優しい男
紺藤 香純
優しい男
飯の炊ける匂いがする。懐かしい匂いだ。
二日酔いでずきずき痛む頭を押さえ、俺は布団から起き上がった。
飯の匂いは、俺のスイッチだ。連日徹夜しようが、接待で解散が深夜になろうが、妻が炊く飯を楽しみにして帰宅し、早起きする。
炊きたての白米の匂いが好きだ。味はともかく。
「あなた、おはようございます」
台所で、妻が慌ただしく味噌汁を
「もう少し時間がかかりそうです。先に着替えて下さいな」
俺は奥歯を噛みしめ、言い返したいのを我慢した。
朝ご飯を食べる気は失せた。妻に朝からばたばたと動き回られると、苛立って仕方がない。
飯の匂いを肺いっぱいに吸い込み、俺は家を出た。
幸い、今日は休日だ。喫茶店のモーニングでも食うか。
妻を叱らなかっただけでも、俺は充分優しい男だ。俺の父親は、気に入らないことがあるとすぐに母親や俺達子どもを殴り罵倒する最低な男だった。俺は妻に暴力を振るうことはなく、威圧的に発言することもない。
モーニングを食べながら、新聞を読む。
コーヒーも洋食も美味いとは思わない。近頃の若い者は、肉とかパンが好きらしい。即席ラーメンとかいうものも世の中に出回り始めた。全く以て下らない。飲むなら煎茶、食事は和食しか認めない。当然だ。俺は優しい男だからな。昔からの習慣を大切にする。
なぜ喫茶店でモーニングなんかを頼んだかといえば、この喫茶店が家の近くで一番静かな場所だからだ。ここにいれば、妻も気づいて来ることができる、という利点もある。
妻が自分の過ちに気づいて、喫茶店にお邪魔している俺に泣きついてくるのではないか。期待しても、今まで一度もそんなことはなかったが。
朝食は白飯に味噌汁、納豆、焼き鮭、おひたし、漬物だと相場が決まっている。それなのに妻は、その程度の料理にも手こずる。ハンバーグだとかライスカレーなんかは早くつくれるのに、おかしい。妻の料理は基本的に不味い。俺の母親の味になっていない。でも、俺は妻を叱るようなことはしない。俺は優しい男だから。
◇ ◆ ◇
飯の炊ける匂いがする。懐かしい匂いだ。
若い頃の夢を見た。俺も妻も元気だった頃の夢だ。
「おはようございます。朝ご飯になりますから、起きましょう」
若い女のヘルパーが俺の部屋に来て、起こしてくれる。この女は、不器用で何もかも下手くそだ。おまけに、器量が悪い。胸と尻が大きいだけが取り柄だ。
神様というものは、俺みたいな優しい男を助けてくれなかった。
脳梗塞の後遺症で、体の右側が痺れて動かない。妻はろくに俺の介護をしないくせに過労で死んだ。
子どものいなかった俺は、親戚の手で老人ホーム送りにされ、今に至る。
でも、良いこともある。若い女の尻を触ってやると、女は「止めて下さい! 訴えます!」と照れて喜ぶのだ。あまりにも照れてくれるのだが、他のヘルパーがセクシャルハラスメントだと間違えて俺が怒られたこともある。
まだ尻を触ってあげていないのに、男のヘルパーが介護を代わってしまった。
俺は優しい男だ。ヘルパーなんかに腹を立てずに、妻の料理よりも不味い飯を食ってやろう。
俺は優しい男だからな。
【「優しい男」完】
優しい男 紺藤 香純 @21109123
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます