スイート・シャワー・イン・ザ・ウインター

時雨薫

スイート・シャワー・イン・ザ・ウインター

 僧侶が読経している。声の艷やかな部分が騒がしい空調に削り取られていて、ひどく退屈だ。福永幸子は膝の上に置いた拳をもう15分ほど見つめていた。狭い葬儀場に人間が20人ばかり詰め込まれている。根津邦子は遺影の中でも不穏な表情を浮かべている。戦争、溺死、拳銃、そんな言葉を思い起こさせる表情。15年前と変わらない目元。


 仙台市電と自家用車を蝶のように避けながら黒いセーラー服が通りを渡っていった。イタチを連想させるしなやかな肢体と眼鏡の奥の丸い目。それと害獣らしい狡猾さ。根津邦子は高校生だった。

「さっちゃん! 付いて来らんねえべ」

冗談のレエスを被せた嘲りの言葉が投げつけられた。福永幸子はそれに応えて道を横断しようとする。邦子のようにはいかない。腰のすぐそばまでバンパーが迫る。クラクションと怒声。命からがら渡りきった幸子を邦子が抱き寄せた。

「さっちゃんはめんこいなあ。私、さっちゃんの素直さが好き。唇も」

邦子が幸子の顎を持ち上げた。幸子の唇に指を這わせる。

「私と駆け落ち、しよ?」


「さっちゃん!」

 ショートヘアの女性が幸子を呼び止めた。その顔が次第におかっぱ頭の高校生へと重なっていく。

「のぶちゃんか。何年ぶりかな。最後に会ったときはまだ大学生だったもんね」

えへへ、と信子が笑う。

「さっちゃんは会食出る?」

「いや、これで帰ろうと思ってる」

「――じゃあさ」

 定禅寺通りの一本裏に真新しい映画館ができていた。マイナーな映画のポスターが張り出されている。近頃はどこもアニメ映画の話題で持ちきりだったから、幸子にはこの静けさが心地よかった。

「さっちゃん、邦子と二人で東京まで映画を見に行ったことあったでしょう? 誰にも言わず3日も帰らなくてさ。さっちゃんのお母さんが泣きながらうちへ来たの。のぶちゃんなら知ってるでしょうって。でも、私は何も知らされてなかった。寂しかったんだよ。演劇部の3年生で私だけ仲間はずれにされて」

カウンターで買ったコーラを飲みながら信子が言った。

「だから、これはその仕返し。今度は私がさっちゃんをさらうの」


 車窓から黒い海が見えた。特急ひたちは勿来の関を過ぎ関東平野に入ろうとしていた。幸子の向かいの席に邦子が座っている。黒いワンピース、細い腕。青い血管の透けて見える手に新潮文庫の『若きウェルテルの悩み』が握られている。

「役者になるの。馬鹿みたいに人を喜ばせて、悲しませて、最後には死なせちゃうような役者」

邦子がにたりと微笑んだ。

「私とさっちゃんで舞台を作ろう。根津邦子はあなたに惚れているの」

「ありがとう。私ね、すごく嬉しい。でも、信子は?」

邦子から表情が消えた。列車がトンネルに入った。車内の蛍光灯が二人を青白く照らした。


 『曽根崎心中』の実写映画だった。あの頃の作品の復活上映だ。徳兵衛とお初の死に顔が網膜に焼き付いたまま照明が灯り、幸子は2時間ぶりの現実へ引き戻された。葵祭も過ぎた6月の仙台は都会の真ん中にいても土の匂いがする。仙山線で帰るという信子のために幸子は駅までの道のりを一緒に歩いていた。

「山形もいい所だよ。人が埋まるほど雪が積もるということもないし、ご飯もおいしい」

「ご飯が美味しいのは仙台だって同じでしょ?」

「確かにね。さっちゃんの家も野菜作ってたし。帰る前に実家へ寄ってくの?」

「あんな所行きたくもないけど、来たことを知られてるんだから行かなきゃないっちゃね」

 幸子は信子を改札で見送った。信子の体はどこも丸みを帯びていて、すっかり女だ。十代の頃のちびの信子の面影は無い。

「私さ、赤ちゃんできたのや。夫は山形で育てようって言ってる。心配ないよ。最近はすごくてさ、田舎にいてもこれで仕事ができちゃうの」

信子がキーボードを打つ仕草をした。

「田舎で仕事と子育てをして、子供が大きくなったら夫婦で喫茶店を開くの。のぶちゃんは幸せものっちゃね」

幸子には信子の表情が寂しげに見えた。ただ「うん」とだけ呟いて別れた。


 上野に着く頃にはすっかり日が暮れていた。邦子が浮浪者に声を掛けて段ボールを数枚貰ってきた。橋の下にそれを敷いて二人で寝た。季節は夏になろうとする頃で、少し肌寒いと言っても夜を越せないことはない程度の気温だった。

「信子は駄目。あの子には演技ができない。顔でどれほど笑っても泣いているし、得意になって演じているときにはそれが手に取るようにわかってしまう。あんなのは役者じゃない」

「それなら私はどうして?」

「素直なお馬鹿さんだから」

邦子は幸子にキスをした。細い指を幸子の服の下に潜り込ませ、幸子の肌を優しく撫でた。幸子は邦子に身体を任せた。自分と邦子の境目がわからなくなった。夜の底が白くなった。


 バスを降りた。幸子は宮城野区の実家の前にいた。家の隣の土地が畑になっていて、白髪の父がちょうど農作業に勤しんでいる。父は麦わら帽子のつばを持ち上げ幸子の姿を認めた。

 庭の野菜が食卓に並んだ。

「信子ちゃん、妊娠したんですってね」

母が言った。

「あなたも早く結婚なさいよ。遅くてもいいってもんじゃないの。30を超えても子供がいないだなんて、私の時代にはありえなかったんだから」

「幸子は邦子ちゃんが好きなんだろ」

枝豆をつまみながら父が言った。

「あなた! 馬鹿なこと言わないでよ。確かに幸子と邦子ちゃんは『駆け落ち』なんてこともしでかしたけどね、あれは若いからできたことなの。誰だって若いときにはそのくらいのことするものだわ。大人になったらちゃんと頼りになる男の人が欲しくなるものなの。幸子、そうでしょう?」

自分の服に染み付いた線香の匂いが幸子は急に気になり始めた。


 邦子の胸は甘い匂いがした。幸子は邦子のワンピースにしがみついて朝を迎えた。

「東京の演劇を見に行こう」

邦子が言った。誰もが知っているような有名な公演を見に行くお金はもとよりなかったから、大学そばの半地下の劇場でセミプロの舞台を見た。シュメールの女神が冥界へ降っていく内容だった。門をくぐるたびに女神は装身具を一つずつ外していった。最後にはもう脱ぐものもなくなってしまって全裸の女優が舞台の上に突っ立っていた。それが一種のストリップショーだったことを幸子が知ったのはだいぶ後になってからだった。あの裸体の美しさと、初めて見たような邦子の屈託のない笑みが高校時代の思い出だ。


 部屋の押し入れの奥に昔の鞄が仕舞ってある。幸子はその中にある黒い髪の房を取り出した。幸子の部屋の白熱電球が黄色っぽい光を落としている。根津邦子の髪はまだ光沢を失っていなかった。同じ袋の中に折り鶴が一つ入っている。幸子はそれを開いた。実のところ、もう何回もこの鶴を開いては折り直すことを繰り返してきた。何度見ても同じ「ありがとう」の文字が内側に書かれている。


 卒業式の日は吹雪だった。白い雪の中で邦子の髪がどこまでも黒い。

「このカーネーションと私の唇、どちらが赤いかしら?」

「それは流石にカーネーションだべ」

信子が雪玉を丸めながら答えた。

「さっちゃん、ハサミ持ってる?」

「おっ、雪玉相手に刃物ですかい? 信子ちゃん困っちゃうな」

「この村娘、私を辱めてなおその不遜な態度。許せぬ」

二人の寸劇が始まった。学校から離れるにつれ制服が疎らになっていく。

「それはそうと、あなたたちに渡したいものがあるの」

邦子は幸子からハサミを受け取り後ろ髪を切った。花束を飾っていたリボンでそれを2房に束ねる。

「小指を贈ることも考えたんだけど、それじゃ女優業の支障になっちゃうでしょう?」

邦子の表情にはいくらかの真面目さが混じっている。邦子は役者だ。この微妙な表情も、きっと隅々まで制御されつくしているに違いないのだ。

 その後、別れ際に邦子が幸子の手に折り鶴を滑り込ませた。幸子だけが鶴を持っている。


 この「ありがとう」という言葉を幸子は未だに解釈できずにいた。幸子だけに渡したのだから、それが件の東京旅行について言っていることは疑いない。けれどそれでは筋が通らないのだ。無理に筋を通せば邦子の像がゆがむ。美しい邦子をゆがませるよりは余程よいと思って、幸子はこの謎を抱えたままにしてきた。いつか明らかにするのによい時が来ると思うことにしていた。邦子はその前に死んだ。


 邦子は仕事の宛があると言っていた。

「私たちみたいな子を引き取ってくれる料理屋があるの」

「私、お皿洗いくらいしかできないよ?」

「大丈夫、上手くやれるわ。昨晩確かめたもの」

幸子はぽっと赤くなった。

「やっとわかった? やっぱりさっちゃんはめんこいっちゃ。他の人に食べさせるのは惜しいな。私一人でも稼げるかしら?」

幸子は邦子の袖を固くつまんだ。二人は歓楽街を抜けて街頭もまばらなあたりへ出た。古く大きな木造建築が威容を誇っている。その内の一軒の前で邦子が足を止めた。

「一緒に行く? それとも待ってる?」

「行くよ。行く」

 幸子は階段を降りてきた女性と目が合った。長い髪が乱れていて、持久走の後みたいに顔が火照っている。

「この店の主人の方はいらっしゃいますか?」

邦子が聞いた。女性が幸子の肩に手を置いた。

「泣かされるなよ、少年」

女性は奥の部屋に向かって呼びかけた。腰の曲がった老婆が杖を突いて出てくる。さっきの女性の姿は消えていた。

「根津邦子、成人してます。この店で働かせてください」

「顔のものを外しな」

老婆がしゃがれた声で言った。眼鏡を取った邦子をまじまじと見つめる。

「田舎臭い顔だね。家畜みたいな匂いがする」

福永は表情を変えず老婆を見下ろしている。老婆が福永のつま先の前を杖で二度叩いた。

「いつまで突っ立ってんだい?」

「福永幸子、私も同じです」

幸子は足の震えが止まらなかった。邦子に飛びつきたくなるのをすんでのところで堪えた。

「根津邦子だけ採用だ。客は今夜から取れるね?」

「もちろん」

「上がりな」

そう言うと老婆は黒電話のダイヤルを回し始めた。相手は常連の客らしく、老婆はさっきと打って変わって愛嬌のある声でしゃべっている。

「昨日と同じ所で待ってて」

邦子はそう言って幸子を抱きしめ、頬にキスをした。

 次の日の昼、邦子は3万円を握りしめて橋の下へ帰ってきた。

「銭湯へ行こう。それから、ご飯にしよう」

邦子は赤くなるくらいに肌をこすった。買いたての石鹸がすっかり小さくなった。体に行為の後は見つからなかったけれど、邦子は執拗に自分の体臭を気にしていた。近くの喫茶店でサンドウィッチを食べ、駅へ向かった。大きな劇場の前で降りた。当日券を2枚買うと幸子と邦子はまた無一文に戻ってしまった。演目は『ハムレット』だった。素晴らしい舞台だった。オフィーリアが死に、みんな死んだ。

 劇場から出て幸子と邦子は駅で別れた。邦子は今夜も客を取らなくてはならなかった。幸子は交番に入った。幸子はその場で保護され、邦子も店へ着く前に警官に捕まった。幸子の父が呼び出されて翌日二人を引き取った。鈍行を乗り継いで帰った。父は何も言わなかった。幸子と邦子は仙台までずっと手を重ねていた。


 邦子からは恨まれこそすれ感謝されるはずがないと幸子は思っていた。それでももし感謝されるとすればそれは幸子が邦子を社会の規範的な側へ連れ戻したからだ。しかしそんなことで感謝されたくはなかった。あの旅行の後、幸子たちは高校を卒業した。邦子はすぐに親の選んだ相手と結婚した。勝手に髪を切ったことでこっぴどく叱られてしまったと邦子が手紙に書いてよこした。幸子は東京の学校で演劇を学んでいた。無数のオーディションを受けていくつかの小さな役に当たった。卒業してからは芸術系の出版社に就職して東京の人になった。以来、仙台へは正月に帰るばかりだ。

 「ありがとう」の文字を幸子はゆっくりとなぞった。結婚してからは邦子が再び演劇に手を出したことはなかったらしい。夫との間に子供を持つこともなかった。夫婦仲は良かったと聞いている。夫は2年前に癌で死に、邦子も同じ病で死んだ。

 幸子は髪と鶴を持って深夜の家を抜け出した。テレビ前に置かれていた父のライターを無断で借りた。外は細い雨が降っていた。幸子はライターの火に折り鶴をかざした。焦げるばかりで火が移らない。黒く小さなカスになった鶴を幸子は靴底でねじり潰した。鶴は土になった。髪の房に火を当てた。毛が縮れていき不快な匂いの煙が立った。空気を含ませてやるとよく燃えた。それがすっかり灰になってしまうまで幸子は火を見つめていた。

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