それが私達の「どんでん返し」
澤田慎梧
それが私達の「どんでん返し」
「……なあ。『どんでん返し』の『どんでん』って、どんな意味なんだろ?」
書類に向かっていた彼が、不意にそんな声を上げた。大きな独り言……ではないだろう。多分、私に尋ねているのだ。
「急に何よ? 辞書でも引いたら?」
「いや、辞書にはさ、言葉の意味と『歌舞伎の
スマホをいじりながら彼がそう返す。
……「辞書」と言い張っているが、どうせネットで適当に検索した結果を読んでいるだけだろう。どうせなら、そこから「強盗返し」についても検索してくれればいいものを。
きっと私に尋ねた方が手っ取り早いと思っているのだ。私はウィキペディアか。
「『強盗返し』というのは、歌舞伎の舞台装置の事よ。こう、背景が後ろに倒れて行って、代わりに床から次の場面の背景が起き上がってくるやつ、見たことない?」
心の中で悪態をつきつつも、律義に答えてしまう私も私だな、等と自嘲しながら頭の中の知識を引っ張り出す。
すると彼は気をよくしたのか、更に質問を重ねてきた。おなじみのパターンだ。
「あー……なんか見たことあるかも。なるほどなぁ……。でも、むしろ謎が増えたな。『どんでん』の意味も分からないし、『強盗返し』なんて物騒な名前の意味も分からん。なんだ? 『畳返し』みたいに舞台装置で強盗をやっつけたから『強盗返し』なのか?」
「……そんな小学生みたいな発想が出てくる、貴方の頭の中の方が分からないわ」
思わず呆れ交じりのため息が出る。
こうやって彼が「分からん」を繰り返すのは、私から答えを得たいという意味なのだ。私はこの人の先生でもなんでもないのに。
「元々ね、江戸時代くらいに『
「おー、あるある! なんか懐中電灯みたいの持ってることあるな!」
「江戸時代に懐中電灯があるか!」とツッコミそうになるが、我慢する。彼の場合、分かって言っている場合も多いのだ。
こちらが余計な反応をするのを見て、楽しもうという腹かもしれなかった。
「その龕灯がね、岡っ引きの夜の捜索――多くは強盗探しなんかに使われてたから、『
「いやいや、じゅーぶんじゅーぶん! よく分かった!」
――また彼の俄か知識を増やしてしまった。私がいくら「後でちゃんと調べて」と言っても、彼がそれ以上調べたことなど一度もないのだ。
その俄か知識をまた、外で他人様に披露するものだから質が悪い。……加担している私が言える立場でもないのだけれど。
「……あれ? ちょっと待った。『強盗返し』の方は分かったけど、『どんでん』の意味はまだ分かって無くね?」
そして更に俄か知識を増やそうとしている。こういう彼のインスタントな貪欲さが、何より嫌いだった。
――だって、どうしても放っておけなくて、ついつい答えてしまうんだもの。
「……歌舞伎で『強盗返し』が動く時にはね、太鼓なんかの鳴り物の音を入れるらしいの。それが『どんでんどんでん』と聞こえるから、『強盗返し』のことを『どんでん返し』と言うようになった……そんな話を聞いたことがあるわ。さっきも言ったけど、私のはただの雑学だから。正しさは保証しないわよ」
「いやいや、今までお前のウンチクが間違ってたことってないし! いやー、ようやくすっきりしたわー」
――そのウンチクが本当かどうかなんて、確かめたこともないくせに。
そんな苦言をぐっと飲みこむ。律義に答えてしまう私も悪いのだ。放っておけば良いの。
でも、どうしても放っておけない。最早これは私の
「……そもそも、なんで『どんでん返し』の意味なんて気になったのよ?」
「ん~? いや、ほらさ。……俺達の関係にもどんでん返しが起こらないかな、とか考えちゃってさ」
「無いわよ、そんなの。今更だわ」
冷たく返す私の言葉に、「そっか」とだけ答え、彼が書類――離婚届と諸々の書面に目を落とす。
私と彼の離婚は、もう決定事項なのだ。覆らない。「どんでん返し」はあり得ない。
そもそも、お互いの人生を取り戻す為の離婚なのだ。ここで「どんでん返し」が起こってしまっては、私達はまたお互いに傷付けあい擦り減っていくだけの生活に戻ってしまう。
――それに、だ。
「どんでん返し」が元々、場面転換の為のものだというのなら、離婚こそが私達にとっての「どんでん返し」なのではないだろうか?
お互いに、新しい人生を迎える為に必要な舞台装置なのだ。きっと。
(了)
それが私達の「どんでん返し」 澤田慎梧 @sumigoro
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