カメの消えた空

柔井肉球

最終話

 カメが喋った。

 こいつを拾ってからすでに十年になるが、今まで口をきいたことなんてない。

 勿論、そんな想定をしているわけもない。

 だからといってカメが喋ったから何だよって気持ちもあり、僕はにごった目で、にごった水槽の中のコケの生えた砂利の上、仰向けでばたつく飼いガメを見つめている。


『聞こえなかったか、兄弟。俺をひっくり返してくれよ』


 幻聴を疑ったが、明らかに視線が交わっているし、何よりも言葉に合わせてしっかり口がパクパク動いている。

 ずん、という音と共に遠くで空気が震え、汚れた水面に波紋が立つ。


「やだよ」

『え!? 何でよ!? 冷たくね? 俺ら何年の付き合いよ』

「だって、お前臭いんだもの」

『はぁ!? 仕方ねーだろ。誰かさんが、かれこれ三ヶ月も、申し訳程度に水と餌を継ぎ足す以外に、世話らしい世話をしなかった結果じゃねーか』


 野太い声で、毒づくカメ。

 こいつ雄だったのか、なんて今さら気づく。

 彼女のオリモノの五倍は生臭かったから、てっきり牝だと思ってた。


『……あんま俺のエイトパックをじろじろ見るなよ。照れるじゃねーか』

「食っちゃ寝しかしてないお前の腹が、そんな大層な割れ方してるわけないだろ。甲羅の模様だよ」


 僕はしゃがみこみ、カメの腹をつつく。

 人差し指に臭いが移った。


『あっ、ふぅっ……! な、中々やるじゃねーか。もっと筋に合わせて優しくなぞらせてやってもいいんだぜ?』

「カメじゃなくてホモじゃないか」

『ホモは人間おまえらのことだろ!』

「サピエンスの話なんてしてないよ、爬虫類」


 ずん、という音がさっきよりも近づいてきている。

 僕はこいつをどうするか思案する。

 まぁ、普通に考えれば、研究機関に売り飛ばすっていうのが最もメリットがあるだろう。

 人語を解するカメなんて、高値がつきそうだ。

 あるいは、僕が金持ちの善人だったなら、珍しいペットを得た幸運を喜び、水槽とカメをピカピカに磨き上げ、上等な餌と水を与えて長生きを祈ったかもしれない。

 ただ、正直なところ今は、売り飛ばしに行く元気も、掃除をする気力も無い。

 だから、どうするでもなくカメを見つめているのだった。


『兄弟。お前さん、この水槽よりも淀んだ目をしてんなぁ。一体どうしちまったんだ?』

「大きなお世話だよ」

『荒んでんなぁ。まぁ、いいや。そろそろ腹減ったんだけど』


 僕は無言で、水槽の横にあるパウチから、カメ餌を四粒取りだす。

 人差し指と親指で砕くと、カメの周りにばらまく。


『……いや、これじゃ食えねぇよ』


 カメは抗議するように、再び足をばたつかせる。


「しょうがないなぁ」


 僕は人差し指の先に餌を付けると、カメの口元へ運んでやる。


『くっさ! 臭え臭え臭え! こんなもん食えるか!』

「元をただせば、お前の臭いじゃん」

『よく考えてみろ。自分のしたウンコは無臭か? 自分のだろうとなんだろうと、臭えもんは臭えんだよ!』

「はいはい、分かったよ」


 僕は一旦手を洗うと、再び餌を砕く。

 今度は美味しそうに咀嚼した。


『これよこれ。十年食ってるけど、良さは変わらんな』

「そんなに美味い?」

『おうよ。もし不味かったら、俺は今頃ここにはいないぜ?』

「ひっくり返って動けないカメが偉そうに」


 僕はため息をつく。

 ずん、という音がさらに近づいている。振動が、僕の心拍と重なる。


『なぁ、兄弟。そんなに荒れなくたっていいだろうよ。もぐもぐ。俺の記憶が正しければ、三ヶ月前まではもっと楽しそうに生きてたじゃねーか。もぐもぐ』

「そんな時もあったね」

『今のお前さんは痛々しくて見ちゃいらんねーぞ』

「……」


 僕は答えない。答えてもどうしようもないことを、口にするのは無駄だから。

 カメはしばらくこちらを凝視していたが、やがて諦めるように首を竦める。


『よし、じゃあこうしよう。俺をひっくり返してくれたら、お前の願いを叶えてやるぜ』

「願い?」

『ああ、俺に出来ることだったらな。何でもいいから言ってみ?』

「願いねぇ」

『ほら、色々あんだろ。どっかに旅行したいとか、空を飛びたいとか、辺りを火の海にしたいとか』


 ちょっと意味が分からなかったけど、僕は笑ってしまった。


『……おいおい、何がおかしいんだよ』

「いや、動けないくせにどうやって願いを叶えるのかなって思ってさ」

『やってみなきゃ分からねーだろう』


 カメの癖に、凄く真面目な表情に見えた。変温動物の癖に、声に熱が籠っている。

 久々に感情が動いた。

 これは、苛立ち……だろうか。

 僕の口から、自然と思いが零れ出る。


「……彼女に会いたい」

『ん?』

「会わせてくれ。もう一度でいい。五分でも、五秒でもいいよ。彼女に会いたい」


 我ながら、冷たい声だ。

 起きるわけがないことは分かっている。

 期待なんてしていない。でも……


『……そいつは無理だ。流石に死んだ人を生き返らせるなんて出来るわけない』


 カメの答えに、胸がずきりと痛む。


「知ってるよ」

『……すまねぇ』


 水面に僕が映っている。酷い姿だ。

 ぼさぼさの髪に、伸びっぱなしの髭。思わず苦笑する。


「とりあえず、ひっくり返すっていう話は無しだな」

『むぅ……』


 カメは手足をピンと張る。


「……? 何してるんだ?」

『見りゃ分かんだろ。五体投地ってやつだ。全力の謝罪だよ』


 何だそりゃ、と気が抜ける。

 

 ――キシャアッ!

 

 甲高い雄叫び。

 とうとう、すぐそこまで来ているようだ。


「もう、時間が無いな。ドブとかトイレで良ければ逃がしてやるけど」

『勘弁してくれよ。これ以上臭くなれっていうのか?』

「命には代えられないだろ」


 心の底から思う。死んでしまったら終わりだ。

 残される側はたまったものじゃない。特に、理不尽な死に方だったりすると尚更だ。


『なぁ、兄弟。もう一回チャンスをくれねぇか?』

「チャンス?」

『ああ。さっきとは違う願いを聞かせてくれ。色々あんだろう? 死にたくねぇとか、生きたいとかよ。あっ、彼女に会いに行きたいってのは無しだぞ?』


 心を読んだのだろうか。カメは慌てて付け加える。


「……そうだなぁ」


 僕は考える。

 彼女は死んだ。踏みつぶされて。

 例えば、トラックに轢かれたのなら、僕はそのドライバーを憎めたかもしれない。

 復讐の炎に身を焦がし、果たした後は心置きなく死ねたかもしれない。

 例えば、彼女が病死なら、又は自然死なら、僕は乗り越えられたかもしれない。

 運命なんだと受け入れて、歩き始めたのかもしれない。

 でも彼女は踏みつぶされた。

 理不尽な巨体で暴れまわる怪獣に。今まさに、ここにやってこようとしている怪獣に。

 そんな存在が現れるなんて、勿論想定しているわけもない。

 生物である分、自然災害より始末が悪い。彼女は明確な殺意をもって殺されたのだ。

 だからといって、何かが出来るわけでもないから、僕はこうして二人の思い出が詰まった場所で腐っている。

 カメが臭いのではなく、僕の身体が臭いのだろう。

 憎むことも出来ず、ただ彼女と同じ死に方を望むことしかできない自分。


『……なぁ、どうしてほしいんだよ』

「……取ってくれ」

『あん?』

「仇……取ってくれよ。彼女の」


 言いながら笑けてくる。笑いながら目頭が熱くなる。

 処理しきれない感情が、積もり積もって背中に伸し掛かってくる。


「バカみたいだよな、こんなの」


 僕はカメのお腹を優しく撫でた。

 本当にバカみたいだ。


『……なぁ、俺一個だけ、お前に隠してたことがあるんだよ』

「……?」

『怒らねぇで聞いてくれ。あ、いや、見守ってくれりゃいい。終わったらすぐ帰ってくるからよ』

「え? 何言ってんの?」

『実は俺さ、自分でひっくり返れるんだよ』


 そう言うと、カメは自分の頭と手足を引っ込める。

 次いで、その身体が小刻みに震え始めた。


「な、何だよ。一体何だってんだよ」


 水槽にひびが入った、と思ったら砕け散る。

 臭い水が部屋に飛び散った。

 やがて、両手足の生えていた穴から、勢いよく火柱が上がり、ゆっくりと……まるで回転花火のようにクルクルと回り始める。

 熱風が顔に当たり、思わず目を覆う。


『じゃあ、ちょいと行ってくるぜ!』


 言葉を残し、カメは天井を突き破ると遥か空へ。

 後には、奴が開けた大穴から覗く青空を、呆然と見上げる僕だけが残される。

 ガシャン、と何かが落ちた音がする。

 振り返ると、写真立が落ちている。

 僕はそれを、そっと裏返した。

 そこには、僕と彼女が二人で水槽を抱えて笑う姿が焼き付いている。


「……ちくしょう」


 そうならそうと、最初から言えよ。

 言葉にできず、胸に抱きしめて崩れ落ちる。

 怪獣の鳴き声が、やけに遠くへと消えていった気がした。


 

 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カメの消えた空 柔井肉球 @meat_nine_ball

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ