてる。でもその割に深刻そうで、なぜだか楽しそうにも聞こえた。

 俺は戸惑いながらブースの中に戻った。どうする、俺。下半身はもう充分落ち着いた。もう帰る?でも出口は1つ。あのなみさんの横をすり抜けて帰る勇気がない。なぜだか知らないけど、嫉妬してるように見られたくない。実際してるのか、俺にはわからない。

 …カバンから小銭入れを取り出し、もう一ゲーム分のコインをマシンに入れた。本当は、イライラした気持ちのままでバッターボックスに立ちたくない。すっきりするけど、イライラを発散させるためにボールを打つのは、野球に失礼だと思うから。

 とはいいながら、結局球に八つ当たりした。全部の球を、あの安っぽい板に集中させて当てにいく。

 そう、あの“ホームラン”の標的めがけて。

 ネットの中央、俺のブースから見て右側上部にその安っぽい手書きの標的は鎮座している。正直俺はこんな風に意識的にホームランを狙いにいったりはしないけど、今日は特別な気分だった。

 鈴木のおっさんに嫌がられるから、常連はホームランの板には手をつけないってのが暗黙の了解だけど、今日は違う。何がどう違うって、何がどう特別なのかもまだわからない。

 すくいあげるようにスイングして、とにかく球を上げる。あとは狙いを定めるだけだ。

 球の合間にスラックスから腕時計を出した。親父から高校入学祝いにもらったクロノグラフ。五時半前。日は沈んで空はもうすっかり暗い。あの電話の後、なみさんは帰ってしまうのか。

 無意識に舌打ちした瞬間、手応えを感じて思わず声にならない声を出してしまった。球すじはまっすぐ標的めがけて美しい弧を描き、そして予想通りボガン、という音を立てて命中した。

 突然、センター内にファンファーレが鳴り響く。自動で鳴るから仕方ない。何度も近所迷惑だって鈴木のおっさんが怒られてるの知っててやっちまった。マジでごめん。

 残りの4球を卒なくこなした後。俺にほんの少しの後悔を残して、アームはがくりと反省したかのように動かなくなった。

「今の音楽、何?」

 なみさんが、ベンチに戻った俺の元に走って来た。

「あの、何でまだいるんですか」

 同じ質問を今度は本人にぶつけた。

「スイングの参考にしようかなって思って……カン、かっこよかったし」

 汗をタオルでぬぐって、ニヤケた顔を隠した。大丈夫。ばれてない。

「今ね、俺ホームラン打ったんですよ。ホームラン」

「??」

 事態が飲み込めていないようだ。確かにバッティングセンターでホームランって、知らない人にはどういう定義だよって話だ。

「あそこにホームランって書いてある丸い標的があるでしょ。アレに球当てるとホームランってことになって景品がもらえるの。知ってました?」

 なみさんはブンブン首を横に振って、キラキラの目で俺を見た。

「…というわけで、景品もらってきます。それまでに、これで足拭いといて。足の裏、真っ黒でしょ。靴下汚れちゃうよ」

 俺はタオルを投げたあと事務所まで足早に歩きながら、使えるだけの脳みそを使って作戦を練った。まだ粘れる?もう帰っちゃう?

 鈴木のおっさんは、事務所のガラス窓をすでに開けて待っていた。

「何してくれんのよ、カン。親切を仇で返すつもりか」

「すいません。自己顕示欲が全開に出てしまいました」

 おっさん、ヤニがついた歯を全開に見せてニカニカ笑ってる。

「別にいいけどよ。お前は野球ぐらいしか人にいいトコ見せらんないもんなあ」

「どうでもいいから早く景品ください。どうせ三ゲーム分無料券でしょ」

 おっさんから券を受け取った時、横に違う何かチケットのようなものが目に入った。

「おっさん、それ何?」

「ああ、これ?これは線路の向こうのショッピングセンターにある観覧車の無料券だけど」

「観覧車…なんでそれ俺にくれないの」

「何血迷ってんだ、おまえが観覧車ってガラか。それに有効期限が今日までなんだ。捨てるしかないだろ」

 俺は思わず窓に首を突っ込んで叫んでいた。

「それちょうだい!この三ゲーム分無料券と交換していいから!」

 あまりの俺の食いつきっぷりに何かを察したのか、おっさんは観覧車の券とゲーム無料券を両方くれた。

 券でピラピラと顔をあおぎながら、余裕の顔を作ってベンチまで戻る。なみさんはちょこんと座って、犬のように大人しく待っていた。靴を履いて、俺のジャージをきれいにたたんで。

「使ったタオルとジャージ、洗って返したい」

 俺は自分の詰めの甘さにクラクラした。そうじゃん、その手があったじゃん。何やってんの自分。

「あー、じゃあ、そうしてもらおっかな」

俺となみさんは、携帯のメッセージアプリのIDを交換し合った。最初にくれたのは、バットとボールのイラストスタンプだった。

「あのさ、それより…ホームランの景品、もらったことにはもらったんだけど。何か期限が今日までなんだって…近くの観覧車の券。いります?」

「え。観覧車?俺乗りたい!あそこのまだ一度も乗った事ないから」

 俺は、勝負に出た。

「じゃあ…どうぞ。電話の彼女と一緒に乗ってください。今日で期限切れるけど」

 なみさんは、急に神妙な面持ちになった。これで素直に受け取れば、俺は今夜、一人でへこみながら泣き寝入りの予定だった。だけど。

「ランニングパンツになったのはわざとだよ、カン。後、電話の相手はさっき“元”彼になった。やっと正式に別れられたから」

「わざと?元彼?」

 驚いた。そういう答えが返ってくるとは予想してなかった。俺、いつもゼロか百しかなかったから。すなわち彼女ありか、彼女なしか。でも今別れたってのは…彼氏?それで涙の生脚バッティング?なんでわざとランニングパンツ?なみさんはお仲間?

 俺はため息をついた。どうしよう。いろんな意味で、俺は嬉しくてにやけた顔をなみさんに見られないようにするのがやっとだった。

「さっさと支度して一緒に行こうよ。車乗せてあげるから」

「え?俺と行くんですか?」

「他に誰と行くの?この状況で、こんな時間に?」

「だって、今そんな心境じゃないのかなって思って」

「わかった。詳しい話は車の中でしよう。チャリで来たの?とりあえずここに置いていけるでしょ」

 なみさんのセリフがあまりに男前だったんで、ちょっと笑ってしまった。

 確かになみさんはブースの影にジャージを隠していた。あんな位置じゃ見えない、気づけない。わざとって、それは俺を誘ってたって意味なのか。

 なみさんは自分のサイズぴったりのジャージを履いて、颯爽と歩き始めた。


 俺は学ランを再びはおってなみさんの後を歩く。ああ、歩幅もやっぱり小さい。ヒョコヒョコ飛んでるみたいに歩いてるの、全然気づいてないんだろうな。

 事務所の横を通った時、鈴木のおっさんが親指たててるのが目に入ってあせった。でも幸いなことに事務所の窓口の高さだと、なみさんはテーブルの下に潜ってしまう。

 見えなくて良かった。しかもがんばれって口パクまで。かんべんして。でも、ありがとう、おっさん。何も言わないでくれて。


「随分前から別れたいって言ったんだ」

 いきなり車ん中でなみさんが振って来た話題に、俺はなんて答えたらいいのかわからなかった。

 なみさんは、運転が少し荒かった。信号でも急ブレーキで、停止線のギリギリ外で止まる。これじゃ職質されるのは目に見えている。しかも、それが見た目なのか運転テクなのかわからない。もしや両方か。

「でもあいつはバカみたいに謝ってくる。三股かけてたのはあっちなのにね」

「三股…厳しいですね」

 正直それはめちゃくちゃきつい。

「もうしない、俺のことが一番好きだった、もう俺一人に絞るからっていうのさ。じゃあ、他の二人どうするんだよっていうと、別れるのにはもう少し時間がかかるって。なんだそれ、でしょ。結局同じことの繰り返し。もう俺が別れたい以上どうしようもないでしょって、さっき説得して。きれいかどうかはわからないけど、何とかちゃんと納得してもらって別れられた」

 運転してるときに深い話するなって、いつも脳筋のおやじに怒鳴られる。だけどなみさんはそういうの全然気にしないようで、前を見たまま淡々と話を続けた。じゃあ何なんだよ、あの涙。でも俺は聞けなかった。

 俺は今、この人に一目惚れして、嫉妬して、カマかけて、勝負に出て、そしてなぜか二人で観覧車に乗りに行こうとしてる。

 余りの急展開。窓の外は街灯もない真っ暗なスーパー農道。ラジオも音楽もない。ただ、雨音とフロントのワイパーがゴムを噛む音だけが、ゴリゴリと響く。

 あ、今密室になみさんと二人きり。しかも相手は手が離せない。俺は、今なら助手席からなみさんにイタズラし放題。そう思ったとたん、妙に意識してしまった。横を向いて外を眺めながら、全意識は右の運転席に向いている。頭ひとつも動かせない。なみさんが左折の時にちらりとサイドミラーを見る時は危ない。一体どんな顔しているのか見当もつかない、今の俺自身の心の中も見られてしまう気がして。窓ガラスには、小雨になった雨の水滴がお互いにくっついて大きくなりながら後ろへ後ろへと流れていく。

「男はなんでそんなに愛を安売りできるんだろうね」

「バカだからじゃないですか」

 そうとしか答えられなかった。

「バカを好きになる男はもっとバカ、かな」

「俺だってバカだけどさ……少なくとも三股なんてしないし、愛も安売りしない」

 ワイパーがしきりに雨を蹴散らす姿は、なぜかなみさんと重なってみえた。

 目の前には、いつの間にかイルミネーションの主張が激しい観覧車がどんどん近づいて来ていた。


 駐車場の入り口に、観覧車の運行時間が書いてあった。午後六時まで。知らなかった。素早く腕時計を見る。もしクロノが正確ならあと四分で閉館。乗れないかも、もしかして。

「一応、係の人に聞いてみる」

 俺は駐車場を探す時間も惜しくて、ミニ遊園地の入り口の前で降ろしてもらった。雨の中、傘も持たずにダッシュで観覧車乗り場まで走る。当たり前だ、俺の人生がかかってるんだ。

 観覧車はまた停まってはいなかったが、入り口に立ち入り禁止のチェーンを張っている女性を見つけた。

「ちょっと待ってください。もう乗れませんか?」

 精一杯の爽やかな笑顔で聞いてみる。

 係員の女性は、女性と言うよりおばちゃんだった。俺はできる限りの交渉を試みた。

「お姉さん、一生のお願い!俺の人生が今日のこの瞬間にかかってるの。一周でもいいから乗せて!」

 両手を合わせて、頼み込む。その手には、観覧車の無料券4枚。おばちゃんはちょっとびっくりして俺を見つめている。頼む。わかってくれ。察してくれ。必死なんだ今俺。

 でも、さすがにおばちゃんも人生の辛酸をなめてきたと見えた。後ろから小走りに追いかけてきたなみさんと俺を交互に見て、何かを理解してくれた。なんでさっきまで履いてたたジャージ、また脱いでるんだ。

「本当はもう時間だから乗せちゃいけないんだけど、私個人的に今、一日十善実施中だから、乗せてあげるよ。喧嘩でもした?」

 一日十善?…ともあれ乗れることにはなった。この会話をなみさんに聞かれなくてよかったと思った。一生のお願いは、こうやって使えばなるほど有効なんだと言う前例ができた。

 おばちゃんに急いで券を渡す。

「それでは二周の密室空の旅、いってらっしゃいませ」

 ホストみたいな怪しいお辞儀をして、おばちゃんは俺たちが乗りこんだゴンドラを慣れた手つきで器用に閉めた。

「乗れてよかったね。結構交渉事得意なんだ、カン」

「一生のお願い、俺も使ってみた。さっきのおばちゃんに」

 なみさんが俺の向かい側に座りながら、笑った。ちょっと息が弾んでいる。うん、やっぱり隣には座らないよね、最初からはね。

 狭いゴンドラ内。俺はわざと大股を広げて、向かい側のなみさんを自分の中に入れるようにして座った。スピーカーから流れる、昭和の香りのする女性のうやうやしいナレーション。雨で見えもしない景色の説明をしてくれる。

「今日から元彼になった“あいつ”って、同じ大学?」

「そうだけど…何で?」

 何か嫌になってきた。そんな先輩がいる大学。何で気になるんだよ。自分のガキっぽさに自分でイラだつ。

 俺は学ランの上着を脱いで、玉の雨を払い落とし、なみさんの寒そうな脚にかけた。何で、わざわざジャージを脱いできた。そんな寒そうなパンツで無理して、中がこっち側から見えそうだ。

「パンツから何やらのぞいてますから」

「ちょっ!」

「嘘、嘘。何でジャージ脱いだの。寒いでしょ」

 なみさんは、体型は中学生みたいなのに、絶対かわいい声とか出さないし、かわいい仕草とかかわいい表情とかも絶対しない。バッターボックスにもガッツリ大股で立っていた。それなのになぜかかわいい。…なんていうかな、ギャップがあって。

 観覧車は一周13分って昭和のナレーターがさっき言ってた。ということは、俺はこの26分で決着を付けなければならない。この気持ちをなみさんに伝えるかどうかってところから含めて。どうする俺。

 雨が降っているにも関わらず、遠くの空がオレンジ色で微かに染まっているのが見えた。何駅も離れた大きなターミナル駅周辺の繁華街のライトが、雲を照らしているようだった。雨足もだいぶ弱くなった。もうすぐこの雨も止むだろう。

 俺は、黙って携帯を取り出して、なみさんにメッセージを送った。

『随分前から別れようって言ったのに、なんでわざわざ今日、改めて別れ話なんかしたんですか?』

なみさんは、メッセージに気がついて携帯をしばらく眺めたあと、何かを打ち始めた。顔が、携帯の光に照らされて、一層可愛く見えた。

『今日、カタをつけたくなったから』

『なんで』

『気になる人ができたから』

 俺は思わず、顔をあげて目の前にいるなみさんを見つめた。

 なみさんは所在なさげに、外の景色を見ている。

『気になる人って、どんな人よ?』

「お前受験生だろ。B判定ごときで余裕見せて遊んでる暇あったら勉強しろよ」

 なみさんは痺れを切らして、直接声に出した。

「気になる人って、俺の受験と関係あるのかよ。それに観覧車誘ったの、そっちじゃん!」

 思わず左手で顔を覆った。よくわからない。最初から見込みなしだったのか。告白する前から、わけのわからない牽制をされてしまった。

 なみさんは膝にかけた俺の学ランが濡れた床に触れないように、懸命に握っててくれる。会話が…見つからない。

「ねえ、なんで学ランの裏側に赤いチェーンとかついてるの?初めて見たよ。カンはヤンキーなの?」

「へ?」

 おれは思わず変な声を出してしまった。

「恋・愛・成・就って…しかも真ん中に鳥居ついてるし」

 確かに俺の学ランの裏ボタンは、普通のぼたんじゃなくて五個で一つの文字になってる。赤いチェーンは、その裏ボタンをぬってたるみを持たせながら下まで伸ばしている。

「ああ。それはですね…」

 どうでもいいところをツッコまれて、微妙な顔になる。まあ、会話ができて嬉しいけれども。

「友達から譲ってもらったんです。俺、身長が急に20センチも伸びたんで、高校入学した時に買った制服入んなくなって。それで、俺とほぼ同じ体格のダチに頼んで、そいつが去年卒業の時にもらったんです」

「そうなんだ。カンがヤンキーなのかと思ってた。ということはその友達、ボタンが全部残ってる時点で恋愛は成就しなかったってことだよね。卒業式でボタンもあげられずに」

 真面目な顔でなみさんが俺に聞いてくる。上田ひかるよ、今観覧車の中でお前は知らん男からダメ出しされてっぞ。

「まあ…確かにそういうことになりますかね。サイズ合うのをもらえれば何でも良かったんで気にしてなかったけど。でもすごくいい奴なんです」

「そっか。カンは友達多そうだもんね。でも、もしかしてクラスの人たちに、この制服のせいで怖がられてるだけかもよ。だってカンは…こんなに優しいのに」

 沈黙が続く。

 一番上に来て、一番上だねって言って、それからまた沈黙になる。なみさんは、俺の学ランを相変わらず懸命に握ってて、シワができそうだった。なみさんがこの学ランを着た俺の背中を握っているところを一瞬想像した。ちょっと切なくなった。

「きれいだね、こんな田舎でもこんなにきれいに夜景が見えるんだ。雨だけど」

 なみさんは、俺の気持ちも知らずに、そうつぶやいた。


 観覧車が二周目に入る前に、呼吸を整えて考えてみた。このまま、あともう一回まわったら、この人とさよならするのか?同じ大学って言っても、そもそも合格するかなんてわからない。また会えるかなんてわからない。あのバッティングセンターに行っても、また来るかなんてわからない。そんな偶然に頼って、俺はそれでいいのか?たとえ友達みたいな付き合いでダラダラ付き合って、それで俺は満足するのか?メッセージアプリなんて、相手が応答しなければ、そのままフェードアウトなんていくらでもできる。やり取りをブロックすることもできる。俺はもうこのまま会えなくなってもいいのか?なみさんに突然新しい彼氏ができても、笑って祝福できるのか?


「…俺じゃだめですか?」

 とうとう、切り出してしまった。

「え?何が?」

 幸い、真下の降り口に例のおばちゃんはいなかった。さすが一日十善キャンペーン実施中。観覧車に飛び乗ってきた男同士が、どんな喧嘩をして、どんな仲直りをするのか知っているのか。それか…カップルが観覧車の中でどんなムードになるのか、よくわかってるのか。観覧車は一定の速度で二周目に入った。

「確かに俺B判定の受験生だし、今勉強ばかりで一緒に遊ぶ時間もないし、バイトもしれないから金もないです。でも…あと半年待ってもらえば、必ずなみさんの大学入るから…だから…俺じゃだめっすか?」

「だから、何が」

 なみさんがしびれを切らしてひとこと言い捨てた。俺は、ゆっくり膝立ちでなみさんに迫った。右手を脇のパイプに、左手をなみさんの真っ赤になった頬に当てて。大丈夫、揺れてない。

「だから…俺、なみさんを好きになった。一目惚れ。もっとなみさんのこと知りたい。なみさんの彼氏になりたい」

 顔を近づける。めくれたセクシーな唇まで、あともう少し。

「なみさ…」

 最後の言葉をキスで埋めようとしたのに、俺の唇に触れたのは、なみさんの限界ギリギリで間に合ったらしき左手だった。

「先に言わせてごめん。俺、確信なかったから。でもちょっと焦り過ぎ。会ったその日にいきなりキスとか、そんなにただれてないから俺。これだから高校生は困る」

「うみあえん」

 俺は口を押さえられたまま謝った。

「俺だって…こんなにちっこくてお子様だって皆に言われるけど、一応大学生なんだよ?ちゃんと頭の方は大人なの。ここに誘ったのだって…別に小学生みたいに観覧車乗りたいからホイホイ誘ったわけじゃないよ。はい、いいから座って」

 なみさんは、俺を隣のベンチに座らせた。腰掛けたとたん、俺はあっという間に冷静になった。カッコ悪いというより、限りなく恥ずかしい。

「今日で期限が切れるチケットを、あんなに色々してくれるおじさんが景品に使う訳ないと思った。これはカンが仕組んだんだろ」

 俺は青い顔でうなずいた。バレてた。

「この観覧車の券が今日までって、ラッキーって思ったよ。一緒にここに来る言い訳ができたもん。カンに声かけて最初にきっかけ作ったのも俺だし。単語帳見て一生懸命勉強してるカン、すごくかっこよかったから。バット振ってるカンもとってもかっこよかったけど…」

ゆっくりと、隣のなみさんは俺の膝に触れた。

「だから。俺の方が先にカンのこと狙ったの。こっそりジャージ脱いで脚なんか出してさ。球が全然当たらなくて、ちゃんと打ちたかったのもあるけど。でもカンを抱きしめた時…ちょっと当たってるの、わかったんだ。お前、さっき勃ってただろ」

 俺は思わず下を向いた。恥ずかしい。しっかりばれてた。

「お前が俺の脚見てる時の目がめっちゃ野生っぽくて正直怖かったけど、それだけじゃ確信はなかった。だけど普通の男は、男とハグして勃つなんてことありえないもんなあ。カンが俺と同じ、男を好きになる男だってわかったから、すごく嬉しかった。今まで、ずっと不毛な恋愛してきたからね」

ゴンドラが少し揺れて、さらに床に雨水が入ってきた。俺は、ネオンに照らされて派手な紫色にキラキラしているなみさんの顔を見つめた。

「でもさっき電話で別れ話したんでしょ。彼氏と別れる前に俺のこと狙ったって、それは元彼に当てつけるため?」

 俺は少し混乱していた。でも、頭にきたのもある。

「ちょっと待って。自分で勝手に想像して、勝手に怒らないでくれ。俺があいつに別れようっていったの、もう半年以上前のことだから」

 半年前?ということは、半年前からすっとその“あいつ”とやらは、三股続行中でなみさんにもアプローチし続けてたってことなのか。

「もう全然に気持ち冷めてたし、実際半年以上も会ってないし。そんな時にかっこよくてかわいい高校生見つけたら、普通に狙いに行ったっていいじゃないか。あいつに電話したのは、これ以上無視してたらその間だけ問題解決が延期されるだけだから、今日すぐに

どうしても決着つけたかったの。カンと会えなくなっちゃう前に」

「なみさん、電話口で笑ってたから…てっきり…」

「そりゃ笑うよ!あいつがやっとわかってくれたんだから。っていうか、他にまた好きな人できたんだって。俺も含めた三股とはまた違う相手だってさ。バッカじゃないかと思ったよ」

 義理堅いというか…でも、なみさんがその“あいつ”とやらを決して半年間キープしたかったわけじゃないってのはわかる。単にこの人、別れだろうとちゃんと人と向き合いたい人なんだ。

「じゃあ、さっきの連続打ちでブース独占とか言う、空気読めない感じも…わざと?」

 なみさんが急に横を向いた。もうすぐ二回目の頂上だ。

「それに最初に話しかけた時、泣いてましたよね?」

「最初は元彼にイライラしてたから、単にストレス発散させようと思ってあそこに行った。あいつバイだから、男も女も両方アリなわけ。どの人がライバルなのかと疑心暗鬼になって…そんな気持ちに振り回されてた自分自身がすごく悔しくてさ。その内…」

 なみさんは前のめりで言葉を切った。

「そりゃそうだよ!あんなに打てなかったら、普通泣くだろ。体動かしてスカッとしたいって気分だったんだよ!」

慌てて誤魔化したかの様な言い訳。ちょっとした間の後、ぼそっと加えて本音らしきことを呟いた。

「…マイナスからの出会いはあとでギャップ萌えになるって、今日のテレビの星占いに出てたから」

 思わず吹き出しそうになった。なんだそれ。その無理矢理な肉食系乙女思考。他に好きな人ができたと言われたら、流石に一度は好きになった人だ、ショックだったに違いない。でもその変なギャップについては、なぜか計算の上なのか。このままなみさんに騙されておこう、と言う考えに至った。

「怒った?冷めた?」

 顔に出さない様にしてたから、なみさんが不安そうな顔で聞いてきた。

「確かに冷めましたけど…それって、逆に俺をどうにかしたかったってことですよね」

 俺と向き合ったかと思ったら、なみさんの顔があっという間にぶわっと赤くなった。

「もしなみさんが三股彼氏にイライラしてなかったら、俺たちきっと出会ってなかった。そのおかげでこうやってなみさんに出会えたから。なみさんがエロい脚だしてアピってんの、スッゲー効果的めんだった。まんまと引っかかったよ俺。そんな彼氏なんかやめて俺にしろよ、とか言う気満々だったんですけど。ファーストキスの後で」

俺は言葉を切って、真剣な顔でなみさんを見つめた。

「…なみさんが男を好きな事で苦労したり、背が小さいことで悩んだお陰で、こんなにも人に優しくなれてるのなら、不謹慎かもしれないけど俺も嬉しいです。ごめん」

 なみさんが真っ赤な顔のまま、笑顔になった。

「ファーストキス、ね。今まで付き合ったり、セックスの経験ないの?」

「ないです。片想いばっかしてて、全然免疫もないです。まあ我慢する事には慣れてるんですけど」

 そっと頬に触れられたなみさんの手が、やけに冷たくて気持ちが良かった。

「…そう言いながらドサクサに紛れて、ちゃんと俺のこと口説いてるじゃん。お前も結構策士だね。最初はぶっきらぼうの高校生なんだかかわいいなって思った。でもそれ以上に…カンがすごく優しい人だったからビックリして…俺ももっとお前のこと知りたいなって思ったんだ」

 かわいいなって。俺こんなにデカいのに。俺は小さなため息をついた。でも…今更もう遅い。俺はもうとっくになみさんを好きになっちゃってる。

「カンは受験生だし、受験が終わるまではキスもそれ以上も禁止だね。まずは同じ大学に受かってもらわなくちゃな。さっきも言ったけど、勉強は本当に俺らを裏切らないよ。うちの大学、就職率もいいし。将来どう言う道に進むかはまだわからなくても、野球以上にカンに自信をつけてくれるものだから、カンには今頑張って欲しいと思う。俺もできることは手伝うし。さっき我慢は慣れてるって言ったけど、カンはご褒美のために頑張れるタイプ?」

「全然、頑張れないタイプです」

「そう、よかった。じゃあこの学ランの第二ボタン、先にもらっておきたいな」

 なみさんは笑顔で俺の言葉を無視すると、膝にかけていた学ランから第二ボタンを取り出した。もともと縫い付けの緩かったボタン、あっという間に取れてしまった。

「裏ボタンの“愛”ももらっておくけどいい?5ヶ月待つ約束の証明と、もうこの人にはカンの愛を手に入れた人がいるってアピールとして」

 なみさんは、その愛と書かれたボタンにキスをした。

「俺の方が、絶対先に好きになったよ。カン。俺はお前のこともっともっと知りたい」

 そしてそのボタンを、そのまま俺の唇にそっと押し付けた。胸がとてつもなく締め付けられた気がした。

「…俺、初めての彼氏なのに…このまま遠距離?5ヶ月何もできないの?キスも?」

ふふ、となみさんが笑って、俺の頬を左手で優しく撫でてくれた。

「俺だって鬼畜じゃないよ。そうだよね、初めての付き合うのに全く手を出せないなんて辛いよね。現役高校生の性欲もめちゃくちゃわかってるけど…なら、模試の結果とかで小出しにご褒美あげる作戦ってのはどう?それならモチベーション上がる?」

「それしかなみさんとエロいことできる方法がないなら、めちゃくちゃ勉強します」

「カンの大切な将来のために自分が役に立てるなんて、ちょっと嬉しい」

「抱きしめてくれたのも、わざと?」

「そんなわけないだろ。あれは…単に俺がそうしたかったから」

「じゃあコーラくれて間接キス狙ったのは?」

「間接キスって」

 なみさんは、ちょっと照れた顔で笑ってくれた。

「…俺そこまで計算高くないよ。間接キス程度で狙ったとか言わないの、成人した男は。もうかわいいなあ、カン」

 俺はもう一度なみさんに顔を近づけた。

「よかった。俺、大事なところは騙されてなくて。…もう一度だけ、ぎゅってしてくれる?」

 なみさんは座ったまま、横から優しく俺を抱きしめてくれた。素直に嬉しかった。俺は精一杯カッコつけて、耳元で囁いた。

「受験までの間に俺の誕生日とか、クリスマスとか、正月とか、バレンタインデーとか色々イベント目白押しですけど。なみさん誕生日いつですか」

「4月だよ。まあそれについても、臨機応変に対応させていただきます」

 観覧車が下に着いた。

 俺はなみさんが脚に掛けていた学ランを手に取って、何も言わずなみさんの肩にそっと掛けた。なみさんも、何も言わずに笑顔で袖を通した。

 俺たちが降りると同時に観覧車は止まって、低いモーター音が消えると共に、派手なイルミネーションもパッと一瞬にして消えた。

 薄暗い闇の中で、おばちゃんがニコニコ顔でありがとうございましたとか、しれっと言ってるけど。学ランは乗る前と着てる人が違うけど、おばちゃんが想像してるようなこと、悪いけど一切できなかったからね。


 雨が上がった閉演後の遊園地はすでに街灯の明かりも人影もなくなって、俺たちは駐車場までの並木道をゆっくりと手をつないで歩いた。

 なみさんは見た目は中学生なのに、中身は俺よりずっと大人だった。大人で、純粋ですごくかわいい人だった。これから受験までの約5ヶ月、俺は我慢しつつ勉強して、見事合格できるのか。

「やっぱタオルもジャージも、洗わなくていいです。来週また体育ですぐ使うし」

 とりあえず、嘘をついてでも当分のおかずは確保しておきたい。それから。

 俺は小さなため息をついた。第二ボタンが裏ボタンごと消えたなんて。びびられてるクラスの中で、明日から俺のどんな噂が広まるか考えたくもなかった。

「すっごい楽しみだなあ、これから。ヤンキー学ランにマイバットがカバンからはみ出してる強面の男が、俺をおかずにどうやってR大合格を目指すのか」

「ちょっ、酷いよ、なみさん!」

 なみさんはぺろっと下を出して、ブカブカの学ランのまま真っ暗な並木道を嬉しそうに走り出した。

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左利きは、全然不器用。 倉橋刀心 @Toushin-Kurahashi

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