「ありがとう」で美味しくなる水と口裂け女と妹と

吉野奈津希(えのき)

似非科学と口裂け女と私と妹

 水に「ありがとう」などの『よい言葉』を聞かせると水の中に綺麗な結晶ができて、美味しくなる。と、いうのは憎き私の高卒シングル虐待糞ビッグマザーでそんなことが唯一私たちに教えたポジティブなことだった。狂ってる。


 それ以外の高卒ファッキンボットン虐待便所マザーのやったことといえば、私を殴り、妹ののぞみを殴り、蹴って、テーブルに叩きつけ、私たちが鼻血を布団や床に散らせばそこに私たちの顔を押し付け、謝罪させ、暴力と尊厳の破壊を徹底して行う。私たちは小学校に上がる前に爪は一通り剥がされたし、歯が生え変わる前だったものだから殴られた時に歯が折れたりした。

 タチが悪いのはそんな風に悪逆の限りを尽くすにもかかわらず一通り私たちに暴力だとか罵倒を振るった後に私たちを抱きしめて謝る。


「ごめんねごめんね、こんな弱くって、こんなに愛するのが下手でごめんね、私を捨てないでね、許してね、あなたたちだけは私を見捨てないわよね、お願いね。私変わるからね、あなたたちが誇れるようなママになるからね、お願いねお願いよ、信じてね」


 私は「なーにいってんだ、こいつ」なんて頭では思っているのに心はグワングワンに震えてしまって涙が出てしまうし、希はそれでワンワン泣く。幾度となくこのやり取りは繰り返されていて、絶対にこの時、アルティメットごみ溜めババアマザーの言葉は守られないことが99.9999999999%確定しているにもかかわらず、私たちはその言葉にすがろうとしてしまう。


 母親の渾身の謝罪と決意表明は守られない。

 水も美味しくなんてならない。

 言葉というのは祝福であると同時に呪いで、私はそれを呪いと認識することで必死に呪われないように祈る。

 これは愛じゃない。

 これは嘘なんだ。

 だからお願い、期待なんてさせないで。でも、希は呪われる。

 そして時が経って口裂け女が近所を闊歩するようになる。


▽▽▽


 私と希は地獄のような幼少期を奇跡的に、あるいは不屈の精神を持ってサヴァイブして小学校へ行き中学校へ行き、私は高校に進学する。

 私と希は年齢が一つ違うので一年遅れて高校に入学する。私は二年で希は一年。

 希は希で、生活があるし、というか私には私の生活があるし、ということであまり希の学校生活に干渉せずに私は自分の人間関係を構築する。

 希と一緒に学校へ行く。希は無口で、ただ一緒に通学路を歩くだけで別に何も話さない。


「じゃあ希、私はここで。また夜ね。私が今日は夕飯作るから」

「うん」


 そう言って希と分かれて自分の教室へ向かう。授業を受ける。時間が過ぎていく。

 アミとアヤノとカナエとお昼を取る。私は自作した弁当、アミとアヤノも持ってきた弁当、カナエは購買で買ったパンを食べる。

 アミはゴシップが大好きでとにかく本当か嘘かわからないことはペラペラ喋るし、私たちもアミほどでないにしろゴシップは楽しいのでそれに乗ってペラペラペラペラ話す。テレビの中で国の趨勢だとか、世界の行く末を話されるよりもごく小規模な自分たちの周りの話をされる方が当事者感覚があって楽しいし、私は身の回りのことが気になってしょうがない。


「トモチーさぁ、高野くんと付き合ったんだって」「え。まじ?高野と?」「まじまじ」「高野はないわー」「てかトモチーちょっと前に彼氏と別れたばっかじゃん」「恋の傷はは新しい恋で癒すんだって」「こりねえ〜」「高野はないわー」「えー、じゃあ他では?」「本田とか?」「本田もないっしょ〜」「カミ先の噂しってる?」「神谷先生?」「カミせん浮気してるんだってよ」「え、嘘、まじで?」「まじまじ、ホテルから出てくるとこ見たんだって」「ひえ〜相手は?」「となりのナカノ」「まじかよやべー」ゲラゲラ!


 でもそんな誰と誰が付き合っただの先生が生徒と浮気しているだの本当か本当じゃないのかよくわからない適当な話の後に、ふとアミが思い出したように言う。


「そういえば口裂け女がこの辺で出てくるらしいって知ってる?」


 絶対嘘だ。


▽▽▽


 口裂け女は1979年の春から夏にかけて日本で流布されて、社会問題まで発展した都市伝説らしくて、身長は長身で、二メートルを超えていて、学校帰りに子供に「私キレイ?」と聞いて、それに「きれい」と答えると「これでもキレイか!」と裂けた口を見せてきて包丁とか鎌とかハサミとかで口を斬り殺してくる。

 全然世代じゃないし正直古さしか感じないんだけど、小学校とかの時の図書室にあった怖い話を集めた本とかでは定番で、過去に流行った怖い話というのはどうにも今の時代でも何かを心の中に引き起こすある種の神性があるようで、私は「古いな〜」なんて思いながらもその話を読んだ小学生だったある日、震え上がりながら希と一緒に帰る。

 口裂け女のルーツとしては農民一揆の後に処刑された農民たちの怨念が口裂け女に化けたという話もあれば、整形手術だとか医療ミスで顔を傷つけられて精神をおかしくしてしまった女性という話もあって、果ては噂の広がりかたを検証するためのCIA……という説もあって結局バラバラだ。ルーツはきっとどうでもいいんだろう。

 でも、口裂け女という存在に人は普遍的な恐怖だとか魅力、のようなものを感じていてだから滅びないでそこに残る。

 そして私の通う学校でもそんな話題が出る。


「いや、友達の友達、とかじゃなくて一年生の高橋と長谷川と小峰と佐藤、カスミとタマエとミッチーが見たんだって言ってるの、全員別々に見たらしくて、それぞれ学年が同じ以外に接点がないのにそう言ってるんだよ? やばくない?」

「え、それって一年生が噂を作ろうとしてるんじゃなくて?」

「それがそうでもないっぽいんだよねえ。ゴシップが好きな人たちでもなくて、というか本人たちもあんまり信じられないくらいっぽいんだけど、話そうとするとブルブル震えちゃうくらいに、衝撃だったらしくて、嘘にも見えないんだよね」


 どうやらアミはその噂を聞いたらすぐに一年教室に直行し聞き込みをして、アミの部活のラクロス部の後輩ネットワークを駆使して裏取りまでがっつりやったらしい。探偵なれるよ、アミ。

 

 話をまとめると、口裂け女はオーソドックスで下校中に遭遇した生徒たちに「私キレイ?」なんて聞いてきたらしい。都市伝説という存在の強度故か、それとも立ち振る舞いが原因か出会った人たちはその瞬間に「あ、ヤバイ」と確信したらしくてダッシュで逃げるのだけど、しばらく走って息を切らして「なんだったんだ……」と思って、振り返ると口裂け女は息も切らさず最初からそこにいたかのように逃げた人を少し離れた場所からじっと見ているのだという。結局、口裂け女の質問には誰も答えなかったらしいけど。


「でもね、ここだけの話なんだけど」


 そうアミが言う。


「今回現れている口裂け女、昔虐待で口を裂かれたんだって」


 心臓を貫かれたような衝撃、冷や汗がジワジワと出てきておでこと首筋と脇にジワっと汗が吹き出る感覚に私は白い顔になる。


「それって、誰に聞いたの?」


 私は冷静を装って聞く。アミもアヤノもカナエも私の変化には気づかない。


「んー、なんかこれはみんな言ってたって感じでよくわかんないや。誰が言いだしたんだろうね」


 それでなんとなく、虐待というワードで重い話の雰囲気になってしまってみんなちょっと空気が沈んで自然とクラスとか学年のゴシップ話に戻る、ゲラゲラゲラゲラ!

 でも、私は嫌な汗がジワジワ出る。お昼休みが終わって授業が開始してもその話が頭の中で反響して離れない。

 私は昔のことを学校にいるのに思い出す。嫌な思い出がフラッシュバックする。


▽▽▽


 私たちの超絶ビッチゴミ屑ゴミ溜め生ゴミ三角コーナーマザーは私たちを躾と称して暴力を振るい、暴力を振るっているうちに自らが支配できる全能感に酔って恍惚として更に暴力を振るう。そのくせ私たちを愛しているというムーブを直後にとって自分が暴力を振るっているのは愛情ゆえだと自らに、そして私たちに徹底的に認知させる。その手口は我が母親ながら絶大で、芸術的で、私たちはどんどん母親に依存していく。

 私が夜眠っている時にファッキン地獄の肥溜め残飯処理のコンドームの残りカスマザーは私の布団に入り、私を抱きしめて囁く。


「あなただけが大切なのよ、お姉ちゃんだものね。最初に産んだあなたが大好きだぁいすき」


 そうして希の悪口をいう。


「あの子は私の言う事を聞かないし、私に歯向かってばかりだし、そうして私に手を上げさせるのよ、だけど子供は平等にしないといけないから、だから私はあなたにも手をあげてしまうの。ごめんね、痛かったでしょ。許してね。だって私はあなたのことを愛しているもの」 


 このドグサレクソビッチ排水溝のネズミの糞マザーはそれで私に罪滅ぼしをした気分になって平気で翌日も元気に暴力を振るう。

 そうしてあの日、私と希は口を裂かれる。カミソリでピィィィっと。


「あんたたちなんてね、どうせ男なんて寄ってこないのよ! あんたたちなんてね! どうせろくな男と付き合えないしどうせ幸せになんてなれないのよ! だって私の子だからね! 私の子供だもんね! だったら顔なんてどうなったって一緒でしょ! ほら!」


 そう言って私と希はカミソリで口を切られて血だらけになってアウアウ泣いて地面を這いつくばる。私は思う。殺される。

 それで精一杯叫ぶ。


「助けてえええええええええええええええええええ! 誰か! 誰か助けてええええええ!」


 その声が届き、連日私のド低脳頭空っぽスポンジ脳みそマザーの奇声を常々不審に思っていた近隣の住民が通報、警察が乗り込んできて私の叫びを止めるために首を閉めている狂った女を取り押さえて私たちは保護される。

 私たちはそのまま親戚に引き取られる。

 あの女は逮捕の後に病院にぶち込まれる。

 私たちは生き残る。

 希はその間、何も声を発さなかった。

 警察に引きずられて、パトカーに乗せられる私の、私たちの母親の叫びがリフレインする。


「お前たちが幸せになんて絶対なれないからな! だって私の子供、子供だからな! どうしようもないんだよ! 絶対に!」


 私はそれを忘れようと努める。実際にあまり思い出さないでいられる。

 だけど、こうしてたまに思い出してしまう。

 私は頬に手をやって、撫でる。幼い時の回復力は凄まじく、私の顔に傷なんて残っていない。希にも残っていない、はずだ。私の記憶が正しければ。


▽▽▽


「ただいまー」


 私はおじさんとおばさんの家に帰宅する。おじさんとおばさんは二人とも働きに出ていて、今でスマートフォンをいじっている希と出くわす。


「ただいま」

「おかえり」


 希は私に関心がないようにスマートフォンをいじってインターネットを見続けている。ちらっと覗く。ゴシップサイト、LINE、漫画アプリ、Twitter、インスタグラム、ひゃーめまぐるしい。サッサッ、サッサッとスマートフォンを駆使して希はアッチコッチの情報を貪っている。

 希はマスクをつけていて、椅子に体育座りで乗ってそうしている。マスクをつけている。

 でも希の身長は二メートルなんて全然ない。マスクは病気の予防だったり、まだ冬の気温なのに花粉が飛び始めているものだから、花粉症の私と希はこの時期ずっとマスクを付けている。私だって学校じゃずっと付けている、家に帰ると外しているけど。

 だから、希は口裂け女じゃない。


「夕飯私作るわ。希、なんか食べたいもんある」

「特にない」


 と希はやる気がなさそうに言う。


 おじさんとおばさんは大抵帰ってくるのが夜の8時を過ぎるので私と希の二人で夕飯を食べることが基本になる。アスパラとベーコンを炒めたものにオムレツ、切り干し大根と豆腐のお味噌汁、それと冷蔵庫に入っていたお漬物と焼き海苔とご飯。朝ごはんみたいな内容だけど私は気にしないし、希は要望を言わなかったので文句はないはずだ。


「いただきます」


 と私と希はこの家に来てからの習慣を実践して、食事を始める。私たちがこの家に車では食事の時に「いただきます」と「ごちそうさま」を言うことすら知らなかった。


「希、最近どうなん?」

「最近って?」

「学校とか」

「お姉ちゃんと変わらないよ、普通に過ごしてる」

「そうねぇ」


 そうは言っても、私たちが今過ごしているものが普通なのかなんてわからない。何となく普通っぽい気はするけど、どうしようもなくズレていてもそこに気付けないのではないかという気持ちがある。


 希と話す時は、なぜだかアミやアヤノやカナエと話す時みたいな距離感で気軽に喋れない。多分、私も希も家族と話す方法がわからないからだ。家族の在り方を見せてきたのはあの脳みそゲロシャブ排泄物肥溜めマザーだけで、おじさんとおばさんも私たちの生活の面倒を見てはくれるけど、それは最低限であって家族として、(家族、それが何なのかわからないけど)接してくれている、というには距離がある。

 だから私と希は喋り方がわからない。先生と話す時、友達と話す時、近所の人と話す時と違って家族とどうやって話すかわからないのだ。


 そうやって淡々と食事の時間は過ぎる。事務的で無機質な会話だけがポツリ、ポツリとある。

 希は手早く食べ終わって「ごちそうさま」と小さな声で言って、流しに食器を持って行って、そのまま自分のコップに冷蔵庫で冷やしていたミネラルウォーターを注いで、その後何も言わずに自室に戻る。


 私は希が自分の部屋で何をやっているか知っている。


 希はひたすらコップの水に「ありがとう」といい続けている。今でも。夜の時間の儀式とでも言うように、ただひたすら、一時間ぐらいかけてミネラルウォーターに「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう」と言い続ける。

 水が美味しくなると祈って。美味しくなるということが真実だと願って。

 私はそれに何も言わないで、隣の自室で聞いて涙を流す。


▽▽▽


 口裂け女の騒動は収まることがなくて、最初はお昼の時のちょっとしたゴシップだったものがだんだんと規模が大きくなる。お昼休みだけではなくて、授業と授業の合間の10分の休み時間にも話題になる。授業が終わった瞬間に「聞いた聞いた!」「あの子も口裂け女見たんだって!」「口裂け女は虐待で〜」「実は医者の親に生体実験をされたせいで〜」「実は人間じゃないんだって」とかワッと話が始まる。私は聞いちゃいられない。


 口裂け女の話題は無限に繰り返されて徐々に口裂け女の存在に尾ひれがついていく。もう既に何人も殺しているだの、綺麗な顔なら男も女も憎いのだだの、いやそもそも親に愛された人間なら皆殺してしまうのだだの、実は子供を流産させた母親なのだだの、米軍の人体実験の被害者なのだだの、実は宇宙人だだの、果てしなく噂は広がって面白おかしく仮想の恐怖対象として話を盛られていく。

 そうしているうちに「実はこの学校の生徒が口裂け女らしいぜ」なんて話になって、マスクを付けている人はマスクを取って見せることが流行になる。


「マスクみーせて」「バァ!」「うわー!って普通!」「ワハハハハハ!」って感じで。


 そこの流行に希は乗れない。何となく適当にやり過ごすことが出来ないで、「マスクみーせて!」の言葉に「嫌だ」と言ってイヤホン付けて音楽鳴らして机に突っ伏して眠りだす。

 流行に乗らない人間は目立つので格好の餌食になる。希が口裂け女だと流布され始める。私はブチ切れるし、アミとアヤノとカナエもそれに協力してくれるのでそういうデマを流した人間をめちゃくちゃ非難して黙らせる。

 だけど、そういう噂は止まらないで結局希の耳に届く。


 希は学校に行かなくなる。


▽▽▽


 希は自室にこもりがちになる。夕飯を私はコップに入れた水と一緒にお盆に乗せて部屋の前に置いておく。ご飯は減らない。ただ、「ありがとう」という声は聞こえて希が生きていることはわかる。

 希が学校に来ない間も口裂け女の噂は広まり続ける。徐々に「綺麗って言ったら刃物もって追いかけ回された」なんて話が広まり始める。口裂け女の噂が加速して、実際に傷つけられた人も出てくる。その人は幸いなことに顔じゃなかったけど、口裂け女が振り回したハサミで腕を切られたなんて言っている。


「なぁなぁ、あんたの妹って口裂け女って本当なん?」


 なんてふざけた調子で聞いてきた話したこともない同じ学校の生徒に反射的にビンタしてしまう。


「な、な、な、何をするのよぉ」


 目の前で急な暴力に震え上がって、動揺したまま喋る目の前の女生徒に更にビンタを叩き込む。ビンタビンタビンタビンタビンタビンタビンタビンタビンタビンタ。私はそのビンタにビートを、リズムを見出す。ロックンロールを感じる。私がビンタを叩き込む、「うぐっ、ふぐうう、ううっぐッ」というビンタされる女生徒の声が挟まって更にリズムに乗っていく。ビンタうぐっビンタふぐうビンタううっビンタぐっビンタうぐっビンタふぐうビンタううっビンタぐっビンタうぐっビンタふぐうビンタううっビンタぐっビンタうぐっビンタふぐうビンタううっビンタぐっ。いいね! これが音楽だ! フロアを盛り上げていこう! ここに音楽が! 正義がある! 私は加虐心を刺激されてアドレナリンがドバドバ出る。


 私は妹のためにこれをやっている。妹を守るためにやっている。これが正義で、こいつを徹底的に痛めつけて、根本から叩き折って、絶対に立ち上がらないように、歩く時にまっすぐ前を向けないようにしてやって、叩き折るのが希のためなのだ。これはゴミ掃除のようなものであって、目の前のゴミをゴミ箱に叩き込んで世界を少しずつでも綺麗にしなくちゃいけないのだ。


 本当に?


 それって本当に希のため?


「やばいってこれ以上やったら退学なっちゃうよ!」


 そう思った瞬間に必死に止めてくるアミの声を聞いて私は我に帰る。でもその時には先生たちがわらわらと教室に乗り込んでいて私を羽交い締めにして取り押さえて進路指導室へ連行する。


「妹を変な噂で馬鹿にされて、ひどい噂を流されそうでカッとなってやってしまったんです」なんて言い訳をする。でも、私はそんな綺麗な感情じゃなくて、私の母親と同じどうしようもなく醜い加虐心だったり自己陶酔だったりして、私がついエスカレートしたことを理解している。


 ――お前たちが幸せになんて絶対慣れないからな! だって私の子供、子供だからな! どうしようもないんだよ! 絶対に!


 私はあの女の言葉を脳にリフレインさせる。

 私の言い訳を聞いて、教師たちは一定の同情を示したりする。でも「気持ちはわかるけどこれはやってはいけないことだ」と言われて、多分停学になるのだけど処分は追って伝えるから今日は帰るように言われる。

 おじさんとおばさんも仕事中で電話が繋がらなくて、事情は理解してもらえたので授業が残っているけど一人で帰ることになる。

 そうして私は口裂け女と出会う。


▽▽▽


 帰り道に妙に背の高いロングコートの女がいる。背丈は2〜3メートルあってゆらり、ゆらりと揺れていて身長だけじゃなくてその佇まいから「あ、これ普通の人じゃないな」ということを理解してしまう。


 私には背中を向けていたのだけど私がその背中を見た瞬間、振り返る。

 マスクをしている。でも、それ以上に私が震え上がるのは、マスクではなく目元だ。


 見たことのある、目。


「お母さん……」


 どうして私がそんな言葉をこぼしてしまったかはわからない。その瞬間にありとあらゆる恐怖が私の内側から噴き出してくる。私は足が震える。少し失禁しそうになる。涙が溢れてくる。

 知っている目元、知っている瞳、姿形が明らかに違うのに私は口裂け女の瞳にあの時の瞳を重ねてしまう。

 そしてフラッシュバック。


 ――あなただけが大切なのよ、お姉ちゃんだものね。最初に産んだあなたが大好きだぁいすき。


 私はすがりたくなるような心地と、一刻も早くここから離れたいという気持ちに挟まれる。

 私は実のところ、何にもあの日から恐怖を克服出来ていないのだと理解する。私は泣き叫んで、逃げた日から何も変わっていないのだ。

 口裂け女の手にはカミソリが握られている。あの日と同じだ。

 体が自然と動き出す。ここから逃げ出そうと私に意思の前に体が反応する。私は全力で走りだす。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 同じ想いを繰り返すのは嫌だ!


 私は全力で走り続ける。一旦立ち止まったりも、振り返ったりもしない。家について震える手で鍵を取り出して、鍵穴になかなか刺さってくれない鍵に涙を流しながら、転がり込むように家に入り鍵を閉める。

 全身がガクガクに震えていて、手先も足先も冷たくなっている。吐き気が止まらずにトイレで嘔吐する。

 涙と鼻水と吐瀉物を撒き散らして、トイレを流して、洗面台で顔を洗い流して、制服を洗濯機に叩き込んで回して、キッチンで水を一口飲んでふと思う。


 希は大丈夫かな。


 そして希の部屋をノックして、返事がなくてドアを開けて私はようやく気付く。

 希がいない。

 部屋を見渡す。希は全然物欲がない。私はアルバイトをして漫画だとか本だとか友達と出かけた時のお土産だとかを買ってとにかく部屋を埋め尽くしてしまうのだけど、希の部屋は対照的で殺風景だ。ミニマリストか何かなのか?

 そう思ってしまうくらいに希の部屋には最低限の物しかない。


 ベッド、制服、カバン、クローゼット、学習机。

 机の上に空のコップが置かれていて、「ありがとう」と書かれたポストイットが付けられているのを見て気分が悪くなる。

 机の引き出しをあげるとポストイットが山ほど入っていて全てに「ありがとう」と書かれていて、私は更に泣いて吐きたくなる。

 でも私は心をここで折るわけにはいかない。それどころではないのだ。

 机を良く見るとメモ紙が置かれているのが見える。


『おみず、おいしくなった』


 そう書かれたメモを見つける。そんなわけないだろ。


▽▽▽


 口裂け女とかの都市伝説は結局のところ人の噂話から始まる。「友達の友達が言っていたんだけど」「これは親戚が話していたことなんだけど」なんて風に言われる。それは実態がなくて、掴めない。


 この話が重要なのは、実際のところ噂の出処ではない。重要なのは、なぜそれが拡散していくのかってところだ。


 つまるところ、みんな怖くてしょうがないからそれを話すのだ。一人で抱え込むにはしんどい、恐怖などのネガティブな感情を誰かと分かち合いたくて伝える。

 伝える、伝える、伝える、伝える。そうしていくうちに元々の話は欠片もなくなってしまう。そこの根本にあったのは「怖い」という震え上がる被害者の感情だったにも関わらず、最終的に話として残るのは「恐怖を与える存在」加害者の存在だけだ。

 私はもっとちゃんと考えるべきだったのだ。アミが最初に口裂け女の話をしだした時に噂の出処がどこだって言った?


 ――一年生の高橋と長谷川と小峰と佐藤、カスミとタマエとミッチーが見たんだって言ってるの。


 思い出せ、希の学年は何年だ? 私の下、一年生じゃないのか?


――全員別々に見たらしくて、それぞれ学年が同じ以外に接点がないのにそう言ってるんだよ。


 それはアミの目線だ。私はそこを疑ってかからないといけなかった。私は自分の知らない希の関係を想定して、考えなくちゃいけなかった。

 希は怯えていたんだ。きっと、あの女に。あの女がいつかやってくるのではないかってずっと。だからそれを、その本当の感情を、ちょっとした物語にして周囲の人に話した。

 それが拡散した。


 希から学校の友達の話なんて聞かなかった? それは違う。


 それは私が聞けなかっただけだ。私が友達の話を希にしなかったように、希も私に友達の話をしなかっただけだ。

 私たちの間には本当に互いを知るための会話なんて存在していなかったのだ。

 希がスマートフォンをいじって探していた情報はなんだ? 何を調べていて、何を人に伝えていた? ワンプッシュで情報を拡散できる時代、家でいくらでも希は情報をばら撒くことだって出来たんじゃないか?


 希に友達がいないわけがない。姉である私、どうしようもないあの絶望的な環境を一緒に生き抜いた私に友達がいるんだから。妹である希に出来ないはずがないのだ。

 これに根拠なんてない。決めつけだ。でも、それの裏取りは今必要じゃない。今必要なのはそんなことじゃない。私が必要なのは希を迎えに行くことだ。希を恐怖から引きずり出すことだ。希と向き合うことだ。


 私はあの子に叫びを上げさせる必要がある。かつて私がなりふり構わず、どうしようもなく情けなく叫んだように、希の心からの言葉を引きずり出してやる必要がある。希が自分から出せなくなっている感情という膿を出してやる必要がある。

 そのためには恐怖にもう一度立ち戻らなくちゃいけない。

 手が震える。足が震える。内臓がキュウって絞まる心地がする。


 簡単だ。私ならできる。私ならできるよ。

 震える手足を無理やり動かして家の外に出る。

 簡単だ。どうってことない。


 失敗したら、口が裂かれて死ぬだけだ。


▽▽▽


 私は希を迎えに外に出る。

 口裂け女は簡単に見つかる。私があちこち歩き回って探すまでもない。

 何故なら口裂け女はそもそも私を付け狙っているのだから。あちらから勝手に私を見つけてくれるし、私と対峙してくれる。


 口裂け女はゆらり、ゆらり、と私の方へと向かってくる。ドロリ、とした視線を私に向けてくる。私のかつて腐るほど見た、あのクソッタレの豚マザーの視線だ。それに私は震え上がるけど、私はそれを意に介しちゃいけない。

 私が向かうのは口裂け女なんてどうでもいい集団ヒステリーじゃない。

 近づいてきた口裂け女が私を見下ろす。ふうー、ふうー、という息遣いが聞こえる。私の視線は口裂け女のお腹のあたりで、それなのに息遣いは耳元で聞こえる。口裂け女の手元にはキラリ、とカミソリが光る。


「私、キレイ?」


 そういう声が聞こえるけど、私は無視する。私は言わなくちゃいけないことを言う。


「水に感謝なんてしても美味しくなんてならないよ」

「私、キレイ?」

「あんなの嘘だよ、嘘っぱち。バカでしょ、なんでそんなの信じてるんだろーって言われた時冷めてたよ私。ばかなんだよ脳みそヘドロの東京湾の水質体液クソビッチマザーはさ」

「私、キレイ?」


 口裂け女が腕を振るう。カミソリが私の頬をかすめる。私の頬がぱっくりと裂けて血が滲むけどまだ口は裂けていない。ただ怪我をしただけだ。


「そんなの信じてるの、本当にバカ。どうせ言った本人だって覚えてないよ。なんであんなの信じちゃう人がいるんかなー」

「私キレイ?」


 スパッ、スパッ、スパッ、スパッと私の全身がカミソリで切られて行く。血が全身から滲んで私は血だらけだ。

 でも、私は話すことをやめない。そもそもコミュニケーションというものは血だらけになって、泣いて、笑って、それでもするものなのだ。だから、私はコミュニケーションをしなくちゃいけない。


「希! 聞け! 私と話をしよう!」

「私キレイ?」

「私たち家族は終わってたし最低だったよ」


 家族だからって、関わり方がわからないからって、それでも私は血だらけになりながら希と話をしなくちゃいけない。


「嘘だよ、嘘なんだよ。水に感謝して美味しくなるなんて嘘! あの女が、お母さんが私たちを愛しているなんてぜーんぶ嘘! 希だって知っているんでしょ? あの女、希にも寝ている時に囁いたでしょ? 愛してるって、本当に愛しているのはあなただけで、私が邪魔だって。あの女、私にも言ってたよ、私だけを愛していて希が邪魔だって! あはははは! あの女嘘しか言ってない! とんでもない根っからのクソビッチだよ!」


 ――あなただけが大切なのよ、お姉ちゃんだものね。最初に産んだあなたが大好きだぁいすき。


 嘘つけ。

 お母さんは私だけに布団で「愛している」と囁いていたわけじゃない。希にだって同じことをやっていた。でも私も希も愚かだから、そんな言葉にすがって、お母さんからの暴言に、暴力を甘んじて受け入れていた。

 私も希も、お母さんに愛されたくて、愛されていると信じたくで愚かな道化で在り続けていた。


「やめろ! やめろやめろやめろ! やめろ!」


 口裂け女が叫ぶ。私はやめてやらない。口裂け女なんて知らない。私が話したいのは希だけだ。私たちはもっと話をしないといけない。希から声を引き出すまで私はいくら傷つこうと言葉を紡がないといけない。


「だからね、希」


 全身から血が溢れ出る。ああ、これもう死んじゃうかもなあ。でも仕方がないかな。コミュニケーション怠った罰なのかな、なんて思いながらそれでも、私は話す。


「母さんは、私たちを愛してなんていなかったんだよ」


 私は目の前の希を抱きしめる。

 私はずるり、と希を抱きしめたまま地面にずり落ちていく。


「助けて……」


 希は言葉をこぼす。

 私の目の前に、口裂け女はもういない。

 そこにいるのは血だらけで真っ赤っかの私と私の大切な妹の、希。

 そして希は、叫ぶ。


「助けてえええええええええええええええええええ! 誰か! 誰か助けてええええええ!」


 希は私を抱きしめて、これまで聞いたことがないくらいの大声で叫ぶ。口裂け女なんてもうどこにもいない。私の目の前にいるのは希で、どこかの誰かがイメージしたどうしようもない恐怖の偶像なんかじゃない。

 希はここにいて、私は希と抱きしめ合っている。


「お姉ちゃん! お姉ちゃんしっかりして! 誰か! 誰かぁ!」


 私はその声を聞きながら意識を手放してブラックアウト。

 ああ、ここで終わりかな、そう思って私は漆黒の中に堕ちる。


▽▽▽

 

 と、そこで終わっていれば私はなんていうか物語的に格好良いが、実際のところ体の表面をスパスパとカミソリで切られただけでヤバい血管とかは切られていなくてショックで失神しただけで私は入院もせずに包帯まみれで帰宅する。希は返り血なんて付いていなくて、動揺して口をパクパクさせていて説明もできなかったものだから、傷だらけの私を希が発見したと周りの人は思って事情だけ聞かれてその日のうちに帰宅する。


 私の部屋で私は希と向き合って座って見つめ合っている。


 あんなことがあったけど、それでも私は希とどうやって話したらいいかわからない。希もたぶん私とどうやって話したらいいかわかっていない。

 家族との話なんて、一体全体どうやったらいいかのかなんて私たちにはまだわかっていない。


「ねえ、結局毎日さ、部屋に持っていった水って飲んでた?」


 それでも、会話はするべきなのだ。決定的な軋轢にそれがつながったとしても、それでも会話をしようとするべきなのだ。


「ぶっちゃけ」

 ぶっちゃけって言った。希ってぶっちゃけって言うのか。知らなかった。


「怖くて飲んでなかった。美味しくなかったら、変わってなかったらどうしようって」


 恐怖というものは実態をあやふやにする。飲んでしまえば簡単に答えがわかることでも、確かめることを出来なくさせる。口裂け女も同じだ。そこにいるのはただの怯えた少女であっても、恐怖が伝播するうちに実態のない化け物になる。その化け物が人を襲う。


「じゃあ一緒に飲む?」


 そう言って、私と希は並んでミネラルウォーターをコップに汲んで、一緒に「ありがとうありがとうありがとう」と言って一気に飲む。


 ぷはぁ。


「全然変わらない」


 そう言って希は笑いながら泣く。私は希と手をつなぐ。


「全然変わらないね。でも嫌じゃないよ。希とこうやって水飲むの」


 そう言って、私も泣いてしまう。

 希が「ありがとうありがとう」と水に聞かせ続けていて、その理由をなんで私が覚えていたかって私も頭じゃそれを嘘だって思っていても心の奥底では信じてしまっていたからだ。お母さんの言葉が事実であってほしいと思っていたからだ。

 希はそれを試して結局飲めなくて、私は試さないことで真実に蓋をした。

 何かから必死に目をそらすことは、その何かから結局目をそらせていないということだ。

 だから、これから私たちは本当に本気で一つずつ向き合っていかないといけない。繋がるために、抜けだすために。

 希と私。私たちと世の中、私たちと母さん。それは世界と向き合うということで、世界は遊びとは言えない地獄のようなコミュニケーションの中にある。

 私と希は、なんとかしてお母さんから脱さないといけない。私たちは幻想だった母さんの呪いを一つ解いたように見えるけれど、そんな一つの呪いを解いたくらいで全てが解決するような精神を私たちはしていない。お母さんの悪性は私の中にも、そしてきっと希の中にもあって、私が学校の人間に暴力を尽くしたように、希が口裂け女になってしまったように、ほんの些細なきっかけで急に溢れてしまうかもしれない。私たちはいつだって暴力性を帯びている。

 同時に、でもそれは人間みんな一緒なのだ。


 皆の恐怖が口裂け女を語り、やがて本当に口裂け女を生み出してしまった。  

 希というただ母親に怯えていて、それを人に歪めて話しただけの少女を口裂け女という怪物に変えてしまった。信じることは何かを歪めてしまうし、一切合切何もかもを信じない人はいない。人は大なり小なりどうしようもなく加害者なのだ。

 絶対に幸せになれない、なんてお母さんの言葉に囚われないことは本当に難しくて、今であっても私はその言葉が少し怖いけど、そもそもこの世に断言できることなんて存在しないし、真実は人の数だけ違うのだ。信じることで感覚は簡単に変わるし、信じることで口裂け女だって現実化する。

「ありがとう」なんて言い聞かせた水がおいしいかどうかなんて、いくら科学的に否定されようと人の心が全てに影響する以上、結局のところ飲んでみるまでわからないのだ。

 だから、私と希は喋る。


「希、何食べたいの?」

「カレーライス……甘口で」

「カレー!? 甘口!? マジで!?」


私は激辛くらいの辛口カレーが好きで「うえ〜好み合わね〜わかりあえね〜」なんて思いながら甘口カレーを作って二人で食べる。

 下手くそな会話を私と希は必死にしようとして、人生で初めて喋る人みたいになりながら会話する。食事をする。


「あの、姉さん」

「なに?」

「カレー、ありがとう。お、おいしいよ」

「どういたしまして」


 そんな会話をしながら私たちは夕飯の時間を過ごしていく。

 甘口カレーは苦手だけどこうして希と食べるカレーは美味しいなぁ、なんてふと、思う。

 夜が更けて、私は希と一緒に同じ布団に入って眠る。今度は一方を貶して、持ち上げるための愛の話なんてしない。私たちが考えるのはこれからどうやって学校に復帰するか、どうやって学校の人間関係をやり直すか、どうやって遅れた勉強を取り戻すかとかそういうことであって、口裂け女だとかそういう非日常の話じゃないのだ。


 どうか希のひどい噂が学校から消えますように。

 どうか私が学校でやり直せますように。


 私たちは互いが幸せになることを、みっともなくて情けなくても、幸せになれることを祈る。

 柔らかな暖かさを感じながら、私たちは穏やかな眠りに落ちる。今日まで私と離れないでいてくれたあなたの存在にありがたさを感じながら。〈了〉

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「ありがとう」で美味しくなる水と口裂け女と妹と 吉野奈津希(えのき) @enokiki003

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